星渡りの夜

蒼野あかり

 1 

 気づけば彼は、船に乗っていました。小さな波にさえ耐えられなさそうな、木の船でした。そこに乗っているのは、彼だけでした。

 彼は、星の河の上に、居りました。サラサラと、星が流れていきます。船は、ぷくりぷくりと浮かんでいます。

 辛うじて上と下はわかりますけれど、前も後ろも分かりません。船頭の方が前の気もしましたが、背中側が進むべき方角のようにも思えましたし、右かもしれないし、左かもしれなかったのでした。そもそも、進むべき方角はないのかもしれないと、彼は思いました。

 だって、何処を眺めても、さらさらと輝く星たちしかいませんから。それはとても美しかったけれど、同時に恐ろしくもありました。

 だいたいにして、進むための道具がありませんでした。此処にあるのは、船と、彼と、光と、闇だけでした。櫂も、棒っきれだってありません。風が吹くこともありません。それでも船はぷかぷかと浮かんでおりました。


「何処へ行きたいの?」


 まるで虹がかかる時のようにゆっくりと、声が降ってきました。その声が進むように、彼が視線を上から下へと落としますと、猫がおりました。赤茶色のその猫は、行儀よくきちんと、彼の目の前の椅子に腰かけておりました。


「わからない」

 彼は答えました。

「わからない」

 猫は繰り返します。


「だいたい、何処へだって、行けないじゃないか」

「何処へだっていけるさ。行こうと思えば、何処へだって」

 猫は当然といったようにたんたんと答えながら、そのピンと伸びた髭を人差し指で弾きました。彼はその髭の方を向きましたが、やはり、数えきれないほどの白い星があるばかりでした。

 遠くで、があがあという泣き声が聞こえてきました。

「あの声は、なんだい?」

「渡り鳥さ。決まっているだろう?」

「此処にも、鳥はいるのか」

「君は随分可笑しなことを言うね」

 猫は、くるくると笑いました。どうして笑っているのか、彼には分かりませんでした。

「此処にはなんだっているし、何にもいないんだよ。当たり前じゃないか。学校で習わなかったのかい?」

「そんなこと、習わないよ」

 なんだい、こいつは。猫のくせに。僕が本気を出して、ちょっと驚かしてやったら、きっとこいつは逃げ出してしまうに決まっている。今度何かやったら、そうしてやろう。

 彼はすっかり不機嫌になってしまい、唇をこれでもかというくらいに横一文字に伸ばしました。そして、腕を組んで、足を組んで、大人みたいに踏ん反り返ってみました。これはなかなか、具合がいいぞと彼は思いました。こうしていれば、きっと、何にだって立ち向かえるだろう。

「大きな、穴がね」

 猫は、やはりきちんと座ったまま、水面を眺めて話し始めました。それでも彼は、その格好からぴくりとも動きませんでした。

「時々、空いているから。それには気をつけなくてはいけないよ。入ったら、穴のむこう側へいってしまうんだ」

 猫は水面へ手を伸ばし、星屑を掬いあげました。猫の指の隙間から、金平糖のように、ころころと星が零れてゆきました。

「大きな穴へ、入ってはいけないのかい?」

 口一文字も疲れてしまったので、彼は猫に尋ねました。

「わからない。恐ろしいことに、思えるけれど」

 猫にもわからないことがあるのかと、彼は少々驚きました。それでも、腕組はやめませんでした。

 猫はくるくると自分の髭をいじりながら尋ねました。

「君は、誰かを探しているのかい?」

「そうだったかもしれない。でも、見つからないよ」

 そればかりは、彼にもはっきり分かっておりました。いくら探しても、何処を探しても、見つからなかったのですから。

「探しているのなら、きっとその人は、何処かにいるんだよ」

「いないよ」

「いないのなら、探さないよ」

「いないんだったら」

 彼はなんだか泣きたくなってしまったので、ぐんと足を組み替えました。そうして顔もぐんと上に反らしますと、そこにもまた、星の河があるのでした。


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