第九章 イスバハン王国  7月 3日 午前7時

 葵達はろくに眠ることもできず、夜を明かした。

「何かわかったことある?」

 葵は徹夜でパソコンに向かっていた茜に尋ねた。茜は大欠伸をしてから、

「世界中の主だった情報部のホストコンピュータにアクセスしてみましたけど、イスバハンのことは記録されていませんね。不思議なくらい、出て来ないんです」

「そう。じゃあ後は美咲と大原君か」

 葵が言うと、茜はニタッとして、

「それと篠原さんでしょ?」

「うるさい!」

 葵はプリプリしてバスルームに入ってしまった。

「眠いと機嫌悪くなるんだから」

 茜は半ば呆れ気味にそう呟いた。


 一方美咲は、朝早くから外務省の門のそばで神戸を待っていた。

「あっ、神無月さん」

 神戸は美咲に気づき、駆け寄って来た。

「どうしたんですか、こんな朝早くから?」

「実は……」

 美咲は理由を説明した。すると神戸は、

「昨日も言いましたが、もう手を引いた方がいいですよ。イスバハンは危険な国です。貴女も命を狙われますよ」

「そうならないために教えてほしいんです。イスバハンはどんな国なんですか?」

 神戸は周囲を見渡してから、

「省内では盗聴の恐れがあります。24時間営業の店にでも行きましょうか」

「はい」

 二人は近くのファーストフード店に入った。そこは朝食を摂る学生やサラリーマンでごった返していた。

「イスバハンはアラブ諸国で一番危険な国です。外務省が調査しているのは、イスバハンの内状ではなく、国の成り立ちなのです」

「どういうことですか?」

 美咲は注文したハンバーガーを手に取って尋ねた。神戸はコーラを一口飲んで、

「イスバハンはフランスの統治領でした。さしたる独立運動もなく、フランスはイスバハンから手を引き、国は王制のまま独立しました。僕らの先輩の中に、これを不審に思った人がいて、フランスに行って調査したんです」

「変に思ったって何をですか?」

 美咲はハンバーガーをトレイに戻した。神戸は逆にハンバーガーを手に持ち、

「一般的に、統治領となった国は王制が倒されて傀儡政権ができるか、独立後、王制が倒されるかするものなんです。しかし、イスバハンの場合、統治領になる前からずっと王制が続いており、しかも王族も直系で、王朝が交替した訳ではありません。妙なんですよ」

「……」

 美咲は呆然とした。イスバハンの不可解さは、相当根深いようだった。

「先輩はフランスでいろいろ調べたんですが、フランスの外務省が全く非協力的で、結局何もわかりませんでした。ただ一つ言えることは、フランス政府は、イスバハンを非常に恐れていたということです」

「恐れていた?」

 美咲の手が止まった。神戸もハンバーガーをトレイに置いて、

「ええ。俗に言う、『腫れ物に触る』ような雰囲気だったそうです」

「どういうことですか?」

 美咲は身を乗り出して尋ねた。神戸は彼女の顔が間近になったので、ほんの一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直して、

「聞いてくれるな、とまではっきり言われたそうですよ。イスバハンの国民総生産なんて、日本の神奈川県一県分もないのですよ。しかも軍隊は旧式のもので、フランス軍の一部隊で制圧できる程度のものです。それなのに何故そこまで及び腰なのか、皆目見当がつかなかったそうです」

「……」

 美咲も神戸の話に疑問がたくさん湧いて来た。何故? しかし、答えはわからない。

「外務省の内部資料で、フランス政府高官の死亡者リストのようなものがあります。自殺や事故死、それに行方不明者が載っているものです」

「それが何か?」

 美咲は念を押すように言った。神戸は頷いて、

「そのリストに載っていた人達の中に、何人もイスバハンの国情を調査していた人がいたんですよ。妙でしょう?」

「!?」

 美咲は改めて自分達が関わろうとしている国がどんな国なのか、思い知らされた。

「ですから、貴女達ももう、イスバハンの人間と関わらない方がいいですよ。死亡した人は全員、自殺は原因がわかりませんし、事故にしても不自然でした。しかし、フランスの当局は、それ以上調べようとしないのですよ。何かを恐れるかのように」

 神戸の声は悲痛そうだった。美咲は声を潜めて、

「つまり、暗殺の可能性があるということですか?」

「そうです。神無月さん、お願いですから、手を引いてください。僕は貴女を危険な目に遭わせたくないんです」

と神戸は美咲の右手を両手で握りしめて言った。しかしその目は真剣そのものだった。

( この人がここまで真剣に止めようとするほど、イスバハンという国は危険なの? )

 美咲の額にじんわりと汗がにじんだ。


 大原は警察庁でイスバハンに関する情報を集めようとしたが、イスバハンを検索しようとすると、パスワード入力画面が現れそれ以上先に進めなくなっていた。資料室に行っても、ただの一枚もイスバハンに関するものは見つからない。なす術もなく、彼は警察庁を出た。

( 何故だ? どうして情報を見られないようになっているんだ? )

 公安調査庁が動いたのは、葵達がイスバハンと関わっているためだろう。だとすれば、公安調査庁は絶対に何か知っているはずだ。いや、知らないはずがない。「日本のCIA」とも「日本のFBI」とも呼ばれることのある組織がイスバハンの情報を掴んでいないとは考えにくい。

( しかし、俺がいることを知りながら、連中は尾行をしていた。あそこに行っても、何も見せてもらえないな )

 大原はいろいろと考えを巡らせながら、通りの向こうに見える法務省を見た。距離にして数十メートルしか離れていないが、警察庁と公安調査庁の官庁としての距離は相当離れている。

「無駄かも知れないが、行ってみるか」

と大原は呟き、歩き出した。


 葵はバスルームを出ると、そのままファラのいる寝室に行った。

「王女様、起きてらっしゃいますか?」

 葵が声をかけると、ファラはベッドから起き上がって力なく微笑み、

「はい。夕べは一睡もできませんでした」

 眠そうな目で答えた。葵はニコッとしてファラに近づき、

「心配なさらないでください。大丈夫です。今、朝食の用意をしますから」

「ありがとうございます」

 ファラは言い、ベッドから出て、

「私もお手伝いいたします」

「いえ、お休みになっていてください」

「何かしていないと、おかしくなりそうなんです」

 ファラのその言葉に、葵はハッとなった。

( そうだよね。普通の女の子に、耐えられるようなことじゃないんだよね……)

「わかりました。一緒に作りましょう」

「はい」

 ファラは笑顔で答えた。


「篠原、ちょっといいか」

 篠原は、情報本部内の廊下で、上司に呼び止められた。

「何でありますか?」

「お前、イスバハン王国のことを調べているようだが、理由を教えてくれないか?」

 上司は口調こそ穏やかであったが、有無を言わさぬ威圧感で尋ねて来ているのが、篠原にはわかった。

「自分の幼なじみが、イスバハンの王女の護衛を依頼されたからであります」

 篠原は答えた。上司は篠原の顔をジッと見据えたままで、

「護衛? 何故イスバハンの王女は、日本政府に依頼しないのだ?」

 こいつ、知っていながらわざととぼけて訊いてやがる、と篠原は心の中で舌打ちした。そして、

「それは自分にはわかりません。何か事情があるのでしょう」

「本当に知らんのか?」

「はい」

 上司は篠原に背を向けて、

「お前は防衛省のエリートなのだぞ。つまらん同郷意識で、自分の出世コースを棒に振るなよ」

「はっ!」

 篠原は深々とお辞儀をしたが、腹の中は怒りで煮えくり返っていた。

( つまらん同郷意識だと? ここがどこか外の路地裏だったら、記憶がなくなるくらいぶん殴ってやるところだ! )

 彼にとって自分の故郷、つまり忍びの里は、命に代えても守らなければならないところだ。そこを「つまらん」と言われたことは、面と向かって「バカヤロウ」と言われる以上の屈辱である。

( 情報本部にも俺達の動きを快く思わない連中がいるらしいな。葵達、大丈夫だろうか……)

 彼は葵のことがとても心配になった。


 内閣総理大臣橋沢龍一郎は、執務室の椅子に座り、ある電話を受けていた。

「もちろんです、大統領閣下。貴国の不利益になるようなことはいたしません。はい、そのとおりです。計画がうまく進めば、今まで以上の協力をすることが可能となりましょう。では後程、首脳会談で」

 橋沢首相は、ニヤリとして受話器を置いた。

「日本が変わる。もうすぐ……」

 その時、机上のインターフォンが鳴った。橋沢は迷惑そうにボタンを押し、

「何だ?」

「最高顧問がお見えです」

「お通ししろ」

 橋沢にとって、最高顧問とはただの年寄りに過ぎなかったが、まだ邪険にすることはできない。党の内外に隠然たる力を持っているからだ。

「橋沢、元気そうだな」

 執務室に入りなり、小柄な着物姿の白髪の老人は言った。橋沢は立ち上がって老人に近づき、

「岩戸先生もお元気そうで何よりです。本日はどういうご用向きで?」

 老人はソファに無言で腰を下ろし、あごで向かいを指し示した。橋沢は慌てて向かいのソファに座った。

「お前、何をしでかそうとしている?」

「はっ? 何のことでしょうか?」

 橋沢はシラを切るつもりでいた。しかし岩戸老人は、

「とぼけるなよ、若造。アメリカの大統領と、党には内緒で何かを話し合っているらしいではないか? それにアフリカの王国の件もだ」

 橋沢は、どこから情報が漏れたのだと一瞬焦ったが、

「党に内緒とは他人聞きが悪いですよ、岩戸先生。党執行部は了承済みのことです。幹事長や、総務会長は知っております。それを反対派の党幹部が、ねじ曲げて噂を広めているのでしょう」

 しかし岩戸老人は眉をひそめて、

「ならば何故、内閣官房がせわしなく動いているのだ? アメリカ合衆国へ何人もの人間を派遣した上、防衛庁の情報部の幹部まで動員しているらしいではないか?」

 さらに詰め寄った。さすがに橋沢はグッと言葉に詰まった。

「アメリカとの密談はよしとしよう。しかし、解せんのはアフリカの王国、イスバハンの件だ。正式な国交もない国の王女に監視をつけ、国王を極秘で招いたりしているのは、どういうことだ?」

「そ、それは……」

( このクソジジイ、一体どこでそんな情報を? )

 橋沢は、岩戸老人の底知れぬ情報網の存在に恐れをなした。

「言えぬ理由があるようだな。お前の顔にはっきりとそう書いてあるぞ」

「……」

 橋沢の額を汗が滴り落ちた。

「お前、よくわからぬ国に首を突っ込み、日本を破滅に追いやるなよ」

「そんなことはいたしません。私は常に日本国のことを考え……」

 言いかけた橋沢を岩戸老人は遮り、

「一世紀前、日本はロシアに勝ったことに勢いづき、破滅への道を歩み始めた。わしはまさにその最後の瞬間に立ち会った。だからこそお前に問うておるのだ。つまらん企みをして、一億の民を追い込むようなことにならんだろうな、と」

 右手の人差し指で橋沢を指し示した。

「アフリカや西アジア諸国は、我が国には推し量ることのできない闇を持っている。イスラム教とユダヤ教、そしてアラブとイスラエルの確執。何でも信仰の対象としてしまう日本人には窺い知ることのできない部分があるのだ。わかっておろうな?」

「はい……」

 岩戸老人は立ち上がり、

「そのこと、ゆめゆめ忘れるなよ。お前には一億国民の行く末が託されているのだからな」

「は……」

 橋沢は立ち上がり、深々と頭を下げた。岩戸老人は橋沢に背を向け、執務室を出て行った。

( 老いぼれが……。この俺は、先人の轍を踏むほど、愚か者ではない )

 橋沢には橋沢なりの、自信と計略があった。


 葵達は朝食を終え、リヴィングルームのソファで寛いでいた。

「日本食、ほとんど食べられるのですか?」

 葵が尋ねると、ファラはニッコリして、

「はい。日本食はとても健康に良い食事です。日本人が長寿なのも、頷けます」

「それはどうもありがとうございます」

「それより、殺し屋達を殺した犯人のことなのですが……」

 ファラが言い出したので葵は、

「セシオさんから聞きました。王家に仕える、守護者が現れたのですよね」

「そうですか。セシオが話したのですか。その守護者はファヴールと言うのですが……」

 ファラの顔色は冴えなかった。葵は不審に思って、

「どうされたのですか?」

「ファヴールはフランス語です。イスバハンの言葉ではありません。昔イスバハンにいたフランス軍の中の情報部員が流したニセの噂なのです。その者は、イスバハンの女性と恋に落ち、軍を脱走しました。そして、イスバハンの独立を助けるために、ファヴールという暗殺者を捏ち上げて、フランス軍を撤退させ、独立を勝ち取らせたのです。ですから、王家の守護者は存在しません。恐らく、真犯人はソレイユでしょう」

「ソレイユ!?」

 ファラが最初に会った時、教えてくれた最も手強い殺し屋の名前だ。

「セシオさんは、ファヴールの存在を信じているのですか?」

「王家の者以外は、皆信じています。王国の危機には必ずファヴールが現れ、救ってくれると。王家はファヴールの噂のおかげで、今日まで存続しているのです」

 ファラの話は、葵にとって非常に衝撃的だった。

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