第9話 PHILEOO ④

 開店して間もなくポツポツと客が訪れる。

 カリスの所為でやや甦ってしまった別世界の意識を閉め出し、アイマは人間としての感覚へと修正する。此処はいつもの職場、今はいつもの勤務時間だ。


「愛さん御指名でーす」

 ボーイの富永が抑揚の薄い声を投げてくる。彼は地味な容姿だが生真面目で、何事もまめに取り組んでくれる。不思議と従業員キャスト達に人気があり、彼女らの愚痴も相談事もよく持ちかけられていた。もっとも、アイマはこの仕事を始めてから何か文句を言ったことも特にない。逆に言えば同僚ほどこの仕事に求めているものがないのかもしれない。

 ソファから腰を浮かすと左隣から視線を感じ、ちらりと見やればユイが睨むような眼つきで見上げていた。

(メンドクサイ娘ね……)

 ユイはこの店で一番指名が多い所謂いわゆる“ナンバー嬢”なのだが、なぜかアイマを敵視してくる。ほとんど口を利いたこともないし彼女の座を奪おうとしたこともないのに……と言っても小娘のちっぽけなプライドや嫉妬心くらい、長く生きてきたアイマに見抜けないわけもなかった。それに、彼女はとても聴力みみがいい。


「赤坂さん、こんばんは。今日は早いわね」

「こんばんは。愛さんに逢いたくてね、残業逃げてきちゃったよ」

 三十代半ばのスーツ姿の男性が隣に腰を下ろすアイマを見ながら目尻を下げる。“愛”はアイマの源氏名だ。

「二週間くらい前にも同じことしてたわね。クビになってもしらないわよ」

「そりゃ困るなぁ……収入なくなっちゃったら愛さんに逢いに来れなくなるし」

 情けない顔でおどける赤坂の前でアイマは“いつもの”お酒を作る。

「お世辞は嫌いじゃないけどね、いい加減な人は嫌いよ?」

「分かったよ、ちゃんと仕事も頑張る。そんな風に言ってくれるキャバ嬢は愛さんくらいだよ」

 マドラーをアイスペールの中へ戻し、まだ氷が緩やかに回っているグラスの曇りを拭って赤坂のコースターの上にそっと置く。そしてアイマは視線を彼の隣の男性へと向けた。

「初めまして。赤坂さんのお友達ですか?」

 初めて見る顔だが、赤坂と同じくらいか、やや年上というところかもしれない。

「会社の後輩で山下。こんな顔だけど俺より三つ下なんだよ。四つだっけ?」

「三つで合ってます。初めまして、えーと……愛さん?」

「愛です。よろしくお願いします。山下さんも焼酎で大丈夫ですか?」

「はい、もう何でも」

 やや緊張しているのが伝わってきた。こういう店に来た経験があまりないのか、あるいはアイマが綺麗だからか。

 彼女は彼の自己紹介の機会を奪ってしまった赤坂に内心で嘆息する。こういうところが彼の欠点でもある。いつでも前に出ようとし、相手を立てる気遣いがやや薄い。


 ちょうど山下の分の水割りを作り終えたところで彼の前に黒服が立った。

「美亜さんです」

 富永が紹介したのは、つい最近入ってきた19歳の子。身長は164センチとアイマに近い高さで、顔立ちは少しキツめの美形。年齢より随分と大人っぽく見えるため一見すると二十半ばかそれ以上の印象を受ける……が、性格は年齢以下の幼さだ。

「美亜でーす! おにいさんカッコイイ~! アゴヒゲ似合ってますね!」

 山下の右隣りに腰掛けるなり、彼女は彼の顔に大胆に近づき瞳を輝かせる。よく瞬きをする彼女の付け睫毛がしぱしぱと元気に躍った。コンパクトに盛り上げた髪は鮮やかに金髪で、ピンクのドレスはギャザーがたっぷり入ったふわふわのショートドレス。太ももがちらりと覗いている。

 彼女の勢いに完全に気圧され目のやり場を探している山下を見てアイマは思わずクスクスと笑った。

「なんだ、随分元気な子が入ったね。じゃあ乾杯しよう、愛さんアミちゃんも飲んでよ」

「ありがとう、じゃあ頂くわ」

「わぁーありがとー!」

 新たに二つの水割りを作りながらアイマは内心で「亜美じゃなくて美亜よ、美亜」と赤坂に突っ込みを入れていた。だが源氏名を間違われた本人が気付いていないのを見てどうでもいい気分になる。

(そのうち自分で“亜美”って間違えそうね)

 無邪気な彼女にそんなことを思いながら、四人で乾杯をした。

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