寺院焚滅


『謎歌』


巫峡の奥津城処は蜘女の巣網

坤儀の奥津城処は竜女の臥所(ふしど)

溟海の奥津城処は蛭女の御厨(みくりや)



 

 泉の水が赤々と赫(かが)やいている。

 覗きみると寺院が炎上していた。


 内部では尼僧の屍が燻(くすぶ)り、炎を壁に鬼共の影が踊る。

 土牢の封印が破れたらしく、洞窟にも煙と妖鬼が侵入する。

 おそらく水魔王の先兵だ。邪魔な枷(かせ)となった女児を抹殺するためか。

 力ある水の眷属ではなく下級の魔物らなのは、女児が地中に封印されているせいで、“混沌の指輪”の解呪が不完全のままであり、まだ動けぬからにちがいない。そして、眷属や女児の弱点である火で攻めさせるためだろう。

 閉ざされた壺で過ごした永い歳月に、女児の魔法はかなり熟達したが、肉体はひ弱なものに変わっていた。

 知能が低いとはいえ武器を手にした奴らが群がり寄ってくる。力押しで攻め立てられては抗しえない。

 女児は七つある室(むろ)の最後にある、いきどまりの室にまで追い詰められた。


 粘つく白い蜘蛛糸を放って入口を塞ぐがすぐに破られる。

 女児は今まで使ったことのない、地行の呪文を必死で唱えた。

 地霊系魔法は体質と折り合わない。女児は地と対立する風の属性だからである。

 だが、地に浸透する水の属性も具えていた。

 躰の構成を変え、周囲の組成を変えながら、女児は岩に潜り込む。

 瀝青(タール)の中を泳ぐように重い抵抗があり息ができない。

 躰(からだ)を徹(とお)り抜ける硬い鉱物が、女児を傷つけ血の帯を曳く。

 身を削られては再生の呪文を唱え、また削られては再生を繰り返す。

 黒犬頭の土鬼らは、糖蜜に群がる蟻のように 血痕を慕って追いすがる。


 行く手を塞がれて地面に出れず、女児は果てしなく下降していく。

 女児が精魂尽きたとき、山の最奥に達していた。

 そこは宏大な宮殿を思わすような、壮麗きわまりない大洞窟だった。



 聖地である彼方(あなた)の高い山脈の硲(はざま)に、明け方に沈む星々の通い路となるといわれ、聖泉の場所よりもさらに深い裂け目があった。

 女児は玻璃のような壁に縋(すが)りながら、その底を|襤褸々々(ぼろぼろ)の躰(からだ)で歩いていた。

 衣は切れ端しか残っておらず、引き摺る素足を血が伝い落ちる。片腕は繋がっているだけでぶら下がり、片方の乳房は刮(こそ)げて胸肉が覗いてている。

 長いことかけ治癒の呪文を唱え続けているが、魔力はもう尽きていてさしたる効果はない。かろうじて手を擡(もた)げられるようになっただけだ。

 行く先に岩扉が聳(そび)えている。その片側には蛭女、もう片側には竜女が彫られていた。蛭女は傍らの剣に触れ、竜女は傍らの鏡に触れ、もう一方の手を頭上に差し延べ、互いに指先を合わせていた。

 女児が近寄ると音もなく独りでに開いた。そっと足を踏み入れると泉の湧くように、星明りを思わす静謐(せいひつ)な光が生まれた。

 光は沁(し)み入るようにして躰の傷を癒やしていく。

 瑠璃(ラピスラズリ)、翠玉(エメラルド)、碧石(サファイア)、瑤瓊(ルビー)、琥珀(アンバー)、瑪瑙(アゲイト)、紅玉髄(カーネリアン)月長石(ムーンストーン)、石榴石(ガーネット)、橄欖石(ペリドット)、蛋白石(オパール)、黄昏石(トパーズ)、黒曜石(オブシディアン)、蛍石(フローライト)、孔雀石(マラカイト)、珪孔雀石(クリソコラ)、水晶(クリスタル)、紅水晶(ローズクォーツ)、紫水晶(アメシスト)、黄水晶(シトリン)、金剛石(ダイヤモンド)――。

 黒曜の壁と床を石の花々のようにあらゆる貴石宝石の結晶が撩乱していた。

 向こう側は遠くて見通せない。上は底知れない穴を逆さまに覗いているようだった。

 足下で水の波紋のように転位の魔法陣が拡がる。最初は金と銀で、それから虹に変わり――。


 此処(ここ)は洞窟の中央辺りのようだ。離れて仰け反らなければ、その全貌を掴(つか)むことさえできず、巨大で身の毛がよだつような、けれど喩えようもなく美しい、魔物の抜け殻が、躰(からだ)の片側を地に埋もれさせて、眠るように横たわっていた。

 その上半身は女体で白い真珠のような光を帯び、下半身は悍(おぞま)しい蜘蛛の姿し蛋白石(オパール)のような虹色が耀(かがよ)う。蜘蛛の躰に並ぶ複眼は聖堂の円蓋のようで、馬上槍のような剛毛の生えた大樹のような片側の脚が、金剛石の尖塔のような爪を地に深く突き立て、柱廊の穹窿(きゅうりゅう)のように女児に覆い被さっていた。

 瞼(まぶた)はうっすらと閉じられていて唇にはやさしげな笑みが浮かんでいる。何故か、懐かしさと慕わしさとが女児を捉(とら)えた。



 ――妖魔女王ラウフェイ様、またここでお会いできました。あれから、随分長く……。


 女児は我知らず跪(ひざまづ)き祈りの姿勢をとる。そを知れるものは少なく口にすれば禍は必定故に、語られることもなく記されることもなかった真名。

 創世にありし“星の乙女達”であった姉妹の内の一人が“混沌の指輪”によって堕ちた姿形だった。

 かすかな吐息の如く、そっと呟きが洩れ、秘められていた、想いが溢(あふ)れ出て、澄んだ涙が零れた。


 ――これはあたいじゃない? あたいの身代わりになって下さった仙女様の心だ。

 それは限りない憧憬と恋慕といえるほどの感情だった。

 この世のあらゆる災厄を生み出した妖魔女王は聖仙女によって斃(たお)されたと伝わるがちがうのだろうか。

 あの仙女像が何へと祈っていたのか、女児は悟った。心ない神々ではなく此(こ)の方に祈っていたのだ。


 ――仙女様が身を捨ててあたいの中に入られたように、妖魔女王が仙女様の中に入られたんだ。

 どういういきさつだったか、それが何かはわからない。けれど、そうだという確信のようなものがあった。



 具足のふれ合う音と耳障りな叫び声がした。

 妖鬼らが侵入したのだ。

 

『下がりおれ、虫螻共(むしけらども)。ここは妾の奥津城(おくつき)なるぞ』

 静かで冷ややかな叱責が女児の口から零れるように出た。

 妖鬼共が慌てて転びつつひれ平伏(ひれふ)し、その姿勢のまま石に変わっていく。

 それへの一瞥(いちべつ)すらない傲然たる振舞(ふるまい)。

 女児は呆然としつつ、己の身に宿っている存在の強大さに翻弄されていた。


『そなたまで硬直(かたま)ることはないぞ。聖仙女(ブリジー)の選びし娘であるそなたにいささかの手助けをしてやろう』

 そのものは己自身である女児に嫋(たお)やかな笑みを投げかける。

『この身は抜け殻ゆえ此処にさしたる力は残っておらぬが遣い切りさえすれば、そなたを導いてくれる彼の者を召喚(よびよせ)る呼び水くらいにはなろう』



 女児は大蛸の触手の如き形をなす禍の渦潮に侵蝕された世界の神夢を思い出す。

 虚空の玉座に凭(もた)れ鴉のように不吉な黒衣を纏った、長身痩躯の魔術師の苛烈ともいえる眼差しの呼びかけを――。


 女児はいま、星辰界を幻視し、その中を歩む。

 玉座に魔術師の姿はなく、女児は捜すために見回す。


「だが、破滅にしろ救いにしろ門は開かれねばならぬ。

 それを為しえるは魔族と妖精相反する血を併(あわ)せた娘」

 遠のき、また近付く声がする。接続が安定しない。

 女児はどうしようもなく追い詰められたような焦燥にとらわれた。妖鬼共に追われていたときの比ではない。

 取り返しのつかない決定的なことへの戦慄(おのの)きだった。


「リュティーよ、リテュエルセス。

 汝は扉にして我は鍵なり。

 いまや我を呼べ、我らが約定の時ぞ」


 声は女児の傍らにあり、そして接続(つな)がった。



 指輪の解印は不完全なもので、主は水の封印に呪縛される。

 水魔王は妖鬼共の使役により、枷(かせ)となる娘の抹殺を謀り、寺院は焼打ちに見舞われる。


 女児は土牢を脱出するが、妖鬼どもに追い詰められ、異界から力を召喚しようとする。

 かくして“扉”は開き、知識の盗人、不世出の魔術師にして、神々の屍肉を喰らいし鴉と呼ばれる者が応じる。


 天空より下れる炎、大地の子宮を貫く。

 破水した溶岩に村々が呑まれ、陣痛の呻きが邑々(むらむら)を根こそぎ覆(くつがえ)す。



 このとき、三つの世界が玻璃のように砕け、欠片から一つの世界に再構成された。

 どこまでも孤独な女児を要にして――。

 

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