第13話 “扉の向こう”
ガラス戸の向こうには体育館の入り口が窺えるが、ここではやる気持ちを抑えつつ頭をもう一度左に向けてみよう。すると、横にはわざと目立たぬ位置に存在する、部屋に気づくことができるはずだ。
扉の上に
『女子更衣室』と。
× × × × × × × ×
――真条くん、やばない?
――ヤバい、マジヤバい
――マジ芸能人襲来って感じ、オーラありすぎでしょ、トキメキヤバい。
――しくったわ。あーし今日、体力テストだから、すっぴんなんだけど~。マジしくじり、ノーメイクノーライフヤバい。
もし今、足を踏み入れたら、だいたい三ワードくらいで交わされる会話の話題に顔をしかめる者も当然いたことだろう。
事実、騒がしい室内で一人、黙々と着替える彼女の顔がそうだった。
「くーろき、さんっ」
丁寧に折りたたんだ制服一式をしまい、ロッカーを閉じた瞬間、真横にその顔があり
しかし、驚きはしたもののすぐにその感情の色は引っ込み、
「……何かしら、麻倉さん」
「お隣、よろしいですか?」
言うや否やこちらが答えるより先に、
普段はかしましいクラスの中心集団に属しているはずの葵が、わざわざ群れを離れ、壁際の目立たぬ所でいつも着替えているこちらのもとへ来たことに、稚奈は眉をひそめる。
「まいっちゃいましたねぇ、朝からあんな一騒動」
脇を抜けようにもリボンをシュルシュルと取り、ブラウスのボタンを外しつつも身体をこちらに向け、会話中ですよと言わんばかりの葵はどう見ても進路妨害でしかない。
嘆息。
どういう気なのかと不審さを隠そうとはせずに、話だけは合わせてみる。
「……そうね。でも転校生が一人来たくらいのことでしょう? 騒ぎすぎだと思うわ」
「あ、違います違います。そっちもなんですけど、ほら、今朝の駅でのやりとりですよ」
「何度も言うようだけど、あれは……」
「もう私、本当に感動しちゃいました。あんな勇気ある行動はなかなかできることじゃありませんもん」
勝手に感動されても困るのだ。あれは繰り返すが、ただの失態に他ならない。見るに見かねて後輩と思われる少女を卑劣な痴漢魔から助けたはいいが、駅員に突き出す前に逃げられてしまっては元も子もない。警官でたとえたら、ひったくり犯をせっかく捕らえたのに隙を突かれて逃げられたようなものだ。
まぁ結局、それは未然に防がれたのだが、あの――
「……彼」
「はい?」
「たしか、麻倉さんの幼なじみって言ってたかしら?」
あの痴漢が逃げようとした時にとっさに突き出された手、そこから先は目で追いきれなかった。
気づけば、気絶した痴漢の上にマウントを取っている彼の姿があり、その姿はまるで、
「あ、
そうだ、その件について聞いておかねばならないことがあったと、
「その、いいかしら……」
「? はい、どうぞ?」
「……正直、あのとき、聞き逃してしまったのだけど、彼は何て言ってたの?」
本に集中していて、気がついた時にはクラスが騒然となっており、一斉に視線を向けられていた。戸惑うままに、
もちろん最初に何故という疑問が思い浮かんだ。
そして、次に誰がという思考が展開していき、状況から推察するにどうもあの真条という転校生が告白してきたらしいと判断した。
よくわからない。
よくわからないが、答えは決まっている。定型文だ。
今まで何度となく告白された経験はあったが、いずれもこの言葉を返してきた。それで終わらせてきた。ましてや、今回はそれ以前の話だ。まともに自己紹介もしていない。ただ存在だけを認識したばかりの関係。なのに告白などという身勝手な好意を表明してきた。
どうしてか。
答えなど、想像するまでもない。
だから、そう伝えて終わった。終わったはずだ。
ただ一つ問題があるとすれば、肝心な告白の言葉を聞いていなかったのだ。気持ちの問題でしかないが、単純に否定だけするのもまた、フェアではないと稚奈は思う。
だがまさかあの空気の中、ストレートに聞き返す訳にもいかず、また後で正直に聞ける相手というのも
とくれば、諦めるしかない。
はずだったのだが、
幸いにも、今ここにはわざわざ接触を試みてきた人間がいる。
「あーいやーそのー」
目線を泳がせつつ、葵は何かに迷うような素振りを見せていると、
「――このクラスで気になる人はいますかーって質問を受けたんだよ、真条くん」
既にジャージ姿になって、髪もバンドでツインテールにまとめているあたり、
話に加わったということは、これまでの流れは聞こえていたのだろう。ならばと、
「前園、さん? それで、……なんて?」
「
ぽかん。
口が開いた。
見れば、あちゃーと言わんばかりに顔を手で覆う葵と、千紗も千紗で誠に残念ですが……とありとあらゆる手を尽くした後で親族に悲しい知らせを伝える医師の面持ちで立っていた。
ええと、と稚奈もこめかみを揉みつつ、ようやく絞り出す。
「それだけ?」
――黒木、
などと言うものだから、てっきり「一目惚れしました。好きです。」とそのようなことを発言したのだとばかり思っていたが、
「やー……、まぁそうですね。うん……」
「あれはうぶちんが悪い……さすが、うぶちんの『ちん』は、にぶちんの『ちん』なだけあるよ……」
葵は
つまりはこういうことである。
仮にHという男子高校生がいたとして、仮にWという女子高生のことが気になっていたとする。これは仮の話である。
そしてとある教室にて、数十人の前でちょっとWのことが気になっていると仮にぶちまけたとする。仮の話である。
そしてそして、そのぶちかましに対して、仮にWの反応は
ちょっと気になっているだけと周囲に伝えた存在から、即座にごめんなさいは完全に脈なし、息をしていないということである。(仮)
「…………」
なんだか、悪いことをしてしまった気がする。
転校早々、大胆すぎる行動をした危険人物とはいえ、今の千紗の発言が本当だとすれば、初対面だらけの周りの人間の前で恥をかくリスクを取ってまでの覚悟があったとは思えない。ならば、もう少しくらいはやりようがあったのでは――、
「あの、こちらもちょっと聞いてもいいですか、黒木さん」
いつの間にか学校指定の白のTシャツと紺の短パンに着替え終わっていた葵が尋ねてくる。
「ええ。何、かしら……?」
スカートをシワにならないようたたみながら、
「ぶっちゃけ、基、ってどう思います?」
「どうも思わないわ」
即答だった。
おおう、手厳しいと千紗がのけぞっている。
「なる、ほど。んー、じゃあ、逆に好きな異性のタイプとかあります?」
「……少なくともそういうことを聞いてこない人ね。そういう、あなたは?」
新聞部のエースとして、
そんなある種、露骨な千紗の反応を知ってか知らずか、葵の口から放たれたのは、
「まっ、ちょっといきなりでしたね。ごめんなさい」
まずは謝罪と、
「そうですね~。私は、――みんなを幸せにしてくれる人が好きです」
意味がわからないという顔で稚奈は固まり、メモ帳を取りだしボールペンを構えていた千紗のペン先も微動だにしていなかった。
一人、葵だけが仕切り直すように、
「ちなみに恋愛とか、どう考えてます?」
まだ続けるのか。
もうほとんどの女生徒が着替え終わり、出て行ってしまっている。体育委員の
これはそう長居する訳にもいくまいと、
「興味がないわ」
「えぇ~、本当ですか? 私が言うのもあれですが、青春まっただ中な訳じゃないですか我々、ね?」
急に同意を求められ、うろたえつつも千紗は、
「え? あ、うん、そうだよね」
同意している間に、前園流のジャーナリズムを思い出したのか、
「うん、確かにっ。
協力は惜しまないと宣言しながらも、指をつっつき合わせて、
「その代わり、後でちょっとネタにさせてね……?」
一体、この二人は何がしたいのやらと稚奈は
「もういいかしら。私は行くから、」
それじゃと言い置き、さっさと更衣室を出ようとして、
「黒木さん。
すれ違いざまの葵の言葉に足が止まる。
「顔、ね……」
途端に、空気が
にこやかな表情を変えない葵と、空気の機微に
窓のない更衣室はどこか牢屋じみていて、
やがて、
「くだらない。人を顔だけで判断するなんて」
吐き捨てるように言って、更衣室を出た。
女子の集合は校庭だったはずだ。下駄箱に向かう足取りは、急いでいるつもりはないのに、心のざわめきを振り払うように荒々しくなる。まったくどいつもこいつも本当に、
「――どわったた、すんませんです。ごめんなさい!?」
「ちょっ、キャッ!!」
前方に対する意識がおろそかになっていたせいで、階段を駆け下りてきた誰かと危うく衝突するところだった。間一髪で互いに身を捻った方向がかぶらなかったお陰でなんとか
「――ゲッ」
何かが聞こえた気がする。
姿勢と呼吸を落ち着けて、いったい誰と衝突しかけたのかと相手を確かめようとして、
「だ、だだ、……大丈夫すか?」
最初に苦笑いというか引きつった口元が眼に入る。
「……あ、」
つい先ほどまで話題に
「
「さ、さようでございます……黒木、サン」
呼び捨てにしてしまったことに気づき、申し訳程度に「くん」と付け足し、稚奈は勝手に口が動くのを自覚してなお、止められなかった。
「あなた、――顔しか取り柄がないの?」
どうしてそんなことを言ったのかと後悔するのと同時に、
「そう、ですね。それに関しては、返す言葉が……、ありません」
肯定した。
それは期待していた答えとは違って、
「……そう」
氷のような声を落とし、
「私、あなたみたいな人、嫌いだから」
振り返ることなく、その場を後にする。脇目も振らず下駄箱にいき、ローファーから運動靴に履き替える。
ふと、違和感がよぎる。
「そういえば……」
下の名前をあの男に、いつ名乗っただろうか。
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