第31話 とある執事の結論 前
「あうぅ…」
「はいはい」
しきりにぐずるお嬢様をを
おっと、自己紹介が遅れました。
え?口調が違う?何の事を仰っているのかは判り兼ねます。
公私はキッチリと分けております。ええ、そりゃもう、キッチリと。
それもひとえにクソ…失礼、家宰様の執よ…いえ、徹底した教育の賜物とでも言いましょうか。
まあ、そんなどうでもいい事は地の彼方にでも放っておいて、今は私の腕の中のお嬢様のお話を致しましょう。
お嬢様の眠りの誘惑に負けまいと、声をあげ、抗う様は何とも言えず、可愛らしい。
このお年にして安易な快楽に身を委ねる事の愚かさを理解しておられるとは、さすがウィスタリア家のお嬢様です。
小賢しい小物の甘言にあっさりと乗ってしまったどこぞのクソお坊っちゃまとは天地程も違います。
「おぶぅ…」
何事かを思案し、胸に顔を埋めるその温もりと甘いミルクの芳香が何とも言えないこそばゆさ。
その感覚にはただただ戸惑うばかり。
それと言うのも、大変申し上げにくい訳ではないのではっきりと申しますと…。
私は子供が大っっ嫌いです。
何が嫌かと問われますと、涎、鼻水で他人すらも躊躇なく汚し、どんな物でも口に入れる不用心さ。
そして不必要に気分次第で泣きわめく様は不快極まりない。
見た目に反して多少手荒に扱ったとてケロリとしている癖に、己は弱者であると言わんばかりに声高に主張する。
しかしながら、私情に流されていては執事は務まりません。
別にどこかのクソ坊っちゃまの事を申し上げているワケではございません。
特に幼心に途轍もない不快感と屈辱を味わったなどとは欠片もございません。
おっと、私の事はどうでもよろしい。
現在、お嬢様は私の胸の中でうーうーと唸っておられます。
先程の一件が余程頭にきたのか、はたまた別の理由か。
どちらにせよ、狭量な10歳児に対するお嬢様の寛容な態度にはただただ感服するばかり。
「おうぃ…」
「何ですか?お嬢様」
しばらく待ってみましたが、返事がないので呼んだ訳ではないようです。背中をあやすように叩いていると、小さな頭が揺れ、堕ちてなるものかと私の服を握りしめます。
「まだしばらくはご機嫌が優れなくてもいいんですよ」
この我慢比べが楽しいなどと、そんな事はございません。
お嬢様にはお嬢様のペースがあるのです。
決してお嬢様の温もりが日差しと相待って心地よいなどとは欠片も思っておりません。
胸にぐりぐと顔を押し付けていたそれがピタッと止まり、顔を離すお嬢様。視線を辿るまでもなく、先程までお嬢様ご自身が顔を埋めていた辺り、お嬢様の涙と諸々によってベタベタに汚れたあたり。
そこから恐る恐るこちらを見上げる蒼の瞳。
「おぶぅ、だうあ…」
その態度は明らかに己のした事に罪悪を覚え、こちらに許しを求めておりました。
使用人に許しを求めるなど貴族としてあるまじき行為…。
本来ならば注意するべき事柄。
お嬢様に注意を促そうとすると、笑われました。
鼻水と涎で汚れた笑顔。
私の最も厭うものであるはずのそれは、私の胸の奥底から底知れない感覚を呼び起こしました。
『執事たるものいつ如何なる時も平静であれ』との教えを徹底してきたその顔が、緩みそうになるのを辛うじて執事のプライドで抑えました。
ハンカチでお顔の汚れを拭い取る。
それすらも不快ではない自身にも驚かされました。
と、ふいに風が吹き抜け、
「あう!」
普段なら当たり前過ぎて気づかないそれに、お嬢様は顔をあげ、風に向かって挨拶をされているよに見受けられました。
日常が突然非日常へとすり替わる。
くすり
己のイカレタ思考に可笑しさがこみ上げ、お嬢様の不思議そうに見上げる瞳が更にそれを掻き立てました。
目があったお嬢様はご自身が笑われたと思ったのでしょう。頬を紅潮させ、恥じ入るように私の胸に顔を埋めさせます。
それが更に可笑しさを呼び、
「ご機嫌は直りましたか、お嬢様?」
お嬢様が胸にぐりぐりと顔を押し付けられた後、こくり、と頷いたのが判りました。
私は軽く目を見張る。
それはこちらの言っている事を正確に理解しているという事。
お嬢様のつむじに目線を落としたまま固まっていると、しびれを切らしたお嬢様のこちらを伺い見る瞳とぶつかりました。
その無垢なる
それが今、己の腕の中にいる喜び。
お守りせねばなるまい。
そう思った瞬間、今までのわだかまりがすとん、と腑に落ちました。
(なんだ、そういう事か)
私はお嬢様に笑いかける。
普段、素直に笑う事などなかった私の笑みが余程おかしかったのかお嬢様がぽかん、と口を開けてこちらを凝視しておられます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます