名古屋の遊郭の歴史
楠樹 暖
江戸時代〜明治〜大正〜昭和〜平成
名古屋市中村区に
ポケモンGOとは実際の地図を元にした位置情報ゲームで、ポケストップというのは各所にある目印的なモノ(寺社だったり、置物だったり、看板だったり)が登録されたものだ。近くまで行くことでアイテムをゲットしたり、ゲームキャラクターであるモンスターがゲットできたりする。
そのポケストップにされている目印はなんとソープランドの前に置かれたオブジェなのである。そう、このスーパーの前にはソープランドが存在するのである。
実は大門とは、かつて栄えた中村遊郭の名残なのである。
名古屋の遊郭の歴史は、江戸時代の名古屋城築城にまでさかのぼる。
名古屋城築城に際し、大工や商人などに対して徳川家康が『飛田屋町郭』を許したのが最初である。飛田屋町郭は名古屋城の築城が終わると必要がないとしてなくなった。
もちろん、飛田屋町郭の前後にも公許でない遊女は存在していた。
冒頭に触れた中村遊郭の前身は、明治時代に大須に存在していた
現在でも大須では、大須大道町人祭で『おいらん道中』が行われる。この『おいらん』とは遊郭の
かの江戸川乱歩も少年時代を名古屋で過ごしていた。まだ大須に遊郭があったころである。大須観音にあった見世物小屋などは江戸川乱歩に多大な影響を与えているという。
その後、旭郭は大須から中村へと移転することになる。
江戸川乱歩は大人になり小説家として活躍し『押絵と旅する男』の初稿を執筆する。それを雑誌『新青年』編集長だった横溝正史に渡す予定だったが、作品に対する自信のなさから泊まっていた名古屋の大須ホテルのトイレに捨ててしまった。この大須ホテルは実は、元は旭郭で一番大きな遊女屋であった。旭郭から中村遊郭へ移転したあとの建物をホテルにしたものである。
大正時代に旭郭は中村遊郭へと移転。中村遊郭が開業したその年、関東大震災が発生した。東京の吉原も壊滅的な被害を受け、遊女をはじめとする関係者が中村遊郭へと移ってきた。それにより中村遊郭は盛況を迎えることになる。
昭和の時代になり世の中が不穏な空気に包まれる。中村遊郭も日中戦争、太平洋戦争の影響で客足が遠のき、規模が縮小していった。
戦後になり、それまでは政府の公認だった遊郭ではあるが公娼制度廃止により廃止になった。しかし、地図で赤い線で囲われた地域だけが特殊飲食店などと名前を変えて風俗営業を認められるようになった。いわゆる赤線である。中村遊郭も
その後、売春防止法施行により、名楽園も解体。売春をやめ、旅館や飲食店へ転業するものも現れた。また特殊浴場へと姿を変え、そのまま残り続けたのが今のソープランドへと繋がる。
話を過去へと戻す。
中村の遊郭建設用地は湿地であったため、かさ上げのために遊郭西隣の土地からたくさんの土砂が掘られた。窪んだその土地に水が溜まり池となった。
遊里ヶ池は名古屋の名所の一つに数えられるようになった。しかし、遊郭で働く遊女の自殺や、病気でなくなった身寄りのない遊女の死体遺棄などが問題となり、女性の幸福を守るための弁財天を祀る弁天寺が建てられた。
その後、遊里ヶ池は埋め立てられ、名古屋第一赤十字病院――通称、中村日赤――が建てられた。弁天寺は別の場所に移されたが、御分身が中村日赤の中庭に設置されることになった。
その中村日赤だが、老朽化のために建て替えられることとなった。新しく綺麗にされた病院の一角に今も弁天寺は存在する。
Googleが作った位置情報ゲームINGRESSでは、ポータルとしてよく寺社が登録される。弁天寺も多分に漏れずポータルとして登録されている。INGRESSのポータルとは、ポケモンGOにおけるポケストップのようなものである。ちなみに、ポケモンGOのポケストップはINGRESSのポータルのデータを元に登録されている。ここにも歴史の流れを感ぜずにはいられないのである。
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