第26話 あかしろ 第1話

「郷田さんってば」

「……ん? 何だ?」

 隣を歩く谷口の声に気付いた彼はすぐに返事をした。

「もう……だから、今日これからどうしましょうかっつってんですよ」

 谷口は少し呆れた口調で言った。あれ、こいつ何回か俺に話しかけてたのかと少年は小さく疑問符を浮かべた。

「俺、ゲーセンに行きたいっす」

 谷口のさらに隣にいる内藤が自分の意見を出してきた。

 時刻は午後四時過ぎ。郷田達三人は学校を出て、これからどうしようかと適当に道を歩いていたのだった。

「あ、ああ、ゲーセンか……いいんじゃねーの?」

 彼は気のない返事をする。

「え~、俺今月もう小遣いがピンチなんすよ~。どっか適当にぶらつきませんか」

 しかし内藤の提案に谷口が反対した。すると内藤はじゃあどうしましょうか、と彼の顔を見てくる。その時彼らはとある三叉路に出た。

「じゃあ、俺ん家こっちだから。じゃあな」

 彼はふたりに別れを告げると、自宅へと続く道の一本へと入っていった。

「……最近郷田さんおかしいよな」

 話の途中で取り残されたふたりは、小さくなっていく彼の背中を見つめていた。

「うんうん、何か人の話全然聞いてねーし」

 谷口の言葉に内藤は頷く。


 ふたりと別れて家路を歩いている最中も、彼はひとつの事しか考えていなかった。

 始まりは、あの日だ。

 あの日の昼休み、彼はいつものように購買部にパンを買いに行った。それまでは何もなかった。事が起こったのはパンを買い終え、教室へと戻る途中だった。

「きゃ!」

 階段を上り、廊下へと曲がった所でひとりの女子生徒とぶつかったのだ。彼女が出した小さくか弱い声に、彼の心臓は激しく揺さぶりをかけられた。

 彼はつい女子生徒の姿を見た。とても小さな背丈だ。背が低い順で並ぶと、確実に先頭に立つくらいに小さい。小動物のような印象を彼は持った。

 彼女と目が合った。やはり、顔もかわいらしい。白い肌がそのつややかな黒髪を一層際立たせていた。

「ご……ごめんなさい!」

 彼女は再び小さな声を出し走り去っていった。

「……」

 彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 これが、郷田茜の恋の始まりであった。

 今日も会えなかったな、と彼は小さく吐息をついた。もう一度あの姿を見てみたいものだ。もちろん谷口や内藤、それに薫やクロに聞けば早い話だ。あの黒髪が素敵な女子は何組の誰だと。

 だがそんな事、口が裂けても尋ねたくはない。そんな事を言ってみれば必ずなぜそんな事を聞いてくるのか、と逆に理由を尋ねられるだろう。それだけは避けたい。その娘の事が気になるから、などとは決して誰にも話してはいけない。え? 何でかって? 恥ずかしいからに決まってんだろうが!

 こ、これが恋なのか……と少年は左胸に手を当てる。こ、こんな気持ちは初めてだぜ……あの娘の事を考えるだけでドキドキしちまう……最近彼は、あれだけ毛嫌いしていた恋愛漫画やドラマに興味を示すようになっていた。全く、心境が変われば興味や関心も変わるものなのだな。家に帰ると何もやる気が起きず、ただただポエムを考えている。学年一の不良、郷田茜は意外にも芸術的だった。彼女は天使だ。俺の前に突然舞い降りてきた、黒い天使。


「なあ」

 翌日、屋上で薫達も含めて五人で昼食をとっていた時に、彼はひとつの結論を皆に伝えようとしていた。

「? 何すか? 郷田さん」

 谷口が尋ねる。他の三人も彼の顔を見た。

「俺、けんかやめるわ」

「ぶっ!!」

 突然の宣言に谷口と内藤はふたり一緒に吹き出した。薫も驚いた様子を見せていた。クロは表情ひとつ変えずにミートボールを摘まんだ。

「なっ、突然何言い出すんすか郷田さん!」

「いいか谷口。時代は情報化社会だ。もうけんかが強いなんてのは古臭いんだよ」

「俺より弱いけど」

 クロが口を挟む。相変わらずイラつく野郎だ。

「うっせー! ありゃお前が訳分からん電気流したからだ! 卑怯だろーが!」

「ならまたやるか? 放電なしでも勝てる自身はあるぜ」

「上等だ!」

彼は勢いよく立ち上がる……が。

「……だ、だが残念な事に、俺はもうけんかはしないんだよ……!」

 そう言ってまたすぐに座り込んだ。危うく乗せられる所だった……。

「ご、郷田さん、本気で言ってるんすか……?」

「その調子だと無理だろ」

 クロは諦めた声を出す。

「い、いや、俺はやるぜ。男が一度決めた事だ。何としても貫くぜ」

「か、感動っす、郷田さん!」

 内藤が感激したように言った。

「かっこいいっす! 俺郷田さんにどこまでも付いていくっす!」

「おう! どこまでも付いてこい!」

「茜君、そしたらきっとみんな君の事怖がらなくなるよ!」

「ば、馬鹿野郎薫! そ、そそそんな事どうでもいいんだよ! と、とにかく俺はもうけんかはしねー!」

 薫の言葉に彼は咄嗟にこのように返したが、どうでもいい訳などなかった。実は彼がこんな事を言い出したのは結局はそういう事・・・・・なのである。

 昨日家に帰ってから考えた。どうすればあの娘(そういやまだ名前もわからねーじゃねーか)に好かれるようになるのか。そこで出た結論が、まずはけんかをやめようという事だった。やはり暴力的なのは印象があまりよくない。

 こうして、新生郷田茜が今ここに誕生した。


 それから少し時間が経った休み時間。彼ら三人は廊下を歩いていると、近くでふざけ合っていた男子生徒のグループの内のひとりが彼にぶつかってきた。

「いって」

 男子生徒は思わず声を出したが、ぶつかった相手が誰だかわかった途端に顔色が豹変した。

「あ……! あ……!」

 恐怖におののくその顔を、彼はぎらりと睨み付けた。

「おいてめえ、ちゃんと前見て歩きやがれ! あぁ!?」

 谷口が乱暴な言葉を浴びせる。

「死にてえのかてめえ、おら!」

 内藤も続く。

「……お前……」

 彼も口を開いた。

「……次からは気を付けろよおら」

 そう言ってにんまりと顔いっぱいに笑顔を作った。

「……っ!」

「……っ!」

 予想外の反応に谷口も内藤も口をあんぐりと開けていた。

「ひ、ひいいいいいいっ!」

 男子生徒は彼の笑顔を見るなり怯えた声を出して一目散に友人の元へと走っていった。

「……ふっ、俺の爽やかな笑顔に癒されたって所か」

 彼は満足気に言う。

 い、いや逆っす郷田さん! 爽やかさなんて微塵も感じられなかったっす! むしろ笑顔が不自然過ぎて超気持ち悪かったっす! と、谷口は口に出さずに喋った。

「うおお! さすがっす郷田さん! けんかはせずに笑顔で解決するんすね!」

 内藤はまたしても尊敬の眼差しを向けてくる。お世辞ではなく本心からの言葉であろう事は彼の性格からわかっていた。

「おう! これからは俺は暴力ではなく笑顔で人を従わせる。スマイリー郷田とでも呼んでくれ!」

「かっこいいっす! 笑顔でこの学園の頂点に上り詰めるんすね! やっぱり郷田さんは最高っす!」


 そして放課後になった。彼らが学校を出ようと校門の前に来た時、そこには数名の生徒がたむろしていた。

「よう、郷田」

 その中のひとり、リーダー格らしき人物が彼の名を呼んだ。

「あ?」

 郷田も挑発的な態度をとる。

 こ、この人は……! 谷口はこの生徒の顔に見覚えがあった。た、確か2年の神崎かんざきだ……! 先週3年の奴を病院送りにしたっていう……!

「ご、郷田さん」

 こいつはヤバい。直感的にそう思った彼はつい郷田の名を呼んだ。

「? どうした谷口?」

「こ、こいつはヤバいっすよ……ヤバい奴っす……!」

「てめえ、最近調子乗ってるらしいなあ」

「あぁ?」

 しかし彼の忠告も空しく、喧嘩口調の神崎に対し郷田も同じく喧嘩口調で答える。だ、だからそういう態度はこいつにはマズいんすって!

「別に調子乗ってねーっすよ、先輩」

 名札を見て彼も相手が上級生である事を理解したようだ。だが態度は変わらない。

「いやー、色々とてめえの噂は聞いてるぜー郷田。俺ら2年の間でもな」

「へ~、それはそれは。ありがたいっすね~ほんと」

「だからよー、ここらではっきりしとこうと思ってよ。てめえよりもええ奴がこの学園にはいるって事をよー」

「へー、どこにいるんすかね?」

「……すぐに見せてやんよ。おい、付いてこい」

 神崎に促され、郷田は学園内へと踵を返していく。

「ご、郷田さん!」

「心配すんな谷口。俺はもうけんかはしねー」

「い、いやそれどころじゃねーすって……! ここは逃げた方が……! てか、腕を振るわなかったら確実に半殺しに……!」

 しかし、彼の歩は緩まない……郷田さんひとり置いて俺らだけ逃げる訳にはいかねーよな……! ふたりも後に続いた。


 彼が連れて来られたのは広大な学園内に存在する森林公園だった。一般開放もされており、夏になるとそこら中で蝉の鳴き声が聞こえてくるらしい。放課後という事もあり人影はそこそこあり、部活動中の生徒が揃ってランニングをしている姿もあった。

「さて、来いよ郷田」

 荷物を投げ捨てると神崎は手招きをして言った。来いとは無論、殴りかかってこい、という意味だ。

「……へっ、勘違いすんじゃねーよ」

 だが郷田は言う通りにはせず、小馬鹿にしたような口振りで神崎に言った。

「俺はてめーとけんかするために付いてきた訳じゃねーんだよ」

「あ?」

 神崎の眉がぴくりと動く。

「ざけんな。いいからさっさと来いよ」

「来るのはてめえだ。俺はてめえの攻撃を避けはするが絶対に反撃はしねえ」

「……何?」

「俺はもうけんかはしねーんだ。愛のために」

「は? 何言ってんだてめー」

 これは試練だ、と彼は思った。この試練を乗り越える事が出来れば、きっと名前も知らないあの人と少しでもお近付きになる事が出来るはずだ。

「いいからさっさと来いよ先輩。それとも殴り方も知らないんすか?」

「……プッチーン」

 最後の一言が引き金となり、神崎は彼に向かっていった。神崎の仲間は谷口と内藤同様、手は出さずに見ているだけだ。あらかじめそういう命令を受けているのだろう。

「ご、郷田さん!」

 彼は時折その拳をかわしてはいるが、三回に一度程度は当たっている。抵抗しない分、全部を避けるのは不可能だ。

「や、野郎……!」

 悔しそうな声を出し、隣で内藤が拳を握るのを谷口は見た。彼は即座に制止する。

「やめろ。ここで俺達が入ったら郷田さんの覚悟が無駄になっちまう」

「じゃ、じゃあこうして黙って見てろっていうのかよ……!」

 神崎の暴行は続く。次第に郷田の姿はぼろぼろになっていく。

「郷田さん!」

 そして十分ほどが経った。

「はあ……はあ……はあ……! ちっ、ほんとに何も反撃してこねえ……!」

 汗を拭いながら神崎は痺れを切らしたように言った。

「はあ……はあ……はあ……だから言ってんだろーが……! 俺はもうけんかはしねーってよ……!」

 顔中にあざを作りながらも、郷田はにやりと笑みを見せた。

「……ちっ!」

 神崎は彼にくるりと背を向けた。

「やめだ。何もしてこねえへなちょこ野郎に勝ったって何の自慢にもならねえ。おい、行くぞ」

 そう言って周りにいた仲間を引き連れて彼は去っていった。

「ご、郷田さん!」

 ふたりは急いで彼の元へ向かう。

「お、おう……お前ら……はあ……はあ……」

「郷田さん! すげーっすよ! 何かすっげーかっこよかったっす! 男の背中を見せられた感じっす!」

 内藤が興奮気味に言った。

「確かに……かっこよかったっすよ! 郷田さん!」

 谷口も素直に感動していた。一度決めた事を貫き通した郷田の姿は確かに格好よかった。改めて、この人に付いていこうと思えた。

「ふ……ふふふふ……!」

 郷田は思わず声を漏らした。これは勝利の笑いだ。けんかでは勝たなかったが、もっと別の大切な何かに勝った。俺は宣言通りけんかはしなかった。

「ぐふふふ……ふははははははははははははははっ!!!」

 公園内に彼の高らかな笑い声が響き渡る。

「ぐははははははははははは! ぐふふふふふぶほほほほほほほほっ!! おえっ!! おええっ!!」

 笑いが止まらない。郷田茜は体を動かして全身で喜びを表現していた。それに、さっきの神崎、思ったよりも弱かった。拳の威力は大したことない。まともにけんかしてても確実に俺の方が勝ってた。ま、けんかはもうしねーけどな!

「うへうへへへへへへへへへっ! ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃぶひうひははははははっ!!」

 アスファルトをがんがん叩く。愉快だ。これで俺のレベルは上がった。男としてのレベルが。暴力を振るわない俺を見て、あの人はきっと俺の事を好きになるに違いない。

「ひっ!」

 その時突然聞こえたか弱い声に、彼の耳は反応した。聞き覚えのある声だったからだ。

 すぐに声のした方に振り向くと、何と、あの黒い髪の天使ちゃんが今目の前にいるではないか!

「あ……!」

 彼の心は瞬時にときめいた。そして一瞬で奪われた。やはりこの少女、いつ見てもかわいい。この怯えた・・・表情、守ってあげたく……。

「はーい、見ちゃいけないよー」

 しかし彼女は、一緒にいた友人に手を取られすぐに去っていってしまった……。

 ……。

「おい谷口、内藤。俺、今どんな感じだった?」

 彼はふと冷静になった。先ほどの愉快さなどたちまちどこかへと消えていた。

「……物凄く気味が悪かったです」

「……気味が悪かったって事はよー、その姿を見た奴は俺の事、好きになってくれるかな?」

「論理が破綻してます」

「……」

「お、何だよてめえら、まだいたのかよ。雑魚はさっさと家に帰れよ」

 神崎がひとり戻ってきた。けんかの前に投げ捨てた荷物をこの場所に忘れていたため、取りにきたのだ。

「……はは」

 郷田は不気味な笑い声を出した。

「ん? 何だ? 俺に殴られ過ぎて気でも狂ったか郷田? はは」

「ははははははははははははははははははははははぁっ!」

 止まる事なく彼は神崎へと迫っていく。その拳は力強く握られていた。

「はははははははあっ♪」

 新生郷田茜は一日も経たずに死んだ。

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