第18話 新しい一歩

 シロとクロが境界にやってきてから一ヶ月。異界の暮らしにもお互い慣れ始めていた、そんな穏やかなある春の日。シロの一言がきっかけとなり、ふたりの日常にささやかな変化が訪れようとしていた。

「私、学校に行こうと思うの」

「……」

 突然の告白にクロの動きは止まった。

「……ふ~ん……何でまた」

 いつものように彼は気だるく言葉を返す。内心では驚いているにも関わらず声のトーンが平常通りなのは、自分には大して関係のない話だとわかっているからだろう。シロはもうすっかりそこまで彼の心情を察せられるようになっていた。

「この国の私達と同じ年の人達はみんな学校に行ってるんだって。だから私も行こうと思って。郷に入れば郷に従えって奴」

「……真面目だねえお前は。こりゃ魔界の未来は明るいな」

 彼女の説明を聞いて彼は感心したように言う。

 しかし、シロが突如学校に行くと言い出した本当の理由はこれではなかった。平たく言うと、暇だからである。

 と言うと少し語弊があるが、普段からシロはクロの事ばかり考えている。考えてしまっている。しかしその気持ちをなかなか伝える事は出来ない。だが考えずにはいられない。そんな悶々とした日々を彼女はずっと過ごしている。そこで彼女は考えた。何か他に考える事があればいいのではないかと。

 そこで思い付いたアイディアが学校へ行く事であった。純粋に境界の学校に興味があったというのもあるが、よくよく考えるとこれもいずれは侵略のための礎になるのだ。学校で様々な人々と交流を深めればその分未来の隷属候補が増える。さらに積極的に人間のコミュニティーに入っていく事で将来的に侵略がよりしやすくなるのだ。

 だが……。

「……クロも、どう?」

「は?」

 予想外の勧誘を聞いた彼は、彼女の予想通りの反応をした。

「いや、その、嫌ならもちろんいいけど……その、やっぱり人間がうじゃうじゃいる所にひとり急に入り込むのって緊張しちゃうじゃん……」

 これは少女の本音であった。

「やだよめんどくせー。大体、せっかく天下りこれのおかげで学校から解放されたと思ったのに、何でまた自分から勉強しに行かなくちゃなんねーんだよ」

「そ、そうだよね……なら、いいや。とにかく、私は学校に行くから……だから、多分平日はほとんど家にいなくなると思うから」

「おーそっか。頑張れな」

「う、うん……」

 会話が終わった後もしばらくシロはしょんぼりした顔でソファーに座ったクロの後ろ姿を見つめていた。

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………」

「………………だ~っ、わかったよ!」

 少しの後、彼女の視線を感じたのか溜め息混じりに彼は言った。

「行きゃあいいんだろ俺も!」

「ほ、ほんと?」

「どうせ毎日暇で何かやる事ねーかなって思ってたとこだしよー」

「あ、ありがと!」

「だからそんな顔するなよ」

「うん!」

 シロは心の中の薄暗い空がぱーっと晴れていくのを感じた。

「えへへ……」

「? そんなに嬉しいのかよ」

「何か、この間もそうだったけど、クロって何だかんだ言っても最後には言う事聞いてくれるんだよね……」

「なっ! たまたまだよたまたま! 人を便利屋みたいに扱うなよ」

 彼は照れたのか、慌てて顔を背けた。


 というわけで、数日後、ふたりはとある学校の前にいた。これから彼らが通う学校だ。

 聖道せいどう学園。ふたりが暮らす街では名の知れた私立学校である。幼稚園から大学までを擁しており、一度この学校に入学すればよほどの事がない限りストレートに大学卒業の学歴を得る事が出来る。ふたりはその年齢から、中等部の一年生に編入学する事になる。諸々の経歴はふたりとも強力な権力バックが上手い事誤魔化してくれたようだ。

 正門の外から学園の敷地内を見ながらクロが言った。

「なかなかでけーよな、ここ」

「……だね。幼稚園から大学まで一貫で進学出来る、って……魔界にはそんなの無いよ」

 彼らは中等部を目指して門をくぐった。校舎がどこにあるのか、覚えるのに一苦労しそうである。

「ねえクロ、制服似合ってる?」

 彼女はクロの前に出てくるりと回ってみせた。

「ああ、似合ってるよ」

「えへへ。そういうクロはあんまり似合ってないね」

「……お前なー」

 少女の素直な一言に、彼は少し傷付いたようだ。

「嘘嘘。似合ってるよ」

 慌てて訂正する。

「今更信用出来るか!」

「あはは。ごめんごめん」

 シロの心は弾んでいた。クロと一緒に登校。何だか新鮮で、すごくどきどきしていた。

 しかし、その楽しい一時もここまでだ。中等部の校舎に着くともうすぐお別れなのである。

 そう、ふたりは別々のクラスに編入するのである。まあ、決められた事はしょうがないか……。

「ま、そんなに緊張するなよ」

 昇降口で上履きに履き替えたふたりは職員室へと向かっていた。

「うん……」

 と言いながらも、シロの心臓はばっくばっくと鳴っている。

 職員室に着くと彼らはそれぞれの担任の教師の元へ向かった。ここからは別行動だ。その後シロは担任に連れられ、自分のクラスの教室の前に来た。

「それじゃちょっとだけ待っててね」

 担任の女教師は彼女に優しく声をかけると先に室内に入っていった。

 数分後、ガラガラとドアが開き、シロは促されるままに教室へと足を踏み入れた。

 その瞬間、見知らぬ空間に立ち入った瞬間、シロは全身が圧迫される感覚に陥った。その場にいる誰もが彼女に集中していた。視線だけではない。数十人の持つエネルギーが全て彼女の小さな144cmの体に降り注いでくる感覚。それに押しつぶされそうになる感覚。しんとした室内に彼女の足音と心音だけが響く。落ち着けシロ。今まで何度か大衆の前で話した事があるでしょう。しっかりしなさい。

 教壇に立ち、すー。はー。と一度深呼吸をすると、彼女は教室を見渡しクラスメイトの顔を見た。

 そして、ゆっくりと口を開いて自己紹介を始めた。

「皆さん初めまして。私はシエル・オ・エリシアと申します。まだこちらの生活に慣れ始めたばかりですが、これから皆さんと共に楽しい学生生活を過ごしていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げた後、

「シロって呼んでください」

と締めてにこりと微笑んだ。だが相変わらず頭の中は真っ白だ。

 やがてぱちぱちぱちと拍手が鳴り始めた。歓迎されているのだろうか。上手く出来たの……かな?

 ホーム・ルームが終わるとクラスメイト達は雪崩を打つようにシロの席へとやってきた。

「ねえねえ、どこに住んでるの?」

「英語得意なんでしょ」

「髪黒いね。日本人みたい」

 ちなみにこの学校に編入するにあたり、彼女はアメリカとかいう所からやってきた設定になっている。クロも同じだ。

「え、え~っと……」

 次々と繰り出される質問の嵐に彼女は戸惑いながらも、ひとつひとつ丁寧に答えていった。

 これは……なかなかいい感じかな? よし、奴隷候補ともだち100人作るために頑張らないと……!


「えーっと、クロノ・ヴォルトシュタイン。よろしく」

 彼は少しの笑顔も作らずに自己紹介を手短に終えた後、自分の席に向かった。通り過ぎるクラスメイト達の顔をちらちらと見ていくと、気のせいか目が合った瞬間に顔を反らされているような気がした……な~にを怖がってんのか……?

 ホーム・ルームが終わった後、皆が彼の方を見ながら何かひそひそ話しているように感じた。……? 何だ? 聞きたい事があるなら直接聞きに来りゃーいいものを。

「よろしくな」

 隣の席の眼鏡をかけた少年にクロは気さくに話しかけた。

「えっ? あ、うん……」

 彼はおどおどしながら答えた。

 変に気張る必要はねーよな……久しぶりに早起きをしたため非常に眠い。クロはどさっと机に伏せた。


「いや~今日も実にのどかだね~」

 椅子をぎこぎこしながら彼は言った。

「いや~こんなにのどかな日はどこか風が気持ちいい所でランチをしたい気分だな~。万里愛マリア君、よかったら一緒にどうだい?」

「お気持ちだけ受け取っておきます。色々と仕事が溜まっていますので」

 彼女はきっぱりと断った。

「え~つれないな~。たまには気分転換しないと、頭パンクしちゃうよ?」

「あなたがゴールデン・ウィークに入る直前にどかどかと回してきたからじゃないですか!」

「いや~だってあの時は恐ろしい位に頭が冴えてたから」

「まったく……日頃からこつこつとやって頂ければ私もご一緒出来ましたのに」

 と彼女は微塵も残念がらずに言う。

「それより理事長、先週お渡しした編入生の名簿用紙には目を通して頂けましたか?」

「編入生? こんな時期に編入生がいるの?」

「今日からですよ! そのふたりが我が校に登校するのは! まったく……!」

 彼女は彼の机の上にそびえ立つ書類の山々から二枚の用紙を引っ張り出した。

「これです! このふたり! 今日から我が中等部の生徒となります! 目を通したらサインをお願いします!」

「あ~はいはい。どうせ見た所ですぐに忘れるけどね~。生徒ひとりひとりの顔なんて覚えられないって~の。ていうか君よくこれ見つけられたね」

 彼はぴらっと二枚の用紙に目を通した。

「……へ~。外国人の女の子なんだ。いや~いいね。国際色豊かな学園は実にいいと思うよ~。これからもどんどん積極的に留学生なんかも受け入れてっていいと思うよ~。それから……お、こっちは男の子か。いいね。生意気そうだね~……ん?」

 二枚目の名簿用紙に書かれている少年の名前を見て彼の眉はぴくりと動く。

「……どうかなさいましたか?」

「……ふふ、ふふふふふふ……」

「? 理事長?」

「これはこれは一体どういう……単なる偶然か? それとも……」

「その子がどうかしたのですか?」

「……念のため、あの子達・・・・に目立った行動を決してしないように改めて徹底させてくれ」

 彼の口調が先ほどまでの飄々としたものから突然真剣なものへと変わった。

「はあ……どうしてまた」

「それはもちろん、編入生に失礼のないように、だよ」

 続けて元の調子に戻る。にこりと笑った。

「……? 随分とした歓迎ぶりですね」

「そりゃ歓迎もするさ。何せ国賓級の編入生だからね」

「? はあ……」

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