第17話 悲劇の少女

「俺、天使」

 目の前の少年が発した衝撃的な言葉に、フェイスは頭の中が真っ白になった。

「……え?」

 戸惑いながらクロを見る。

「……」

 少年は無言だった。

「……な、何急に変な冗談言ってるのクロ! ク、ククククロがてててて天使だなんてそんなあるわけないじゃん。だってクロは人間なんだから。もう~ほんとにククククロはじょじょじょ冗談が好きな人間なんだから~」

 シロが彼の発言をすかさず訂正する。しかしどうもしどろもどろだ。

「冗談じゃねーよ」

 クロは今度は真顔で言った。

「シロ、もう無理だ。上手く誤魔化せたとしても雑誌の中身を見られちゃすぐにばれる。それにお前が明らかに動揺してるしな」

「ど、動揺? どどどどどどどどこが? わ、私は至ってせせせせせせせ正常ですけれども?」

「それに、どうも嘘つくのは苦手だしな。フェイスのねーちゃん」

 彼はもう一度彼女の名を呼んだ。

「俺、天使なんだよ」

「……」

 しかし彼女はまだ彼の言葉を信じられずにいた。

「お、お嬢様? これは一体どういう事でございますか? クロ殿は急に何を……」

「ほれ」

 そう言ってクロは翼を広げた。人間ならば翼など持っているはずがない……彼のように真っ白・・・な。

「……クロ殿? 悪い冗談ならば今すぐにやめて頂きたい。そうでなければわたくしは……わたくしは……」

「冗談じゃねーよ」

「……」

「何度も言ってんだろ? 俺は天使だ」

「フェイス!」

 フェイスは腕を振り上げたと同時にその腕をシロに掴まれていた。彼女はつい先ほどまでフェイスの後ろにいた。瞬時に前方へと移動したのだ。

「……!」

 一瞬の内に部屋中に広がった殺気を感じたのか、クロは目と口を開けたまま立ち尽くしていた。

「お嬢様? 何をなさるのです。この者は天使なのでございますよ?」

「あなたこそ何をしているの? 彼は私の友達よ」

「お嬢様。お嬢様は騙されておられるのです。目の前のこの小さき白羽しらはに」

「フェイス」

 フェイスの腕を握る王女の力がぐっと増した。白羽とは悪魔が天使に対して使う蔑称である。

「私がその程度の器だと思って?」

 今までに見た事がないほどの少女の冷酷な表情を見て、フェイスの背筋は瞬時に凍て付いた。

「もっ……申し訳ございません!」

 腕を掴まれたまま頭を下げる家臣を見て、王女は優しくその手を離した。

「ごめんねクロ。私の家臣が無礼を働いて」

 もしさっきシロが止めなければ、フェイスの腕はそのまま彼の首を掴んでいただろう。

「……いや、予想の範疇ではあったよ」

 彼はいつもの顔で言った。

「……にしても、やっぱ相当嫌われてんのなー、俺達」

「違う!」

 彼の言葉をシロはすぐさま否定した。

「私は、違うよ! ……ううん、その、確かにまだ天使の事を根強く恨んでいる人達はいるけど、その、大部分はそれほどでもないっていうか……だから、その、悪魔みんなを嫌いにならないで!」

 少女は本当はこの時、悪魔みんな、ではなく、私を、と言いたかった。

「……別に嫌いにならねーよ。好きか嫌いかは直接会って決めるからな、俺は」

「その……フェイスは特別なの……」

「……お嬢様……」

 フェイスはシロの顔を見た。

「……話してもいい?」

「……ご自由に。お嬢様の事は信じておりますので」

「……」

「? 何だ? 何かあんのか?」

 シロはもう一度クロに向き直った。

「フェイスは……天使なの」

「……は?」

 彼は呆気に取られた顔をした。

「いやいや……今度はこっちの台詞だよ。冗談は……」

「冗談じゃないよ。ほんとなの」

「……え?」

 フェイスも黙って彼の顔を見た。

「……いやいや、そんな簡単に信じられるか」

「だったら信じなくていいよ。今の話はこれでお終い」

「え?」

 シロは少し口調を荒げた。怒りを露わにしていた。

「勝手だよ。自分の事は信じろって言ってるのに人の事は信じないなんて」

「……悪かった。あまりにも予想外すぎて」

「それはわたくしも同じだ」

 フェイスが口を挟む。

「……どういう事だよ。もしそれが本当なら、どうしてねーちゃんは魔王家に仕えてるんだよ。1000年前の終戦時に魔界に捕まってた天使はみんな天界に帰ったって話だぞ。捕虜は全員交換したはずだ。残留天使なんて聞いた事もない」

わたくしは7年前にエリシア家に拾われた」

「ほらみろ。7年前って……え? 7年前?」

わたくしは17年前に天界で生まれた天使だ。だがある事件がきっかけで、7年前に魔界に堕とされた」

「堕とされたって……まさか、堕天使か!?」

「そういう事」

 今度はシロが答えた。

「ちょっと待て。魔界に堕とされたって事はつまり、境界を経ずに直接魔界に堕とされたって事か? 天界と魔界を繋ぐ穴はしっかりと管理されてるはずだぞ」

わたくしの父がその管理者だった……それだけの話だ」

「! って事は……親父さんは官僚だったって事かよ……はっ、天界の官僚の娘が魔界の王臣ってか……で? それで何で天使が嫌いなんだよ? 自分を捨てた父親が憎いってか?」

「違う!」

 フェイスは激しく否定した。

「父はわたくしを守ってくれた……そのために次元の穴に堕としたんだ。そうするしかなかったんだ」

「守る? 誰から?」

「……!」

 フェイスは七年前の悪夢を思い出す。幼い自分を抱き抱え、死に物狂いで逃げる父。そしてそれを追う……。

わたし・・・の父は、母は、弟は! 殺されたんだ! 天使に!」

「……!」

 クロはまたしても衝撃を受けた顔をした。殺された、という非現実的な言葉がフェイスの話に重みを持たせた。

「……これ以上貴様に話す必要はない」

 フェイスは冷たい目でクロを見た。

「なぜだ……なぜ貴様は天使なんだ……? シロお嬢様の同居人である、友人であるお前が、どうして天使なのだ……?」

「……」

 クロは何も言えずにただ黙っていた。

「……!」

 彼女は握っていた拳を解き、ふらりと部屋を出る。

「フェイス! どこ行くの?」

「……お風呂に……入ってもよろしいでしょうか? 少し頭を冷やして参ります……」

「フェイス……」


「フェイス」

 フェイスが浴槽に浸かっていると、脱衣所からシロの声が聞こえてきた。

「一緒に入ってもいい?」

「ええ……」

 やがてドアがカラカラと開き、幼い少女がとっと足を踏み入れる。彼女は体に軽くお湯をかけるとフェイスの足元に入ってきて、向かい合うように浴槽に体を浸した。

「久しぶりだね、こうしてふたりで入るの」

「……そうでございますね」

 大魔城にある大浴場と違ってこの浴槽はふたりで入るにはだいぶ、というかかなり狭い。

「フェイス、やっぱり天使が憎いの?」

 シロは単刀直入に聞いてきた。このふたりの間に遠慮など必要ない。

「……ええ、憎いですよ」

 フェイスはちゃぷっ、と両足を抱く。

わたくしから全てを奪いましたから」

「そう……」

 シロも口をお湯にぶくぶくと浸けた。

「お嬢様は……わたくしに、天使を好きになって欲しいのでございますか?」

「ううん……人の主義主張はそれぞれだもの……強制はしないわ」

「……」

 フェイスは考えた。強制はしないという事は、やはりそういった方が望ましいという事だ。

「……まさかとは思いますが、お嬢様が恋をなさっているお相手というのは、あの……少年でございますか」

「ぶばっ!」

 と少女は顔を上げた。

「なななななななな何言ってるの!? そ、そそそそそそんな訳ないじゃない! も、もうフェイスったらいつからそんな冗談が上手になったのかしらほほほほほほほ」

 ああ、動揺されるお嬢様、非常に愛くるしいなあ……。

「……何でわかったの?」

 シロは顔を真っ赤にして聞いた。

「それは……何となく、でしょうか。もう随分と長いお付き合いでございますから」

「……だったらどうするの? フェイスは」

「どうすると仰いますと?」

「どう思うの?」

「それは……」

 彼女は言葉に詰まった。

「……わかりません。まさかお嬢様の恋のお相手が、天使だとは思ってもみませんでしたので」

「……だよねー……私も思わなかった……」

「ただ……天使だからお止めになった方がよろしいです……とは申せません。先ほどのお嬢様のお言葉をお借りするなら、お嬢様がどなたを好きになられようとも、お嬢様の自由でございますから」

「うん。だから私も考えないようにしてるんだ。まずはこの気持ちを伝えてみようって。それからの事はそれから考えようって」

「そうでございますね……時が流れる内に自ずと何かが見えてくるかもしれません」

「うん。でもね……その……なかなか言えなくて……」

 それからシロは初恋のときめきをフェイスに語って聞かせた。彼女は優しく、微笑みながら耳を傾けた。

「お嬢様、楽しそうでございますね」

 一通りの話が終わった後に彼女は言った。

「え? そ、そうかな?」

「ええ。とても。充実した顔をしていらっしゃる」

「……」

 王女は照れ臭そうに天井を見上げた。

「お嬢様、一度恋をなされたのなら、後悔のないようになさらなければなりませんね」

「後悔のないように……?」

「ええ。たとえお相手が天使だとしても、それを言い訳になさらないように」

「言い訳……」

「はい。きっとこれから先、お嬢様の恋路には色々な事が起こると思います。きっと楽しい事ばかりではありません……辛い事、悲しい事、苦しい事……でも、それをあの少年のせいにして、言い訳にだけは絶対になさらないでください。それはきっと、お嬢様ご自身を裏切る結果となってしまわれます」

「私自身を、裏切る……? ……よくわからないや」

「はは。まだお嬢様には難し過ぎましたでしょうか。まあ平たく申しますと、彼に恋をなさったのはお嬢様なのでございますから、これから起こる事をありのままにお受け止めになる覚悟を持たれてください、という事です」

 そう言いながらフェイスは七年前を思い出していた。彼女の、淡い初恋の記憶だった。

「覚悟か……何か重苦しいな」

「はは。少々大げさに申し過ぎましたね。しかし、お嬢様は今とんでもない事を成し得ようとされている事も事実でございますね」

「とんでもない事?」

「はい。何と仰いましてもお相手が天使なのでございますから。前代未聞でございますよ、天使に恋をする悪魔など」

「そ、そんなに凄い事なの?」

「それはもう。さすがお嬢様でございます。そのお年でもう計り知れないほどのお器をお持ちで」

「そんなに凄い事をしてるつもりはないんだけどなあ。ただ誰かを好きになっただけだし」

「恋は皆そうでございますよ。日常に小さく見つける場合も、演劇や小説のように世界を敵に回したりなどする大仰な場合も、きっかけはどれも誰かを好きになる事、これだけでございます」

 あいつを好きだなんて、ないね。絶対。100パー

 先ほどのクロのこんな言葉がフェイスの頭をよぎった。

 お嬢様、わたくしは応援致します。たとえお相手が天使であろうが、お嬢様の幸せがわたくしの一番の幸せでございますから。複雑な気持ちですが、お嬢様のその思いが、いつかあの少年の心を変える日が来る事を願っております。

 今回彼女がシロの元を訪れた理由はふたつあった。ひとつは境界侵略に勤しむシロの様子見、そしてもうひとつは……。

 シロの同居人である男についての調査、である。

 さてさて、魔王様には何と報告しようか。彼女は頭を少しだけ悩ませる。年頃はお嬢様と同じほど。また恋愛関係にはあらず。そして本人にその気もない……。

 しかし、お嬢様はその者に恋慕の情を抱いており、実はその少年は人間ではなく天使……でございました……。

 今の一文は確実に申し上げられない……。

「お嬢様、髪を洗って差し上げましょう」

「うん。じゃあよろしく」

 ふたりとも浴槽から上がり、フェイスは背中まで伸びるシロの髪にシャンプーを付け、優しく洗い始めた。

「あ、そう言えば言い忘れてたけど、クロって神の弟なんだって」

「何と!」

 さらに追い打ち。

 これはこれは……やはりお嬢様、只者ではない……。

 魔王様のご令嬢と、神の弟、か……。


 入浴を終えると、フェイスはクロに一言だけ詫び、それからは先ほどのやりとり以前と変わらない態度で接した。彼女自身まだ天使を憎んでいたが、それだけで済ませられるほどの事でもなかった。

 そして、最後の夜が過ぎ、朝になった。

「それではお嬢様。しばしのお別れでございます」

 フェイスが魔界に帰る。シロとクロのふたりはロイヤルハイム浅川のエントランス外まで見送りに出た。

「うん。夏になったら今度は私が帰るね。そういう風習があるみたいだから」

「夏でございますか……それでは、その旨魔王様にお伝えしておきます。あ、最後にもう1枚……」

 彼女は懐から写真機を取り出した。昨日一昨日と、この写真機でシロの写真を何枚も撮っていた。魔王への土産だ。

「うわっ。何だよそれ、カメラか? 古っ」

 クロがツッコミを入れる。どうやら天界の写真機はもっと進化しているらしい。それから彼はシロから離れた。写真に入らないようにしているのだ。

「何をしていらっしゃる。クロ殿もお入りに」

「は? 俺も?」

「ささ。もう少しくっついて」

「お、おう」

「それでは参りますよ。はい、ポーズ」

 パシャリ。

「……俺の写真なんているのかよ」

「クロ殿」

「おう?」

「お嬢様をよろしくお頼み申し上げます」

「お、おう」

「フェイス」

 シロはフェイスの近くへ駆け寄った。

「元気で。お父様やサバス、みんなにもよろしく」

「はい。それから……」

 彼女はシロの耳元に口を当てる。

「先ほどの写真、夏に戻られた時に現像した物をお渡ししますね」

「! ……うんっ!」

 王女は目をきらきらと輝かせた。

「それでは」

 忠臣は荷物を前にからい直し、バサリと翼を広げた。シロと同じく、漆黒の翼だ。

「あの~、素朴な質問なんだけどどうして翼が黒いんだ?」

「これは黒く染めた後に強い魔術をかけております。それでも色が落ちてくるので定期的にかけ直さないといけませんが」

「なーる。てか、天使でも魔術って使えんのか?」

「術をかけているのはわたくしではございません。が、わたくしも多少ならば使えます」

「へ~……! だったら俺も練習すりゃ使えるのかな」

「大地が悪魔を育てる。魔界にはそういう言い伝えがあるの」

 シロが言葉を繋いだ。

「命地一体という言葉があって。私達悪魔は大地から生まれ、大地によって育てられ、そして大地へと還っていく。悪魔を悪魔たらしめているのは魔術でもなく、その黒い翼でもなく、大地であって……」

「ストップ。長くなりそうだからそこまででいいや」

 話が難しいと感じたのか、クロは途中でシロの言葉を止めた。

「お嬢様、クロ殿も、お元気で」

 バサッバサッと翼をはためかせ、フェイスは宙に浮いた。

「失礼致します!」

 それからくるりと向きを変え、大空へと飛び立っていった。

「……行っちまったな」

 彼女の姿が見えなくなってからクロが言った。

「うん」

「やっぱ淋しいのか?」

「……そうだね」

 少女は隣の少年の顔を見た。

「……少しだけ、ね」

 この恋は、まだ始まったばかりである。

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