第2話 2LDKの侵略者
シエルは翔けた。初めの頃はリュックの重みで少しふらついていたが、何度か翼をはためかせるうちにすっかり安定し、少しも速度を落とさぬまま徐々に徐々に高度を上げていった。
「……!」
現在の高度は3000mぐらいか。普段はこんな高さで飛ぶ事はまずない。呼吸が荒くなってくる。
「……もう少し……かな……!」
あと2000mくらいは欲しいところだ。ちょっときついけど、頑張んなきゃ……! 彼女はさらに上昇した。
今日は快晴。ダークブルーの空に照りつける太陽の光がまぶしくも心地いい。いつもの高さならこんな日に飛行すれば風当たりが気持ちいいのだが、さすがに今のシエルにはその余裕はなかった。
「もうそろそろ準備しとかないと……!」
ゆっくりとポーチに手を伸ばす。何だか体の動きがいつもと違う感じがする。空気抵抗が少なくなっているためか。これは、落とさないようにしっかり掴んでおかないと……!
そうしてふわっと出したのは、一枚の札。七聖獣の召喚札とは別の札だ。境界に行くためにはこれが必要なのである。
「……よし……! そろそろ……!」
高度5000mほどにまで達した時、シエルは札を高くかざした。すると彼女のさらに上空が
実はこの札にも術式が書かれていた。それもかなり高度なものだ。次元に
彼女が空に開けた穴はどんどん広がっていき、直径2mほどにまでなった。異界への門の出来上がりである。
「……!」
穴に近付くにつれ、少女の心臓は激しく動く。これで魔界ともしばらくお別れだ。
お父様、フェイス、サバス、みんな……! シエルは目をつぶった。怖くないわけがなかった。守護の印よ、どうか私をお守り下さい……!
行ってきます!
彼女は吸い込まれるように穴の中へと入った。先ほどまでの濃い青空から一転して、辺りは薄暗くなった。ふと下を見ると、自分が通ってきた穴が見る見るうちに小さくなっていくのがわかった。穴が塞がっていっているのか、彼女が穴から離れていっているのか、今のシエルにはわからない。
また、彼女の耳には穴に入った時からごおっという音しか聞こえてこなかった。視界は不明瞭。耳には騒音。私、本当に境界に行けるのかな……。
一分間ほど謎の空間をさまよった後、少女の目には一点の小さな光が見えた。おそらく、出口だ。という事は、あの先に境界がある……!
シエルは翼に力を込めた。しかし、どれだけ羽ばたかせても光に近付かない。あれ、どうして……?
かと思ったら、次の瞬間目の前に突如出口が現れた。
「!」
彼女が急に出口に近付いた、というよりは、出口が突然彼女に近付いた、という感覚だった。これが次元の狭間……よくわかんない空間。
と推量している場合ではなかった。出口が近付いても速度は落ちていない。出た先に何があるかわからない。つまり危ない。
「……って推量してる場合じゃないんだってば!」
彼女は急いで翼を前に動かし急ブレーキをかける。穴を抜ける……!
ぱっと出てきたその先は、またしても薄暗い空間だった。だが穴の中より幾分かは明るいようにも思える。それでもやっぱり視界は明瞭だとは言えないが。
「ふぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ!」
目一杯力を入れる。どうか何にもぶつかりませんように……!
幸い、少女は何かにぶつかる事もなく無事に止まる事が出来た。が、直後落下した。
「あいた!」
といっても1mほどである。それほど高い位置に門は開かなかったらしい。
「うう……痛い……」
頬に冷たい地面が当たる。シエルは擦り剥いた所をさすりながら起き上がった。そして地面を二、三度踏む。硬い地面だ。
「ギルト」
右手の人差し指を立てて彼女は呪文を唱えた。するとその指を中心に少しだけ辺りが明るくなった。
「……」
ぐるりと見回す。どうやらここはトンネルか何かの中らしい。先ほど彼女が出てきた穴はもうほとんど閉じかけていた。
「!」
そして小さく聞こえていた音に耳を傾け、彼女は下方を指で照らす。
「水……」
彼女が立っている地面の横に、小さな川があった。さらさらと水が流れている。
「……川……? トンネルの中に……?」
少し考えて、小さな結論が出た。
「もしかしてここ……下水道?」
の、可能性が高い。もっとも、境界の人々も悪魔と同じようなインフラを整備していればの話だが。
「と、いう事は……」
外に出る場所があるはずだ。道は一本しかない。シエルはとにかく前に進んでみる事にした。
「まさか、
トンネルの中などではなく、そもそもこのトンネルの中のような世界が境界……だとしたら何て世界なんだろう。狭いし暗いし怖いし。そもそも空がないなんて。
だけど、境界には人間という種族が生きているのだ。翼を持たない種族。空を飛べない種族。かわいそうに。
五分ほど歩くと、壁に取っ手を見つけた。上まで続いているらしい。ここを上れば外へ出られそうだ。彼女は明かりを灯していた人差し指にふっと息を吹きかける。目の前が再び真っ暗になった。
「よいしょっ……と」
翼をしまい、リュックを背中にからい直して取っ手を掴み上へと向かい始める。
しかし、ここで思わぬ事態が。
「あれっ」
上る途中でまたしてもトンネルのようになるのだが、その入口でリュックが引っ掛かるのである。
「あれっあれっ」
何度試しても通らない。
「もう……しょうがないな……」
少女はリュックを肩から下ろし、落とした。瞬間、魔術をかける。
「アトルフ」
するとリュックは落ちるのを止め、その場に浮遊した。
「ちょっと待っててね」
シエルはリュックに声をかけるとまた顔を上げ、取っ手を掴みながら上っていった。すぐに行き止まりになる。多分出口だ。
「んん~~~~~~~~~」
手で天井を押すが、ビクともしない。
「エヴォッシュ」
またまた魔術をかけ、天井を突き飛ばす。眩しい光が少女に降り注ぐ。
「うわっ! まぶしっ!」
穴からひょこっと顔を出すと、そこではたくさんの人々が行き交っていた。
「……人間だ!」
つい声を漏らす。きっとそうに違いない。見た目は悪魔とほとんど変わらない。ただ背中に翼がない。魔術も使えない。それが人間。
「うわあ……人間だ人間だ!」
彼女の側を通り過ぎる人間は皆不思議そうな目で彼女を見ていく。悪魔が珍しいのかな。いや、見ただけじゃ私が悪魔だとはわからないはず。
マンホールから体を完全に出してから、右手で下にあるリュックを指す。
「おいでおいでー」
手を動かすとリュックはゆっくりと上がってきた。ギリギリ通るようだ。
「よいしょっ……と」
手元まで来たリュックを背中にからい、マンホールの蓋を元に戻す。誰かが落ちたら大変な事になる。
「お弁当……大丈夫かなあ」
リュックの中身を心配しながら、彼女は見知らぬ土地を歩き始めた。道は人々で賑わい、柵の向こうでは謎の物体が音を立てながら動いていた。
「……もしかして、あれがジドウシャ……? 人間が乗り回してるっていう……馬車よりもずっと速い……!」
しばらく歩いて、王女ははっとした。私はどこに向かって歩いているんだろう。
「え~っと……メモメモ」
ポーチの中から境界で住む家の住所が書かれた紙を取り出す。そこから遠くない所に次元の扉を開けたはずだ。まずはそこに向かわなければ。
「……ふむふむ」
住所はわかった。だが、この住所がどこにあるのかがわからない。父が言っていた。
―――――いいかい、道に迷った時はお巡りさんに聞くんだよ。
「……まずは交番か……」
しかし、今度は交番がどこにあるのかわからない。
「……あのーすみません」
少女は近くを通りがかった青年に声をかけた。
「?」
青年はきょとんとしている。
「すいません、交番ってどこにありますか?」
「……○×△□◎※$Σ?」
「え?」
「Σ※●△◆◎○€α○?」
「……あ……」
そっか、言語が違うんだ。多分この人も私が何て言っているのかわからないんだ。
「え~と」
シエルは彼の額に手を当てようとした。しかし届かない。
「! ん~~~~~」
一生懸命背伸びをするが、やはり届かない。ああもう、背を伸ばす術があればいいのに。そしたら私毎日使うのに。
「?」
しかし、彼はシエルの仕草を不思議がり、自ら体を屈めてくれた。チャンスだ。
「えいっ」
ぺたっと彼の額に掌をくっつけた。
「ミリアテッサ」
「うわっ」
青年は驚きの声を上げた。
「何すんの!」
「あっ、おでこにごみが付いてたから……」
「は、はあ……てか、日本語話せるんなら最初から話してよ」
「あ、すいません……あの、交番はどこですか?」
「交番? 交番ならそこにあるけど」
「え?」
彼が指差した方向、50mほど先に「交番」と書かれた建物があった。
「あっ……どうもありがとうございます」
シエルはぺこりと礼をして交番に向かった。
先ほどの魔術は情報を読み取る高等術である。彼女は青年の脳から境界の言語体系、知識を読み取り自分の脳にインプットしたのだ。もっとも全てではないが。
彼女はそのまま交番に向かい、住所を尋ねた。警官は彼女に道を丁寧に教えてくれた。
そして警官の指示通りに進むと、二十分ほどでシエルの新しい家に着いた。十階建てのマンションである。
「ここが私の家……ロイヤルハイム
家は父の命によりサバスが探してくれた。何でもこのマンションはまさしく王家の者が住むのに相応しいらしい。なぜかは聞いていないが。
ここから始まるんだ……私の境界侵略が……。
ガラス戸の近くまで行くと二枚のそれは勝手に開いたので、シエルは至極当然驚いた。
「うわっ! ……これが自動ドア!」
中に入るとまたも自動ドアがあった。
「あ……また自動ドア……自動ドアだ……自動ドアがまたある……」
無意味に「自動ドア」を連呼する。何となく新鮮な言葉を使いたいのである。さっきのように近付けば勝手に開いてくれるのだろう、と慣れたふりをして王女は直進していく。
「はうっ!」
しかし今度は開かない。少女はガラス戸にびたっとぶつかった。どうして……?
その時ドアの向こう側から住人と思しき女性が歩いてきた。シエルは静かにその様子を見守る。
すると! 何と! 彼女がドアに近付くと! 今度は素直に通してくれたのである! 何で?
「はっ!」
見ている場合ではない。私も急いで通らなくっちゃ!
少女はどたどたと駈け出した。もうすぐドアが閉まる。
ウィーン。
「待って!」
ウィーン。
閉まらないで、とシエルはぴょんと飛び込んだ。何とか中に入れ……。
ガタッ!
「あれ?」
足が床に付かない。ばたばた振ってみるがやはり付かない。リュックがドアに挟まっているのだ。
「ん~~~~~~~~~!」
ぐいぐい背中を引っ張って、やっとリュックはドアを通った。彼女は無事に着地した。
「はあ……どういうからくりなんだろう……まさか魔術でも張られていたわけじゃないだろうし……」
とにかく、中に入れたので自分の部屋へ向かう。101号室。この階の一番奥の部屋である。
「えーっと鍵鍵……」
ポーチの中から鍵を探す。あった!
ガチャリと開けると、ようやく辿り着いた私の家! この国では家に上がる時靴を脱ぐのねと、郷に従い王女もきちんと靴を脱いだ。
アインシュタット大魔城と比べると……広さは比べるほどもないが、綺麗な部屋であった。キッチンにダイニング、リビング。バス・ルームにトイレ。そして個室がふたつ。ひとつには父の計らいによって事前に用意されていた彼女用の家具が備わっていた。それとは別に、リビング、ダイニングなどには元々家具が付いていたらしい。そういう物件なのだそうだ。
「思っていたよりは……いい家ね」
シエルはリビングにあるソファーに座り込んだ。慣れない高空飛行を行い、そこから次元の扉を開いて、下水道に落っこちて、それから道を尋ねて……もうくたくたである。
「あ! そうだ! お弁当!」
今朝フェイスが作ってくれた愛臣弁当……リュックの中からごちゃごちゃと物を取り出して探す。一番下に入っていた。
「あ……」
何かの汁が漏れているのか、包み布が濡れていた。
「……」
布を解いて弁当箱を開けてみると、案の定、中身はぐちゃぐちゃであった。
「……ごめんなさい、フェイス……いただきます」
ご飯を一口。もぐもぐもぐ。美味しい。次に煮魚(汁の出所はこれかな)を一口。もぐもぐもぐ。美味しい。次に鳥肉の唐揚げを一口。もぐもぐもぐ。やっぱり美味しい。味付けだけでなく、フェイスは盛り付けの腕も一級なのだが、今回はそれを楽しめなかった事が残念だ。以前は蓋を開けると世界地図が広がっていた事があった。あの時は感動した。食材でこれほどまでに素晴らしい物を作れるのかと思った。
もぐもぐもぐもぐ。
……そうか。このお料理ももうしばらく食べられないんだ……。
もぐもぐも……。
これから私は、この見知らぬ世界でたったひとりで、侵略を始めないといけないんだ……。
もぐ……。
「……ぐすっ」
気付けば、王女の目から涙がぽろり。
「うっ……ひっく……うう……」
大丈夫かなあ……私、ちゃんと出来るかなあ……。
せっかくのフェイスの美味しい味付けも、どれもこれもしょっぱくなっていく。
「お父様……私……しっかりと境界侵略するからね……!」
彼女はずず、と大きく鼻をすすった。
時は少しだけ遡るが、シエルが魔界で異界への門を開いた頃、同じく魔界の片隅で、ひとりの少女が目を覚ました。彼女が
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