おやすみ、パパ。

真白なつき

おやすみ、パパ。


「おやすみ、ハル」



 その日は私の5歳の誕生日だった。


 お母さんとパパと一緒に3人でケーキを食べて。

 お母さんとパパから大きなクマのぬいぐるみをもらって。


 とっても幸せな誕生日。


 夜、もらったばかりのクマのぬいぐるみと布団に入った私は、幸せな気分のまますぐに夢の世界へと溶けていった。


――だから。



「おやすみ、ハル」



 眠りに落ちる直前、頭を撫でられる感覚とともにささやかれたそんなパパの声も、もしかしたら夢だったのかもしれない。




 私が5歳になって2日目の朝。

 パパは私とお母さんの前から姿を消した。



 あれから10年。

 あの日を最後に、パパとは一度も会っていない。



   ◇



「ただいまー……ってそっか。今日は帰り、遅くなるんだっけ」


 家の玄関に入って開口一番。

 そんな独り言は吐いたそばから空中に溶けていく。


 部活で帰りが遅くなり、すっかり外は暗くなっていた。


 真っ暗な家。

 しんと静まり返った、私とお母さんの住む家。


 室内の明かりを点けながらリビングへ。

 重たい荷物はとりあえずそこら辺に放り出した。


 おなかがぺこぺこで帰宅した私は、そそくさと冷蔵庫を開けて今日の夕飯を確認する。


「からあげじゃん」


 やったねと一人ガッツポーズをして、ダイニングテーブルに視線をやった。

 そこには一枚のメモ紙が。


「えーっと、なになに。『ハルちゃんへ。今日は一緒に夜ご飯、食べられなくてごめんね。冷蔵庫にハルちゃんの大好物、からあげが入っています。だって今日はハルちゃんの』――あーはいはい、なるほどそういうことね。オッケーオッケー、理解した。大丈夫、私はなーんにも見てないぞー」


 最後の方に書かれた文は、今の私にとってはあまり受け入れたくない事実だったため何も見ていないことにする。

 お母さんの綺麗な字が書かれたそのメモを裏返しにして、テーブルの端の方に置いた。




 制服から部屋着に着替え、すぐさまからあげをチンする。

 その他にも用意されていた夕飯をテーブルに並べて、いつもより少し豪勢な食事に複雑な気分。


「さてと、いただきます――の、その前に」


 イスに座って手を合わせたところで、郵便受けに入っていた手紙の中に自分宛てのものがあったことを思い出す。

 立ち上がってカバンに突っ込んでいた封筒の一つを取り出し、またイスに座る。


 その白い封筒はなんだか年季が入っていて、端の方が黄ばんでいるしシワも目立つ。

 しかも送り主の名前がない。


 はて、と首を傾げる。


「ま、いっか。食べながら読もうっと。いただきまーす」


 お母さんが目の前にいたら行儀が悪いと怒られそうだけど、今は自分一人なんだから気にしない。

 まずは白米を口に放り込んで、それからビリビリと封筒の口を破く。

 中を覗き込むと、一枚の便せんが入っていた。

 なんだか悪いことをしているような緊張を胸に、便せんを取り出す。


 その手紙は、こんなふうに始まっていた。






   かわいいかわいい ハルへ


 この手紙を読むハルは、もう中学生なんだね。

 だから漢字を使って書いてみました。

 大きくなったハル。

 ごめんなさい。

 そんなあなたの成長を見守ることが僕にはできませんでした。

 僕は弱い人間です。

 そして卑怯な人間です。

 何も言わずにハルの前から消えたくせに、こうやって未来のハルに手紙を残そうとしているのだから。

 ごめんなさい。

 許してくれとは言いません。

 ただ、これだけは言わせてください。

 ハル、お誕生日おめでとう。

 ちゃんとお誕生日に届いているのかは不安ですが、きっと大丈夫だと信じています。

 15歳になったハル。

 きっとかわいくてきれいな女の子に成長しているんだと思います。

 

 ハル、どうか元気で。

 幸せに生きてください。

 そして僕のことは忘れてください。


 これは、僕の遺言です。



   パパより






 便せんに、じわりとシミが広がった。

 慌てて手元から手紙を離す。


 目頭が熱い。

 唇が震える。


 なにそれ。なにが言いたいわけ? さっぱりわからないよ。

 頭の中に霧がかかったみたいに、何も考えられない。


 ハルは、私。

 パパは、パパ?


 10年前、5歳になって2日目の朝。

 忽然と姿を消したパパ。

 どこにいるのか、そもそも生きているのかさえもまったく分からなかったパパ。


 そんなパパが、今、手紙を通して私に呼びかけてくる。




――お誕生日おめでとう。


 うん、そうだね。今日は私の15歳の誕生日。でもね。一人で迎える誕生日なんていやだったから、お母さんのメモも見て見ぬふりをしたんだよ。それなのに。10年ぶりのくせに私の努力をむだにするな。



――きっとかわいくてきれいな女の子に成長しているんだと思います。


 あんたの理想を押しつけるんじゃないよ。さいてい。だったらちゃんと確認しにきてよ。ほんものはここにいるんだよ。



――これは、僕の遺言です。


 意味わかんない。わかんないよ。遺言ってあの遺言? こんなペラペラの紙切れ一枚が? 遺言って? ばかじゃないの。こんなのじゃなにも伝わらないよ。ばーかばーか。




 本当に、なんて身勝手な人なのだろう。

 私のパパは身勝手だ。最低だ。こんちくしょーだ。

 こんな紙切れ、ビリビリに破いてゴミ箱に捨てれば、それだけでなかったことにできるんだから。

 あんたが生きているのか死んでいるのかなんて、そんな事実、どうとでもなるんだからね。

 娘を甘くみるんじゃないよ。



 冷えてしまったからあげを口に入れる。

 おいしくない。まったくもっておいしくない。しかもしょっぱい。最低だ。




――許してくれとは言いません。


 うん、許してやらない。一生許してやらない。あんたのせいで、からあげが冷めちゃったんだからね。せっかくの誕生日なのに。最低だ。



――そして僕のことは忘れてください。


 ぜったいに忘れてあげない。残念だったね、そんなに都合よく物事が進むと思うなよ。あんたの娘はね、あんたが思うほど甘くはないんだよ。




 もぐもぐ、もぐもぐ。

 冷たくてしょっぱいからあげを咀嚼する。無心で咀嚼する。

 飲み込む。

 もう一つ口に運ぶ。

 大きい。でも構わない。丸ごと一つ、喰らい尽くしてやる。




 パパ。身勝手なパパ。

 あんたの思い通りになんか、なってたまるか。



 だって。

 だってね、パパ。



「おやすみ、ハル」



 パパが最後に私に言った言葉、私は今でも覚えている。

 だから私は、これからも絶対に忘れてあげない。

 パパの存在も消してあげない。



 パパ。

 パパ。



 だから私は、あの日のパパに返事をする。

 まぶたを閉じて、記憶の中のパパの顔を思い浮かべながら。

 その顔を絶対に忘れないように、幾重にも脳裏に焼きつけながら。



「おやすみ、パパ」



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