5.2 想いの分かれが唐突に


 蒸し暑い体育館で終業式が行われた。

 人口密度も高く、多くの生徒が手で顔を仰いでいたり、シャツをパタパタと動かしたりしていて、懸命に風を集めていた。生ぬるい風でもないよりはましだと言わんばかりの、非効率的な動作だ。


「――であるからして、えー、君たちは、あー……」

 壇上でマイクに向かって喋るのは、髪の生え際を後退させた五十代の男。嶺明れいめい高校の校長である。内容のない話がもうかれこれ十五分くらい続いている。


「――とまあ、何が言いたいかといいますとですね、人生、何が起こるかわからないということです。君たちはまだ若いので、あまり実感はないと思いますが、人生は思い通りにいかないことの方がはるかに多いです。で、思い通りにいかなかったときに、どうするか。よく考えて、後悔のないように行動して、それでもときには諦めも必要です」


 校長は一度言葉を切って、生徒たちを見渡す。大多数の生徒が早く終われと思っていることに、本人は全く気付いていないのだろう。とても満足げな表情だった。


「一番よくないのは、その場から動かないこと。立ち止まって待っているだけでは何も解決しません。望むものは、自分の手で掴み取るのです。君たちにはそれを、この嶺明高校で学んでほしい。さて、せっかくの夏休みですので、少しくらい羽目を外すのも構いません。しかし、一度しかない人生です。大人になってしまうと、皆さんが思う以上に自由にできる時間は少ないです。自分が本当にやりたいことをやりましょう! 以上」


 それを最初に言えよ! というのが、生徒たちの総意だったに違いない。何だかいい話っぽくまとまった。




 教室に戻ってきた。本格的に夏休みに突入したこともあり、騒がしい。

 出された宿題の割り振りを行う男子や、合コンのセッティングを始める女子。複数の話題が生まれて、あちらこちらを飛び交い、消えたり混じったりを繰り返す。


 私は、今日もオカルト研究同好会の部室に行くことになっている。

鳴瀬琴葉なるせことはさん」

 藍梨あいりが恭しげに、フルネームで私を呼んだ。


「はい、何でしょうか」

 私も合わせるように答える。藍梨がこの呼び方をするのは、決まって私に何か頼み事をするときだ。


「今日って、夏休みが始まるっていう、一年の中でもかなり上位に入るハッピーな日じゃない?」

「まあ、そうだね」

 よくわからないまま、頷いておく。


「そんな日に私、日直なのよね。なんて不幸な女なの!?」藍梨は大げさに両手を広げ、天井を仰ぐ。「ってわけで、これ、職員室に運ぶの、手伝って欲しいんだけど……」

 藍梨が示した先には、四つの段ボール箱。


「わっ、大変そう。手伝うよ」

 私は引き受ける。

弓槻ゆづきくん、今日ちょっと遅れるね」

 机の中の荷物を鞄に移している彼に、小声でそう伝える。弓槻くんは右手を軽く上げて応えた。


 私と藍梨は、段ボール箱を二つずつ抱えて、教室を出る。結構な重さがあった。




 悲劇は、階段を下りているときに起きた。段ボールのせいで下が見えなくなっていた私は、足を踏み外してしまったのである。

「きゃっ!」


 両手が塞がっていて、手すりにつかまることもできない。もちろん手を離してしまえばいいのだが、その思考までたどり着くよりも早く、手遅れなところまで私の体は倒れてしまっていた。トラックにひかれそうになったときのことを思い出す。


「琴葉っ!!」

 藍梨の叫び声。私は目を閉じた。その瞬間、グッと腰の辺りを掴まれて引っ張られる。


「っと。……大丈夫?」

 優しげな声に恐る恐る目を開けると、デジタル表示の腕時計が目に入った。私の腰に巻き付いていたのは、ほっそりした腕だった。


 なんとかまっすぐに立つ。持っていた段ボールは、落とすことなくしっかり両手で抱えていた。なんて献身的な女なのだろうか。いや、ただ単ににぶいだけなんだけど……。


 振り返ると、白いワイシャツ姿の男性が、整った顔立ちに心配そうな表情を浮かべていた。

「あっ、はい。ありがとうございます、榮槇さかまき先生」

 その答えを聞いて、榮槇華舞はるま教諭は私の腰に回していた手を離す。


「いやぁ、さすがマッキー。生徒のピンチを救うなんてやるじゃん」

「白幡さん。先生をあだ名で呼ばない。それから敬語を使いなさい」

 怒っている風ではなく、教師という立場上、言うべきことを反射的に口から出しているイメージ。表情も穏やかである。


「もぉ。堅苦しいなぁ。そんなんだから三十一歳にもなって独身なんだよ!」

「ちょっと待って、その情報はどこから仕入れてきたの!?」

 榮槇先生は珍しく慌てている。けれど、藍梨も本気で言っているわけではない。本当に堅苦しい教師には、そんなことは言えないだろう。


「まあまあ。そんなことより、か弱い女の子が重い荷物抱えて歩いてるんだけど。一人の男として何かすることないの?」

「そうだね。鳴瀬さん、一つ貸して」

 そう言って、私の持っていた段ボール箱のうちの一つをひょいっと取り上げた。


「あっ、ありがとうございます」

「ちょっと~。マッキー、私のも!」

 藍梨が背伸びをして、段ボール箱を両手で抱えたまま、上の箱を頭突きで器用にずらして、榮槇先生の持っている箱の上に重ねた。


「はいはい、わかったから」

 それなりに重い段ボール箱を、榮槇先生は軽々と運ぶ。半袖のワイシャツからむき出しになっている両腕には、たしかな筋肉が見て取れた。


 無事に職員室に段ボール箱を運び終えると、榮槇先生はすぐにどこかへ行ってしまった。私はその背中を見つめる。


「ありがとね、琴葉。琴葉? お~い」

「……あ、うん」

「どうしたの、ボーっとしちゃって。これからまたオカルト研究するんでしょ?」

「そうだね。じゃ、行ってくる」

 私は苦笑いで答える。


「おう、前世の恋人探し、頑張れよ」

 周りに聞こえないように気を使った、小声での応援を受け、私は弓槻くんの待つオカルト研究同好会の部室へと歩き出した。


 廊下を歩きながら、私は悩みに悩んでいた。

 どうしよう。さっき、榮槇先生に助けてもらったときの感覚……。間違いない。月守風呼が、初めてシロちゃんと会ったときと一緒だった。私は立ち止まって、両手で顔を覆う。ああ、どうしよう。


 私は、榮槇先生に恋をしてしまった。


 運命の人を探している最中、私は別の男性を好きになってしまったのだ。しかも、一回り以上も年上の男性。生徒と教師。問題しかない。


 ここにきて、悩みのタネが増えた。それは、とてつもなく大きな一粒だった。

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