俺はその手紙を読みながら、右耳の裏側を軽く押さえた。


 小さなハゲは少し長く伸ばした髪の毛で隠している。それを知っているのは確かに有紀だけだった。


 そのとき、俺の中で……何かが弾けた音がしたんだ。


 ──本当に……有紀なのか?


 疑問は更に深くなるばかり。

 それを解くためにも、俺と死んだはずの妻との奇妙な文通がはじまった。


 次の月命日にはもう少し踏み込んだ質問をしてみよう。


 まだ本物だと確信するにはほど遠い。耳の裏のハゲなんてものは、銭湯でも、オフィスでも、どこでだって偶然見えることがあるだろう。俺を信じ込ませようというには内容が薄い。


 その手紙を受け取ってから周りに対しての警戒心はますます強くなる一方だった。


 エレベーターには乗らず、階段でオフィスのある6階まで登る。極力、人と接しないように営業回り用に自転車を購入し、交通機関を利用することをやめた。流石に営業に自転車でいくのはやりすぎのような気がするが、そういった油断が更に何か情報を漏らすことになるかもしれない。


 幸いにも一番遠かった田中鉄工所の契約は終了した。現状の担当取引先は10キロメートル圏内に所在する。この程度の距離ならば、いつもより少し早く出れば何の問題もないだろう。


 念には念を入れておくべきだ。

 そしてそんな行動が一週間も経てば、会社の七不思議の一つに加わる。


『感情のないトライアスロン』


 とある女性社員が夜道を歩いていると、ふと何かの気配を背後に感じ、ストーカー、変質者かと思い振り向いた。


 するとそこには、無表情で口を摘むぎ、どこを見ているのかわからないが一点に視線を集中させ、自転車に跨がった安藤が時速50キロを越える速度で迫ってくる……。


 と、言うものらしいのだが、自転車に乗るときにニコニコ独り言を呟きながら、ゆっくり漕いでいる方がよっぽど恐怖に思える。


 それに時速50キロを越えるわけがないし、俺の姿を目撃した女性社員の多分な脚色だろう。


 加えて言うならば、七不思議ではなく、これで八不思議なのではないだろうか。


 そんな俺にとってどうでもいい噂が広がることに何の不満もなく、むしろそんな馬鹿話で笑って幸せになれるのか……と憐れみの気持ちが芽生えた。


 『感情のないトライアスロン』が『マッハ安藤』に昇格した頃、ようやく次の月命日が訪れようとしていた。


 いざ、踏み込んだ質問をしようと考えてみるが特段何も思い浮かばない。


 珍しく一人でいつもの飲み屋に繰り出し、日本酒を嗜みながら思考を巡らせる。そして勢いよくペンを握ると一行、たった一行を便箋に書いて封をした。


 そしておでんのはんぺんを口に放り込むと会計を済ませて店を後にする。


『俺しか知らない、君の秘密を教えてほしい』


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