今日まで、一

 冷蔵棚の牛乳をカゴに入れようとすると、おふくろに後ろから「牛乳はダメ」と止められてしまった。

「牛乳は最近、セシウムとかが怖いからコッチ。」

 そう言うとおふくろは豆乳をとってカゴに入れた。カゴには既にコーンフレークが入っている。

「何、穀物に穀物かけんの?」

「仕方ないでしょ。」

 おふくろはあの震災以来、熱心に原発と放射能関連の雑誌や書籍を買い込み特に食べ物に関しては用心深くなっていた。震災の間もないころは、近所の奥様方、特に妊婦や小さい子供を持った人々に、なるべく雨に当らないようにだ、飲料水は水道からではなくペットボトルで購入すべきだと訴えていたくらいだ。それまで近所で目立つ方ではなかったはずのおふくろは一時は婦人会の会長のようになっていた。さすがに最近ではそれも落ち着き始めたものの、こんなふうにちょくちょく買い物なんかに口を出してくる。ただそれが騒がしくなったかというと、逆に昼間は「いいとも!」の変わりに情報番組が流され、ウチで聞こえるボリュームは少し小さくなった方だ。それは音だけの問題でもないだろう。ここ数ヶ月無職の俺と、二重での意味での先の見えなさに、両親と俺自身も沈黙を無意識の内に選択しているのだ。世間一般には毎日が日曜日と言われる俺らニートだが、実際にはその夕方のサザエさんのエンディングを観ている時の、言い知れない焦燥感ばかりが募っているあの感覚によく似ている。

「なに?ガム?噛むの?」

 根気のいる履歴書作りのため眠気覚まし用のガムをカゴに放り投げこんだらおふくろに怪訝な顔で言われてしまった。俺が幼児退行してるとか思ってるのか。

「大丈夫だ、飲み込まねぇよ。」

 精算に向かうとレジ打ちは総白髪のオッサンだった。名札の所には若葉マークが貼られ「研修中」と書かれてあるので、人手が足りず店長が手伝っているというわけではないようだ。そのオッサンから何となく目を逸らすと、次に目に入ったのは財布から金を出すのをおふくろだった。もちろん俺は財布なんかは持ってきていない。定期は切れているし長い事僅かな小銭しか入ってないのだから。結局俺の視線は首が座ったばかりの乳幼児のように虚ろになってしまった。おふくろがガムをきちんと噛むのか心配したのは正解だったのかもしれない。

 スーパーから出ると、外だというのに空気はあいかわらず吸いづらかった。天気予報を確認しているわけではないが、ここ数日ずっと曇っている気がする。

「お、久しぶりじゃん眞鍋。地元なのになかなか会わないなぁ?……今なにやってんの?」

 駐車場の車に向かう途中、自分の名前を呼ばれている事も分からないくらい聞き慣れない声に呼び止められた。当時よりも太っていたしメガネをかけて、何より作業服を着ていたために思い出すのに数秒かかったが、十中八九「鏑木」という同級生だ。残りの一、二の可能性は親が離婚してるか婿養子入りしてるかもしれないという意味で。

「……買い物だよ。」

「いやそうなんだけどさ……。」

 もちろんそんな質問をしているのではないことは理解できるのだけど。どうも知り合いには会わないだろうと踏んでこんな平日の昼間に親について行ったのが逆に仇になってしまったようだ。

「お前は?」

 同級生の名前に確信が持てなかったので名前を呼ぶのを避けた。

「俺?俺は今機械整備の仕事やってんの。自販機とかの故障でちょこちょこそこらへん動き回ってるよ。今もその対応中。」

「へぇ~~」

 大して興味はなかったけれど、必要以上に大きく頷いとく。

「でさ、今度結婚すんだ。ほら同じクラスの柏木って奴、覚えてるっしょ?」

 お前の名前ですらおぼろげなのに一五年近く前の同じクラスの女子のことなど思い出せるわけがない。そういえば思い出した、こいつ中学の頃も「でさ、俺って××じゃんか?」とか別に知らないのに話を切り出す奴だったな。でもひとつ教えておこう、俺がお前のことで覚えているのはお前が陥没乳頭だったってことだけだ。だからこう言うと良い、「俺って陥没乳頭じゃんか?」って。そしたら俺も「プールの授業前と授業後で形が違うんだよな~~」って返せるから。

「ああ、あああ柏木ね。そーなんだ結婚すんだオメデトー。同じクラスってまた随分近いな?」 

 でもとりあえず相槌をうっとく。

「そーなんだよねー、俺もまさかあいつと結婚するとかさー、あの頃はそんなに可愛くないと思ってたんだけど、たまたま親が仕事で付き合うようになってさー、そんとき再会したんだけど、アイツ化粧とか覚えちゃってさー……」

 一体、この拷問はいつまで続くのか。お前とそいつの仲も元々どう思ってたかも更には親同士の付き合いとか、そんなものはお前とフェイスブックで常にやり取りしとかないと分かるはずがない。そして例えお前とフォローし合ってても俺はお前の発言なんか見ないし、仮に「いいね!」を押す事があるとしたらそれはお前の親兄弟が死んだ時だ。その時俺はサムズアップボタンを一秒間に16連打するだろう。

 俺の雰囲気がそれこそブロックを実行するように感じ取ったのか、(多分)鏑木は急に気まずくなったように目を逸らした。

「まぁアレだ、同窓会とか出会うことになったらよろしくな。他の、江頭とかともまだ付き合いあるんだろ?」

「あああ、まぁ、そうだな……。」

 江頭……いちいち苦手なコースに投球してくれるなこいつは。

「……じゃあな、また何かあったら酒でも飲もうぜ。」

 そのまま鏑木(仮)は何も後ろめたいことなどないにも関わらず、俺の前からそそくさと立ち去ってしまった。

 車に乗り込むと、買い物袋を持ったので鬱血してしまった指を揉みながら、だらしなく助手席のシートに座る俺におふくろが言う。

「さっきの誰?」

「同級生。鏑木だったかな、多分。」

 酸欠した魚のようにパクパクと口を動かした。

「……仕事、見つかりそう?」

「まだ……。」

「別に、また警備員でいいんじゃない?」

「またバイトじゃね……。いい加減社員とか考えんと。」

 車の窓から曇天を見上げた。雲の隆起の間が、その下に広がるアスファルトと同じくらいに薄汚れている。きっとあの時の地震でひび割れを起こしたまま、誰も舗装しようとしていないのだろう。

「社員って……あんの?」

「さあ……、でもいざとなったらタクシーの運転手とかトラックの運ちゃんとかがさ……。」

 自分自身からでた「いざ」という言葉にどうも現実味を感じない。

「あ、そういえばアンタ、彼女とか今いないの?」

 沈黙を嫌がったのだろうおふくろが俺の膝を叩きながら言うが、仕事と恋愛は今の俺には大暴投というのに、我が母ながらキャッチボールが下手くそ過ぎないだろうか。

「……いない。なんで?」

「え?いや、別に……ほら、女の子から手紙が来てたじゃない。」

「読んだのかよ。」

「読んで……ないわよっ。」

「読んだろ。」

「……テーブルの上に置きっぱなしのアンタが悪いんでしょっ。」

「テーブルの上に置きっぱなしって、置きっぱなしにしてねぇよ。俺が少し席空けてるスキに読んだろ。」

「……スキを作るアンタが悪い。」

「開き直りやがった……。信じられねぇこのオバハン。」

「オバハンってアンタ、ガム返しなさい。」

「みみっちい脅迫やめろよ。良いよ、じゃあ買うから。どうせ百円だし。」

 そう言ってポケットから財布を出そうとしたが、ポケットの中には糸くずとドラッグストアのレシートしか入ってなかった。何か急所をつかまれたような感じがした。

「出世払いで良いわよ?」

 皮肉と共におふくろが勝ち誇った。たった百円の差だった。でもそれすら出なかった。

「……まったく、人の手紙勝手に読むとか犯罪じゃん。」

「はぁ?人の手紙読んだら罰せられるなんて法律があんの?」

「あるよ。」

「人の手紙読んじゃいけないなんて……法律全書に書いてあんの?」

「書いてあるよ。つか六法全書だろ、無理して難しい言葉使おうとすんなよ。」

「嘘ばっかり……で、その子は彼女なの?」

「……。」

おふくろ、沈黙が答えだ。世界で一番一緒いて、一時は俺らは繋がってさえいたんだ。そこら辺で察してくれ。

「どおなの?」

 ギャフン。


「ほら、企業から返信が来てる」

 帰宅すると、おふくろが嬉しそうに郵便受けに入っていた書類を手渡してきた。

「何か厚みがあるわよ。期待できるんじゃない?」

「赤飯炊いといて。」

「饅頭ならあるわよ。」

「神田のじいさんの三回忌の奴だろソレ、しか一週間近く前の。……お茶入れといて。」

 しかし、手にとった書類の、中にあるものの手触りを確認した瞬間、思わず舌打ちが出た。俺は開けもせずに書類を居間のソファの上に叩きつけると、「ちょっと出てくる」と脱いだばかりの上着を着直した。

「どうしたの?」

 キッチンの方から、お茶を入れようとしていたおふくろが言う。

「中に入ってんの履歴書。」

「え?」

「突き返されたんだよ。……夕飯には戻るから。」

「饅頭は?」

「次におあずけだろ。」

 靴に足を突っ込むと、投げやりにドアを開けて外に出ていった。次にお預けか……その頃にはよもぎ饅頭になっていなければいいけど。

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