いわき踊り

平野武蔵

いわき踊り

「いわき七浜ななはま 太平洋を いだく姿は 日本一」

「揃う手振りに 笑顔を添えて いわき人の和 踊りの和」


3日間に渡る七夕祭りの最終日(8月8日)、毎年約1万人がいわき駅前大通りを「いわき踊り」で練り歩く。

地元企業、市役所職員、小学校、幼稚園、個人で作ったダンスチームなど、参加者は様々である。

実際、「いわき踊り」は昭和56年、いわき市制15周年を記念して、誰もが参加できる踊りを、ということで創作された。


ステップ、ステップ、ステップ、ターン

ステップ、ステップ、ステップ、ターン


生演奏の祭囃子に合わせて老若男女がいわきの夏に舞い踊る。

参加者は団体ごとに色とりどりの衣装を身にまとう。

日が傾く夕方より踊りは始まる。空気はいまだ暑さをはらむ。踊り手たちの身体から熱気がゆらゆらと立ち込める。


*   *


いわき踊りの開催に合わせて里帰りをするようになってから5年が過ぎた。

その前まではいわきに住んでいた。いわきで生まれ、育ち、進学と就職で一時離れたものの、再び戻り、結婚し、子供も生まれ、仕事もあった。私は故郷いわきで生きていくつもりだった。


しかし…2011年3月11日の巨大地震、それに続く原発事故、放たれた不可視の恐怖。

福島第一原発から私が当時住んでいたいわき市たいらまではフルマラソンぐらいの距離だった。

この日から見えない敵との肉体的、精神的格闘が始まった。


震災の直後、アンテナが倒れてしまいテレビが観れなかったので、インターネットで配信されていたニュース番組にかじりついていた。

原子炉建屋の映像を映しながら、アナウンサーや専門家が解説をしていた。

大量の放射能が飛散したが「健康に直ちに害の出るものではない」と大臣がしきりに呼びかけていた。やがて、その呼びかけは「エアコンや換気扇を切って、屋内に退避するように」に変わった。

当時、いわき地区は断水していた。水は市内数十カ所で配給されていて、外へ出ることなしには手に入らなかった。つまり、屋内退避など不可能だったのだ。

当時、私の子供は1歳にも満たなかった。粉ミルクを飲ませなければならなかった。

パソコンの画面に映し出された原子炉建屋が骨組みと化したとき、私たち家族は故郷を離れることに決めた。

2011年3月14日の事だった。


都内に住む妹夫婦宅にとりあえず身を寄せることにした。

当時、いわき市民のほとんどが一斉に避難した。高速道路は地震の影響で閉鎖され、一般道を利用するほかなかった。海沿いを走る国道6号を南下したが、道路は渋滞し、車は一向に進まなかった。

車窓から見える景色は、自然がその破壊力を誇示しているかのようだった。塀は倒れ、家は洗い流され、車が神経衰弱のトランプみたいにひっくり返っていた。


普段なら3時間で到着するところが、6時間走って3分の1もたどり着かなかった。

辺りは暗くなり、子供が長時間の移動に耐え切れず、車の中で泣き始めた

妻の叔母が茨城県日立市に住んでいたので、連絡を取り、その日は泊めてもらうことにした。


次の日の午後、妹宅にたどりついた。私は1週間滞在した後、仕事が再開されたので妻と子供を残して一人いわきに戻ることになった。

妻と子供は放射能の値が下降し落ち着きつつあった2か月後に戻ってきた。


私たち夫婦は子供を普通に育てたかっただけだ。

公園の砂場で泥んこになって遊ぶ。道端に咲く花に触れ、ドングリを拾い、枯れ草を踏み鳴らす。地元で採れた新鮮な米や野菜を食べる。汚れた手をくわえたって、仕方ないなあと思える。そんな当たり前の生活がしたかっただけだ。


しかし、それができなかった。

子供が草花に触れるたび、放射能が手についた、舞い上がる砂埃と一緒に放射能を吸い込んだ、そう思わずにはいられなかった。


空間線量が高いので、洗濯ものは屋外に干さず、乾燥機で乾かした。

布団も外で埃を払うとすぐにしまった。

家の周囲の表面の土はシャベルですべて取り除いた。

食材は県外の、しかも遠く離れた産地のものだけを選んだ。

料理も飲料水も、すべてペットボトルの水を使った。


私は正しいと思ってこれらのことをしたわけではない。それどころか、ちょっと神経質すぎるんじゃないか、と何度も自問した。ときには、見えない恐怖におびえている自分が滑稽にすら思えた。闇の中で刀を振り回している気分だった。灯りをともせば、敵などそもそもいなかったなんてことになりかねない。

しかし、それでも私は


結局、そんな生活に耐え切れず、私たち家族は故郷を遠く離れた。


*     *


「ドンドド、ドドド、ドン、ワッセ!」


掛け声は「いわき七浜に打ち寄せる雄大な波と、いわき市を訪れる人の波を。

『ワッセ』は、人の『和』と、さらに『盛』『勢』を表現し」ている。(「がんばっぺ! いわき復興祭実行委員会」ブログより)


今、目の前で踊る人々の表情には一点の曇りもない。

彼らは一様に笑顔を見せ、汗を流し、声を上げ、踊りを純粋に楽しんでいる。

私は故郷を離れる選択をしたが、彼らはとどまる選択をした。

残った者と去った者、どちらが正しいとか間違っているとかの問題では当然ない。

残った者もいるし、去った者もいる、それぞれの人生をそれぞれの場所でこれからも生きていく、その人生が正しいとか間違っているなんて誰に言える?


だが、一つだけ確実に言えることがある。

この街を作り上げているのは、今、目の前で踊っている彼らたちだ。

この街に残り、生き、歌い、舞い踊る彼らたちだ。


「ドンドド、ドドド、ドン、ワッセ!」


目を閉じる。

巨大な和太鼓の響きが、地を這い、全身を揺さぶり、心を打つ。

瞼の裏に踊りの残像を見ながら、熱い涙が込み上げる。

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いわき踊り 平野武蔵 @Tairano-Takezo

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