路上で目覚めた少年の話(その3)

 森の中の道は歩いても歩いても終わらなかった。

 町や村に辿たどり着くどころか、森が終わってひらけた平野に出る事さえ無かった。

 どこまで行っても葉を濡らした木々が道の両側に立っているだけだった。

 行けども行けども終わらない森の道を歩いているうちに、少しずつ空が暗くなっていった。

(夕暮れ……夜が迫っているのか)

 無意識に自分の左手首を見た。レインコートやジーンズのポケットも探ってみた。

 探っている途中で初めて、自分が腕時計か携帯電話のような「時間を知るための何か」を探していたことに気づいた。

 残念ながら腕時計も持っていなかったし、携帯電話も持っていなかった。

 いま何時なのか、今日は何年の何月何日なのか、全く見当がつかない。

 一度暗くなり出した空は、急速に黒さを増し、それに比例するように気温も下がって行った。

 とても一晩は越せない……少年は思った。

 真っ暗になる前に町か村に辿たどり着けなければ、今夜中に凍え死んでしまうだろう。

 それとも、森にむ夜行性の肉食獣に腹を喰われて死ぬか。

 遠くで狼の遠吠えが聞こえたような気がした。

 しかし、何が転じて幸運になるかは分からない。

 このタイミングで辺りが暗くなり始めた事で、森の奥に、小さな小さな明かりを発見できた。

(家だ! 森の中に家がある! あれは、窓の明かりだ)

 光の大きさからして、まだ、よほど遠い場所だ。昼間、空が明るい時だったら気づかず通り過ぎた可能性が高い。

 あたりが暗くなったからこそ、家に明かりがともり、それを道路から発見することが出来た。

 やがて、道が二股に別れた場所に出た。

 一方は今まで歩いてきたのと同じ舗装された道路だった。

 もう一方は、道幅こそ舗装路と同じくらいだったが、路面にただ砂利をいただけの歩き難そうな道だ。

 明かりに気づかなければ、舗装道路を歩き続けただろう。

 しかし、少年は迷わず砂利道に入って行った。

 方向からして、明かりの場所に行く道は、こっちだと思ったからだ。

 砂利道に入って、(感覚的には)三十分ほど歩いた先にはあった。

 まさに森の中の一軒家だ。

 平屋建て、黒瓦くろがわらの日本家屋だった。

 母屋の横に比較的大きな納屋のような建物があった。風に乗って、微かに家畜のニオイが漂ってきた。ひょっとしたら牛舎かうまやなのかもしれない。

 迷わず母屋の入口まで行き、ドンッドンッと格子こうしに曇りガラスの引き戸を叩いた。

 反応がない。

 引き戸の周囲を見回すと、左端の柱に黒い台座にった押しボタン式のスイッチがあった。

(ずいぶん古めかしいスイッチだな。第二次大戦中に作られたみたいだ)

 とにかくスイッチを押してみた。しばらくして曇りガラスの向こうに人影が見え、引き戸がいた。

 何故なぜかは分からなかったが、戸が開く直前、少年の頭の中にが浮かんだ。

(ここは、昼間の馬車の人たちの家だ)

 からからという滑車の転がる音とともに、扉が半分だけ開いた。

 予感どおり、さっきの少女の体が現れた。

 美しい少女だった。卵型の輪郭に大きな瞳。透き通るような肌。ふっくらとしたピンク色の唇。

 肩に掛からない程度に短く切った黒髪。

 抱きしめれば折れてしまいそうな華奢きゃしゃな体を包む淡い色の和服。

 少年と目が合うと、少女はハッとして、後ろを振り返った。

 少女の肩越しに家の奥をのぞくと、彼女と一緒に馬車に乗っていた七三分けの紳士が家の奥からジッと少年を見返していた。ネクタイ無しの白シャツに紺色のズボンを穿いて、その上から長い白衣を羽織っている。

 数秒間、まるで宿命の敵同士のように少年と紳士は睨み合い、それからフッと紳士が視線を外し、少女を見て言った。

「仕方が無い。ミヨ子、中に入れなさい。濡れネズミは寒そうだからな。まずは風呂に案内したら良い。着替えはイチロウのものを適当に。身長も体格も、ちょうどイチロウと同じくらいだ。何とか合うだろう」

 そう言って、紳士は白衣のすそをひるがえして廊下の奥に消えた。

 少女は、嬉しそうな顔で少年の方を振り返り「どうぞ、中へ」と言った。


 * * *


 家の中に入って少年が最初に感じたのは「暖かい」という温度感覚だった。

 暖かい空気に包まれたというそれだけの事で、ほっとして全身の力が抜けそうになる。

 廊下のすみに、全館暖房用のスチームパイプが見えた。

 古い日本家屋のような外見だが、中に入れば手入れが行き届いて清潔で、住みやすそうだった。それに見た目よりは近代的な設備の家なのかもしれない。

 天井を見上げると、白熱電球式の電灯が光を投げていた……この照明だけは古臭いな、と、少年は思った。

 少女が、少年の後ろに回って引き戸を閉め、鍵を掛ける。

「コートは、こちらへ。それから、靴はこちらへ」

 広い三和土の隅に、コート掛けと大きな靴箱があった。

 少女の言う通り、黄色いナイロン製のレインコートを掛け、スニーカーを脱いで靴箱に入れた。

 板の上にあがろうとして、ぐっしょり濡れた靴下に気づき、あわてて脱いでジーンズの尻ポケットにねじ込んだ。

 良く磨かれた黒板くろいたの床を濡らしたら悪いと思ったからだ。

 それでも廊下を歩いているあいだに濡れたジーンズの裾からポタッポタッと少量の水がしたたり落ちるのが気になって仕方が無かった。

 廊下を歩くうちに、この家が最初想像していたより随分ずいぶんと広い事に気づいた。

 正面から見てもなかなか立派な作りだったが、それ以上に、奥へ奥へと建物が伸びていた。

 気づいたことがもう一つある。

(全部が日本風、っていう訳でも無いんだな)

 建物内部は、いわゆる和洋折衷方式で、廊下に並ぶ部屋部屋への入口は日本風のふすまの場合もあれば、ステンドグラスを嵌め込んだ西洋式のドアの場合もあった。

 廊下の角を何度か曲がって、最後に突き当りのステンドグラスが一面に張られたドアを開けると、そこは風呂場の脱衣所のようだった。

「どうぞ、こちらでお体を温めてください。着替えは後で持って参ります」

 和服の少女は、そう言って脱衣所の扉を閉めた。

(森の中に、一軒家。それもこんな立派なお屋敷に『父と娘』……)

 腑に落ちない部分もあったが、とにかく今は冷え切った体を温めるのが先決と、上着を脱ぎ、濡れたジーンズを脱ぎ、下着も籐編みの脱衣籠に入れて風呂場の扉を開けた。

 ジーンズを脱ぐとき、一応ポケットの中身を調べてみた。さっき尻ポケットに入れた自分の靴下以外、何も無かった。

 浴室は床・壁・天井・浴槽すべて目の大きなタイル張りで、壁には抽象化された男女の影絵のような壁画があり、パターン化されたモザイク模様が至る所に配置されていた。

「アール・デコ……て言うんだっけ?」

 ほんの少しの間、少年は手の込んだ装飾に見惚みとれていたが、直ぐに壁から生えたシャワーの吹き出し口の下に言った。

 ご丁寧な事に、シャワーさえも朝顔の花を抽象化したアール・デコ様式だった。

 良く磨かれた真鍮製のレバーを回すと、少し熱いくらいのお湯が朝顔から吹き出して少年の全身に降りかかった。

 その熱いお湯を全身に刷り込むようにして、少年は冷え切った自分の体を温めた。

 シャワーで体を温め、備え付けの石鹸で髪の毛と全身を一緒に洗い、泡を流した後、湯船にかる。

 まだ完全に温まっていない末梢神経が熱い湯船に入る事を拒んだが、我慢してゆっくりと中に入った。

 やっと肩まで熱いお湯に浸かり、そこで初めて、今日の出来事を反芻はんすうする余裕が出来た。

(……僕は、深い森の真ん中を走る道の路上で目が覚めた)

 少年は湯船の中で思った。

(僕の名前は……ええと……駄目だ、思い出せない。日本生まれの日本人だ。それは分かる。でも、何県の何という町の出身だ? ……だめだ、それも思い出せない。年齢としは十四歳だ)

 結局、少年が自分について記憶していることは「十四歳の日本人である」……それだけだった。

 風呂から上がると、脱衣所から自分のシャツや濡れたジーンズや、下着や靴下までも無くなっていた。

 代わりに新しい下着とシャツと靴下、それにスーツとサスペンダー、ネクタイまでも用意されてた。

「ネクタイまで締めろっていうのか?」

 郷に入っては郷に従えとも言う。とにかく、与えられたものは全て着用することにした。

 脱衣所の鏡の前でネクタイを閉めながら、ひとりつぶやく。

「ネクタイの締め方はおぼえているんだな……たぶん、中学校の制服にネクタイがあったんだ……それでいて、どこの何という中学に通っていたのかも思い出せない……夕方、僕は時間を知ろうとして自分が腕時計や携帯電話を身に着けていないか調べた。つまり、腕時計や携帯電話の知識は有るんだ。でも自分の携帯番号や持っていた機種……そもそも携帯電話を所有していたのかさえも思い出せない」

 現代社会における一般常識はほとんど憶えているのに、自分自身を特定する記憶がと抜け落ちている。

(現代社会って言えば……この家、ずいぶんと古臭いな。一つ一つのデザインも、そうだけど……何て言うか……全体からにじみ出る雰囲気が現代の建物じゃない感じだ……まるで……二十世紀初頭の世界に紛れ込んでしまったみたいだ。けど、まさか……タイムスリップなんて) 

 着替えを済ませて脱衣所の扉を開け、まさか、そこに和服の美少女が立ってるとは思わなかったので驚いてしまった。

「うあっ、と……す、すいません。いきなり大声を上げてしまって」

「い、いえ、私の方こそ、驚かせてしまって」

「あの、洋服を貸して頂いて、ありがとうございました」

「大きさは、いかがでしょうか」

「ちょうど良い。ぴったりです。……あの……濡れた僕の服は……?」

「勝手ながら洗濯させていただきました。乾かしたのち、お返しします」

「ああ、ありがとうございます」

 同い年くらいに見える少女に自分の下着を持って行かれた恥ずかしさで顔が赤くなった。

 しかし雨に濡れこごえ死にそうになりながら歩いた後の、この至れり尽くせりのしは、本当にありがたかった。

 再び和服姿の少女の後ろについて廊下を歩く。

 廊下の角を何度も曲がるうちに、少年はいよいよこの日本家屋の異様さを感じ始めていた。

(何なんだ、この家は……まるで迷路じゃないか)

 その迷路のような廊下をしばらく歩いたあと、少女はある洋式のドアの前で立ち止まった。

 ドアを開け「どうぞ」という。

 少年は「どうも」と答えて部屋の中に入った。

 立派な食堂ダイニングだった。

 アール・デコ様式のモザイク模様をあしらった壁紙。天井は白黒モノトーン調の市松模様。その天井から吊り下がった、ステンドグラス製の傘に覆われた電灯。

 部屋の隅に幾何学的な形の花瓶。

 部屋の真ん中には八人掛けのテーブル。

 御影石を積んで作った暖炉の中で、赤い炎がパチパチと薪を鳴らしていた。

 テーブル奥の主人席に、先ほどの七三分けに髪を撫で付けた紳士が座っていた。

 さすがに白衣は脱いでジャケットを着て、ダイア型の市松模様のネクタイを締めている。

「どうぞこちらへ」

 和服の少女に案内されるまま、少年は家の主人の向かって右側に座った。

 少年が座ったのを確認して、少女は隣の部屋へ通じる入り口に向かった。

 少年は、自分でも気づかないまま少女の姿を目で追ってしまった。

「美少女だろう?」

 少女が隣の部屋へ消えると同時に、屋敷の主が少年に声をかけた。

 その声に少年はハッとして振り向く。気まずさで顔が赤くなった。

「ええ……まあ……」曖昧な返事をした。

は、な。だよ。私が作り上げた『生きた人形』だ」

「え?」

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