玄夢集

青葉台旭

路上で目覚めた少年の話(その1)

 意識が戻って一番最初に感じたのは、寒い……というより冷たい、という皮膚感覚だった。

「あー、つめて」これが、少年がで初めて発した言葉で、それはすなわで初めて聞いた言葉、初めて聞いた自分の声だった。

 目を開けると、コンクリートだかアスファルトで覆われた地面の向こうに木々が横になって生えているのが見えた。

 いや、横になっているのは少年の顏と体のほうだ。

 左の頬に、地面のコンクリートだかアスファルトの感触がある。

 右の頬には、絶え間なく空から降って来る冷たい水滴の感触があった。

 顔と、それから足も、雨に打たれて濡れていた。

 胴体は乾いていた。全身を叩く雨の圧力と「ぱたぱた」という防水生地に水滴がぶつかる音を感じた。

 少年は横向きに寝ていた姿勢から上体を起こし、道路の上に胡坐あぐらをかいた。

 あたりを見回す。

 雨の中、二車線の舗装道路の端に寝ていたんだと分かった。

 道の両側は森だ。

 雨のせいで視界はあまり良くなかったが、少なくとも見える範囲には、鬱蒼うっそうとした木々と下草以外、何もない。

 道はゆるくカーブしていて、左右どちらの方向も五十メートルほど先で木々の陰に隠れ、そこから先は見えなかった。

 自分の体を見た。

 半透明の安っぽいナイロン製のレインコートを着ていた。

(これのお陰で胴体は濡れずに済んでいたのか)

 レインコートからはみ出していたジーンズの膝から下とスニーカーは、顔と同じようにぐっしょり濡れている。

 上体を起こしたことで、水滴が顎から首筋を伝ってレインコートのえりから中に入ってきた。

 慌てて両手でうなじを探ると、思った通りフードがあった。急いでかぶる。レインコートのファスナーを目いっぱい上げ、フードの顎紐を引っ張って顔にピッタリ貼り付けるようにして、雨水の侵入を防いだ。

 そのうえで、改めて天を仰いぐ。

 木々の間から見える空は、厚い灰色の雲で覆われていた。

(いま何時だ?)

 朝なのか、昼なのか、夕方なのか……

 少なくとも夜中ではない。しかし太陽がどこにあるのかも分からない。

 ブルッと体が大きく震えた。

 それで、あらためて体温が下がっていることに気づいた。

 レインコートの中へ水滴が入るのを防いでも、空から絶え間なく降って来る冷たい雨が少年の体温を奪い続ける。

 気温そのものが低い。

 冷たい路面に触れている尻とももから体温が逃げていく。

 座っているよりは立っている方がまだかも知れないと思い、地面に両手をついて強ばった体を動かし、立ち上がった。

 スニーカーの中の濡れた靴下がぐちゃぐちゃして気持ち悪かった。

 体全体が少しずつ震えてきた。顎がカタカタと鳴り始めた。

 全身の筋肉に力を入れて何とか震えを止めようとするが、震えを止めたところで冷え切った体に温もりが戻る訳でも無い。

 もう一度、左右を見た。

 どっちが地獄行きで、どっちが天国行きだろう? と、妙なことを考えた。

 どっちでも良いや、と思い、左を向いて森の中を歩き出した。

 このままじっとしていれば、いつか凍え死んでしまう。

 動いていれば少しでも体温が上がるだろう。少しは気がまぎれるかも知れない。

 ここがどこで、自分はどこに向かっているのかも分からなかったが、とにかく歩けば生存確率が動くと思った。確率が上がって生き残れば良し、そうでなければ……

(知った事か)

 そう思ったのを最後に、あとは何も考えず、ただ凍える自分の体を両手で押さえ、右足、左足、右足、左足……と、両足を交互に前へ出す事だけに集中した。

 突然、後ろから、コンクリートだかアスファルト製の路面を何かがリズミカルに叩く音が聞こえて来た。

(これは……ひずめの音……か?)

 ハッとして、来た方向を振り返る。

 緩くカーブして木々の陰に回り込んだ道の先から、突然、馬車が現れた。

 一頭の大きな黒い馬にかれて、黒い馬車がゆっくりと近づいて来る。

 不思議な事に、御者席には誰も居ない。馬車を操る人間の姿が無い。

 さらに奇怪なことに、馬車をく馬には、首が二つあった。

 双頭の黒馬に牽かれて走る、黒く大きな馬車だ。

 その不気味さにギョッとしながら少年は大きく手を振った。不気味さより、こごえる寒さから救って欲しい気持ちのほうが強かった。

「おーい! おーい! 僕も乗せて下さい!」

 突然、馬車が速度を上げた。

 まるで少年の姿を見て、急いで通り過ぎることに決めたような感じだ。

 手をふり、必死に叫ぶ少年の脇を、黒い馬車が通過する。

 黒く塗られた四角形の屋根付き木造車体に、船の舷窓のような丸い窓が並んでいた。屋根には煙突があって、そこから絶えず吐き出される煙が後ろへいた。そんな構造の馬車が二台、蛇腹じゃばら式の連結器でつながれていた。

 つまり、馬車は二両編成の列車かトロッコのような格好をしているのだった。

 通り過ぎる瞬間、丸窓の向こうに人影が見えた。

(女の子?)

 少年と同い年……十四歳くらいの可愛らしい少女の姿。その向こうに、細面ほそおもてに薄い鷲鼻わしばな、鋭い目つきの紳士の影もあった。

 一瞬、少年と少女の目が合って、驚きで少女の瞳が大きくなった。少女は何事かを紳士に訴えた。

 紳士が首を横に振って、少女の訴えを退ける。

 馬車は、道路で手を振る少年を危うくきそうになりながら、道の反対側へ去って行った。

 ひづめの音が次第に遠ざかり、聞こえなくなった。

「くそっ」

 冷たい雨に凍え今にも死にそうな自分を見捨てて行ってしまった馬車に悪態をいて、その馬車の消えた先、カーブした道の向こうをしばらくにらんでいたが、一瞬カッと怒りで熱くなった体も、怒りが収まってしまえばあっという間に冷え切って、また元のとおりブルブルと震え出す。

 寒さに耐えることに精一杯で、自分を救ってくれなかった馬車の事など、もう、どうでも良くなった。

 少年は、仕方なく、馬車が消えた道の先に足を向けて、その馬車のあとを追いかけるように又トボトボと歩き出した。

 それでも、少しだけ希望が出てきた。

 一台でも馬車が通ったという事は、道の先に人の住む場所があるという事だ。

 町か、村か、いずれにしろ、屋根の下で暖かい食事にありつける可能性が出てきた。

 この道を通る馬車も一台限りだとは思えない。あの紳士と少女の馬車には振られたが、次に通る馬車は少年を乗せてくれるかもしれない。

(とにかく歩こう。この先には暖かい家がきっとるはずだ)

 そう信じて、少年は再び前へ進む事だけに集中した。右足、左足、右足、左足……と。

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