檻の中の勿忘草

ナツナギ

プロローグ・白

「ねえ、誰かいないの?」


白い空間にか細く響く声がした。


その質問に勿論返事が返ってくるわけがなかった。あなたはため息をつく。

あなたは大きな瞳をうるませる。


あなたの幼い声には不安や焦りや寂しさが内包されていたが、その声は誰にも届くことなく白に吸収され消えていく。



最初は大きかった声もだんだんと疲れて掠れていく。この迷路をふらふらしているうちにあなたは疲弊していた。


幼きあなたはまた前がどちらかも理解せぬまま当ても無くとことこと歩き出す。

空色のTシャツは涙で濡れていてひまわりのポシェットの中のティッシュはもうからだった。

上着のポケットはティッシュでいっぱいになっていて、あなたは困っている。


ポシェットの中のチョコレートを気休めに食べていたけれどそれももう底をつきそうだった。


ポシェットにあと入っているものはメモ帳にGPSつきの時計。


時計はあなたの大好きなお父さんのところに電子メールが送れる最新式のものだったけれど、左上の表示は圏外を示す。肝心の電波がこの場所では入らないようだった。


あなたはくるくると右回りに腕にはめてある時計を回した。

時計には位置情報と電子メールと時刻機能の他に付属機能のついていないシンプルなもので、電子メールが送れないとなれば後はあなたのお父さんがあなたがいないことに気づいてGPSで探査するしかない。


だが充電は心許なく、あなたは今朝お父さんに充電をしておけと言われたのを忘れたのを後悔した。残りは数パーセントしかなく、きっと数時間しか持たない。


父にあれほど口うるさく言われていたことだ。

充電が切れるとGPSも作動しない。

一人娘だからか亡き妻の形見だからか過保護なお父さんは自分のことを心配して言ってくれているのをあなたはわかっていた。


あなたは素直で心優しい。

人のことを思いやることが出来る。


そうだ、反省するのだ。あなたはこれから先も危険な目に遭うだろう。

そのために場所や情報というのは絶対に必要なのだから。そのために信頼と他人の愛は最も必要なのだから。

あなたには成さねばならぬ使命があるのだから。


閑話休題。

今の幼いあなたはGPSのことについては知らないけれど、お父さんが助けに来てくれると信じている。


あなたのお父さんの帰る時間はいつも通りなら今が13時なので10時間もある。

そこまで10パーセント弱の充電が持つ自信はなかった。あなたは途方にくれる。あなたは自力でこの迷路から出なければならない。


そうしてまたとことことあなたは歩き出す。右に左に左に右に。


あなたは不安そうな顔で周りを見渡した。

周りの空間はただ白いのみで、ここが現実だか夢なのかもあなたはぼんやりとしかわかっていない。

あなたは頬をつねる。


…痛い。当然だ。ここは現実なのだから。


そうだ。この世界は紛れもなく現実で、確実にあなたは出口のない迷路に陥っている。あなたは奇跡でも起こらない限りここからは出ることが出来ない。


だが、奇跡が起こらないという訳ではない。あなたは奇跡的にあなたの運命を変えるそれと出会うのだから。



そう、出会うのだ。


あなたは見つけた。黒い扉を。

あなたは運がいい。この地図がないと絶対に迷う樹海のような入り組んだ迷路で必然的に彼女に巡り会うことが出来るのだから。

いずれあなたは気づくだろう。この迷路は檻の一部なのだと。

この檻の中の少女を救わなければいけないと。


だがあなたはわかり得ないだろう。この扉を開けることで自分が大きな危険に飲み込まれることを。



あなたは躊躇なく、扉を開けた。

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