蒸気のハイゲート

夏野夜壱(なつのよいち)

第1話 ある日



多分この音はニューコメンの蒸気機関だろう。ジオ・ヴィクトワードに一番最初に響くスチームのけたたましい音はいつも決まっている。それから次々と、隙間から噴き上げるような圧縮された空気が捏ねられていった。この地下の街に朝が来たのだ。


僕、ヘンリー・ケインワーズは朝食を食べている。

焼きたてのブレッドにバターをたっぷりと塗り、その上にベーコンと半熟の目玉焼きを乗せて頬張るのが好きだ。スターゲイズ社の刷りたてのインクくさい朝刊を読みながら、コーヒーを一口啜る朝は日課になっている。この街唯一の(唯一"面白い")新聞社が僕の勤め先だ。

と言っても、別にあっちこっち走り回る訳ではない。印刷用の大掛かりな装置の前でインクの量と刷る枚数とを考えている。「あとは楽しみにしている愛読者諸君の喜ぶ顔」と付け足しておこう。勿論考えているとも。

次々と稼働し始める蒸気機関の駆動音を聞き、そろそろ出社の時間だとコーヒーを飲み干した。


ジオ・ヴィクトワードと名のついたこの街に太陽は昇ってこない。二十年前、人類の叡智の結晶であるバベッジ解析機関が完成した。それから四年後に、僕らは地上を捨て地下へ移り住んだからだ。

バベッジ機関は蒸気機関を用いたコンピューターだ。この発明により、技術力は大きく進化していった。大袈裟に言うなら、何でも叶える万能装置と言ったところか。

便利すぎるものには代償が付くのは当たり前だ。機器が吐き出す水蒸気が化学物質を巻き込み、紫外線と結合して毒の霧に化けた。バベッジ機関が完成する前から懸念されていた事だったが、急速に被害が拡大していったのだ。

そして、地下王国というシェルターは遂に完成し、人々は太陽を捨てた。

安全な最下層には王族や貴族層、一番地上に近い場所には貧民層、そしてその中間地帯に平民層が構築された。


スターターロープを思いっきり引き、エアバイクのエンジンをかける。ヴィンテージもののせいか、どうにもかかり具合が悪い。僕はもう慣れているから、「このポンコツ」と悪態をつきながら跨がった。

僕らにとっての空は、バイクにホバーエンジンを搭載したエアバイクが飛び交う。水蒸気の強い風で上昇、あとは地下空間の空気を循環させるファンの風に乗るだけ。ブロワーアクセルだってある。ジオ・ヴィクトワードでメジャーな乗り物のひとつだ。

年に一度、この狭い空でエアレースのイベントが行われる。一度観戦したことがあるが、その時の突風と騒音に嫌気がさしてしまった。なので僕は家に引きこもってラジオの実況を聞いて過ごしている。

あのへそ曲がりな気分屋に愛想を尽かし、仕方なく新聞社への道を足で行く。

たまにはいいことだ。街並みは煉瓦や石造りの建物が壁になっていて、道は同じく石を並べて整備されている。歩く旅に靴底と地面がぶつかる軽快な音が鳴った。


「今日も歩いて出勤かい、ごくろうさま」

「あいつまだ機嫌が悪いみたいで。僕に心当たりはないんだがなぁ」


後ろから馴染みの声が話しかけてくる。その声はまだ幼さのある、しかし口振りだけは立派なものだ。


サニー・フラナガンという名の彼女は、貧民層出身の子だ。まだ十代中頃のやんちゃ盛りは、僕と同じスターゲイズ社で働いている。僕らが発行した新聞を街中に届けるのが仕事で、その折こういった子供を雇うことは珍しくない。何せ色んな抜け道を知っていて、そのお陰で刷りたてを手早く渡せるからだ。

サニーはいつも僕に絡んでくる。「物知り眼鏡がいる」と叫んでから印刷室に遊びにくるようになった。ハードカバーの本を読んでいただけなのに。


「なあ、なあなあ聞いたかい?」

「知らない」

「しょうがないな教えてあげる、昨日も出たんだって」

「不審者?」

「馬鹿、ブギーマンさ!」


興奮気味にやや声大きく、彼女は僕の腰辺りを何度か強く叩いた。

ブギーマンとは、この街に出没する化け物のことで、形は不定形、出現する時間も場所も決まっていない謎多き存在。ブギーマンを恐れるものもいれば、好奇心に目を輝かせるものもいる。彼女は後者だ。自ら出現した現場に足を運んでは痕跡を探したり、その場所をスケッチしたりする。

今日はもう行ったのかと聞けば、さっき行ってきたと揚々に答えたが

既に王宮の処理班が処分したあとだったと悔しそうに言った。

この街は代々王家が統治している。彼らは壁に築かれた城から街を見ている。地上に居たときよりも、大衆の声がよく聞こえるし目も届くから対応がいいと本社にいる壮年の社員が言っていた。正体不明の怪物の処理も受け持ち、城に報告が入れば直ぐに対処される。


「でもな見ろ、今日は収穫があった。これはブギーマンの一部に違いないぞ」


そう言ってポケットから何かの塊を取り出した。それはやけに赤黒く、ただの石の様だった。

「勘違いじゃないか」と石を掴むと、不思議な感触だった。例えるならハードグミのようで、固いのか柔らかいのか、とにかく気持ちのいいものではない。


「きっしょ」

「失礼な!返せ」


僕の手からぶん取ると、そのままポケットにしまった。



ばかでかい電球のような装置が、この地下世界の太陽だ。木の根と葉が緑色の空を形成している。時間によって明るさが変化し、夜には月を模した小さな電球が輝く。そんな全てが人工的な街は、地上を省みず息をする。



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