第25話 ことね9 失踪
高谷は続けた。
「今朝、連絡も無くレストランの仕事を休んでいたらしい。ここ最近は体調も悪そうで、連絡を入れて仕事を休む事は多かったらしく、おそらく今回も体調不良だろうとは思ったらしいんだが、そこの店長が一応確認して欲しいと事務局に連絡してきたんだ。そこで担当医師が部屋まで行ったが、そこに彼女は居なかったらしい」
高谷は慌てていた。
ことねは、すぐに目星がついた。
「彼氏のところなんじゃあないですか」
すると高谷が少し安心した様子で聞き返してきた。
「彼氏が居たのか?その人の名前わかる?」
「ええ、同じ職場の井口純也って人」
その答えに彼は顔を歪める。
「井口君なら職場に居たよ。しかし彼女の居場所を知ってる人間は職場には居なかったんだよ。おかしいな……。フリースペースや、お店やら、公共エリアは全部見て回ったし、ことねちゃん、他に何か心当たりないかい?」
事態はことねが考えるより由々しい状況の様だった。
「先生、公共エリアのトイレとか見た? 女子トイレで倒れちゃってるとか。最近彼女、体調悪かったから」
ことねの心臓の鼓動は、どんどんと早まっていった。もしかしたらどこかで晴香が助けを求めているかもしれないと思うと、気持ちは焦るばかりだった。
「いや、今女性の先生がその辺は探してくれている。見つかったら連絡が入る事になっているが、まだ連絡は来ないよ」
ことねはどんどん早まる鼓動を感じながら、晴香との記憶を呼び覚まそうとしていた。どこか皆の知らないような、晴香だけの特別な場所……。
その時中庭の大きな振り子時計が、昼の12時を知らせる鐘を鳴らした。
「ゴーン、ゴーン」
この音を聞いて、ことねは、はっとある場所を思い出した。晴香だけの特別な場所。
「先生、先生って、ヘリの緊急発着所に出る用の鍵って持ってる?」
ことねが聞くと、高谷が少し驚いた顔で答えた。
「一応持ってるけど……。なんでことねちゃんがそんな場所知ってるの?」
ことねは、彼女の15歳の誕生日の時、晴香が連れて行ってくれた屋上を思い出していた。あの時は警備員の後をついて忍び込み、すぐに戻ってきた。もしかしたら今晴香は、何らかの理由で、締め出されたりして、中に戻って来れなくなっているのかもしれないと思った。ことねは目の前にある上層階行きのエレベーターのボタンを押した。
50階に上がるまでの間に、ことねは高谷に何故その場所にいると思うかを説明した。勝手にその場所にしのび込んだ事に、高谷は少し怒っている様子だったが、今はその事には触れないようにしていた。
「明日、僕に相談がしたいって行っていた事は何だったの?」
高谷がことねにたずねる。
「実は最近、彼女、夢を見る様になっていたんです。最初はこの施設にいる彼氏の夢だったから、問題ないんじゃあないかって言って、先生たちには相談しないでいたんだけど…。この前はもしかしたら、夢に出てくるその男が今の彼氏じゃあないような気がするって言い始めて……」
高谷は、より表情を厳しくさせた。
「そうか……。何かその症状と、今回の失踪が関連していなければいいけど……」
エレベーターが50階に着くと、2人は足早に非常口の方に駆けて行った。あの15歳の誕生日から、ことねは一度もあの場所へは行っていなかったが、行き方ははっきり覚えていた。あれから晴香はあの場所へ1人で行ったりしていたのだろうか。
非常口に着くと、高谷は重い非常扉を開けた。中はひんやりとしていた。以前は心地よいくらいに感じられたこの空気も、今は心の芯を冷やす様な冷たさに感じられる。ことねは左にある数段の階段をパッと上った。
「先生ここの鍵開けて」
高谷はジーパンの右のポケットから、小さな鍵のついたキーケースを取り出した。そしてその重いドアを開ける。
ドアを開けると、雲ひとつ無い晴天の青空が広がった。秋の心地よい澄み渡った空が上空一杯に広がる。以前ここで嗅いだ事のある、少しだけ海の匂いが混じった優しい風が、ことねの黒い髪の間を通り抜けて行った。
今がこんな状況でなければ、ここでずっとゆっくりしていたい様な気持ちの良い天気だった。
ことねはHと書かれた柵に囲まれた屋上を見回した。しかしそこにそこに晴香の姿は無い。
ここではなかったのか。
そう思いながらも、柵のところまで行き、柵の外側の周りに配置された配管や、メーターボックスの周りをくまなく確認した。高谷も同じ様にことねの反対側から屋上の様子を確認する。
「晴香~! 晴香いる~?」
ことねがそう名前を呼んだ時だった。
「ガタン」
柵の外側、一段さがった柵の無いエリアから何か物音がした。
高谷もことねも一斉にそちら側に視線をやる。
するとそこにはショートパンツにTシャツ姿の晴香が、立ち上がりながらこちらを見ていた。
「晴香!」
ことねが叫びにも近いような声で呼びかけた。なるべく晴香に近付く様に、上半身は半分柵の上に乗っている。
「あ、ことね」
それとは対照的に、まるで教室で会ったかのような冷静さで晴香は答えた。
「晴香、何してるの? なんでそんな所にいるの? 危ないからこっち来なよ」
ことねもなるべく冷静さを保ち呼びかける。
高谷はあえて2人の会話に入らないようにこの状況を見守っているようだった。
「もう、そっちには帰らない」
晴香はそう言うとしっかりと立ち上がり、ゆっくりと、屋上の終わり、ここからではその先には海と空しか見えないエリアの方に向かって歩いていく。
「ちょっと、晴香、どういう事?こっちに戻らないってどうして?」
ことねは必死に話しかける。時より海から吹く強い風が、ことねの声を晴香に届けないようにしている様で憎らしい。
高谷は晴香から見えない様にその一段下がったエリアへ行くルートを探していた。
「ことね、やっぱりあの夢に出てきた人、井口君じゃなかったんだ」
晴香は顔だけことねのほうを向け、話している。
「じゃあ誰だったの? こっちにきてちゃんと話してよ」
ことねはどうにか晴香をこちらに戻そうと呼びかける。
「昔に出会った大切な人だった。大切な人だったのに……」
晴香は下を向き涙をこぼしている様だった。
「昔の事を思い出したって事? そうなの? 辛い事を思い出しちゃったんでしょ? 晴香! でも大丈夫だよ。ほら、昔、人が抱えてる過去や秘密なんて、他人からみたら大した事無いって言ってたよね? きっと乗り越えられるって! だから一緒に乗り越えようよ! ね! だから戻って来て。 私だって、晴香がいないと乗り越えられないよ…… お願いだから……」
ことねの目からも涙が溢れてきた。高谷は配管に身を隠しながら、だんだんと晴香のほうへ近づいている。晴香は顔を上げ、真っ赤にした目でことねを見る。
「ことね……。私、本当に全部を思い出したの。なんでここに来たのか。なんでここにいるのか。ここに来る前私に何が起きたのか……。全て思い出して分かったの。忘れちゃいけない過去はあるって。私はここに居ちゃいけないって」
そう言いながら、晴香は屋上の一番端、腰の位置辺りまで高くなっている場所に、外を向くような形で腰掛けた。
「晴香、本当に待って、何があったのか、私には話して!」
もうすぐで高谷が晴香を抱え込めそうな場所まで来ていた。
ことねはどうにか晴香の話を引き伸ばそうとしていた。しかし晴香はその呼びかけには答えず、腰掛けていたその場所に立ち、そして両手を大きく広げた。それは2人が初めてこの場所に来た時、晴香がはしゃいでやって見せた、鳥が羽を広げた様なポーズだった。その時はことねが警備員に見つかるからと手で押さえて、止めさせてしまった。
「ああ、開放される……。ことね、あんたも本当の事、知った方がいいよ」
晴香がそう言ったと同時に、高谷は晴香の足元を抑えるような形で、脇にあった配管の影から飛び出した。
しかしそこにはもう晴香の足は無かった。
一瞬先に晴香は青い空に向け飛び立ってしまっていた。飛んで行ってしまうのではないかと思った晴香の体は、すぐに重力に引っ張られる様に下に向って落ちて行った。
そしてすぐに視界から消えてしまった。
ついさっきまでそこにいた晴香の姿が、今はもう無い。
ことねは腰が抜け、そこに座り込んだまま立てなくなってしまった。ことねの頭の中に晴香の声が響いていた。
「あんたも本当の事、知った方がいいよ」
晴香に「あんた」と呼ばれたのは最初で最後だった。いや、あれは晴香ではなかったのかもしれない、とことねは思った
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