第17話 結3 穏やかな時間

 結が足しげくジムに通い続け、もうすぐ半年になろうとしていた。最近は以前より気持ちも明るくなった様な気がしていた。


 結はお昼の問診の時間に向け、おいしいコーヒーを入れる為に、コーヒーカップを暖める作業をしていた。コーヒー好きの高谷の為に、なるだけおいしいコーヒーを用意するのが、結の問診前の楽しみでもあった。コーヒー豆も、仕事でお世話になっているカフェの店長から聞いた豆を、高谷に言って取り寄せてもらっていた。


「ピーンポーン」


 12時2分、玄関のチャイムが鳴る。スリッパをパタパタ言わせて結は玄関に向かった。


「こんにちは」

 結は笑顔で高谷を向かい入れる。


「今日もコーヒーのすごく良い匂いがするね」

 高谷が嬉しそうに言った。

「もちろんご用意してますとも。まあ、どうぞどうぞ」

「それでは、失礼します」

 2人は少しふざけた敬語で、笑いながら部屋に戻った。

 「ほんと、これじゃあ、問診しに来てるっていうより、お茶をしに来てるって感じで、もうしわけないな……。いや、ほんとに結ちゃんの入れるコーヒーはおいしいよ。」


 高谷は嬉しそうにコーヒーを啜っていた。このコーヒーを飲んでから、問診を行うというのが、いつもの日課だった。問診は一般的に30分以内と決まっていたが、最近はどんどんその時間が延びていた。結が一生懸命長くしようとしているという事もあったが、高谷の方も、この時間を楽しんでいる様子で、急いで帰ろうとはしなかった。


 高谷は結が話して欲しがるので、外の世界の話を良くしてくれた。講習で外の世界について色々学ぶし、習慣的な記憶も残っていたりするので、大体の事は分かっているつもりでいたが、高谷の口から聞くと、外の世界はずっと面白い場所に思えた。


「この前ディズニーランドっていう遊園地に友人の子供を連れて行ったんだけど……」

問診の後に高谷が話し始める。


「友達?」

結が尋ねる。


「ああ、大学時代の。で、彼は結婚していたんだけど、最近離婚して、女の子で5歳の子供は彼が引き取ったんだけど、その子を事情があって僕がディズニーランドに連れて行く事になったんだよ」

「あ、知ってる。ネズミのキャラクターがいるとこだよね」

結は以前見た雑誌の誌面を思い返していた。


「あ、ネズミか、確かにネズミなんだよな。あれ。そんな感じしないけど……」

「それでそれで」

結がまくし立てる。


「そう、そこで、色々な乗り物に乗るんだけど、それが一時間とか待つんだよ」

「え、1時間? それでその乗り物はどのくらい乗るの?」

結が府に落ちない顔で質問する。


「その乗り物は五分くらいかな」

「え~! 5分の為に1時間? それでその乗り物は同じ場所から出て、同じ場所に戻って来るだけなんだよね?」

「そう。僕は外の世界に住んで長いけど、あれだけはちょっと理解が出来ないよ。この日本の人口が少なくなってる時代に、こんなに大勢、若い人間ばかりいるのが、違和感すらあっったよ」


「そっか、外は若い人が少ないんだよね」


 結の住むこの棟の中は、殆どが10代から30代だった。

 四十代以上はたまにしか見かけない。

 人生を大金かけてやり直そうと思う年代が、大体その辺りなんだろうと結は考えていた。おじいちゃん、おばあちゃん、と言われるような年老いた人間を、結はあまり見た事が無かった。


「そうだよ。今や、日本人の2.5人に1人は高齢者と呼ばれる65歳以上の人間だからね。君や僕も含めた生産年齢に関して考えると、生産年齢1人に対して、高齢者1人という計算になるんだ。外に出たら僕ら世代に掛けられているプレッシャーは凄いよ。若い人間の命はとても大切に扱われるし、特に働き者の若者は、本当に大切にされるよ。だからこの様な施設も考えられたのかもしれないね」


この場所にいると、想像しがたい世界だった。


「地下鉄なんか乗ってると、全席シルバーシートって言って、高齢者や妊婦さんなんかに席は譲らないといけないんだよ」


「妊婦さん……」


 結はそう呼ばれる人を一度も見た事が無かった。


 時間は12時45分をまわっていた。相変わらず鳩の飛び出さない鳩時計を高谷はチラッと横目で見ると、ゆっくりと席を立った。

 空いたコーヒーカップを持ってミニキッチンのシンクへ歩いていく。


「あ、あたし後で洗いますから、置いておいて下さい」

 結は慌てて言う。


「そう? じゃあお言葉に甘えて……」

 高谷はそう言うとカップをシンクに置き、玄関ドアの方へ向かった。結は玄関まで見送る。


 そこで高谷は思い出したように振り返って言った。


「あ、この前、君が好きそうなコーヒーカップを家の近くにある雑貨屋でみつけたんだ。写真撮ってくるから、それ見て気に入ったら買ってこようか?」


 結はその言葉に、小躍りしたい気分だった。棟の外以外で、自分の事を高谷が考えてくれた事が嬉しかった。


「高谷さんがそういうなら、写真とか見ないでも大丈夫です! きっと素敵なはずだから」


 結が平静を装いつつ答えた。


「え~、いや、写真は撮ってくるよ。値段はそんなに高くなかったとは思うけど……」

 高谷は笑顔でそう話すと、それでは、と部屋を後にした。


 高谷がいなくなった部屋でシンクに残ったコーヒーカップを洗いながら、結はため息を付いていた。また気持ちを打ち明けられなかった事を後悔しているのだ。


 結の体重は1ヶ月以上前に四キロ減量には成功していたし、日々の努力のおかげか、肌の調子も、心の調子もすこぶる順調だった。しかしいざとなると高谷に告白することが出来ないでいた。それは、日を重ねるごとに、高谷の存在がより大切なものへと変化していくからだった。自分の気持ちを伝えて、今の様に会えなくなってしまったりしたら、自分がどのような精神状態に陥るのか予測がつかず、状況が悪くなるのではないかと危惧していた。ここを出てから告白する方がうまくいく気もする。

結はいつもこんな考えを巡らせては、答えが出せずにいた。


結が洗い物を終えて時計を見ると、時間は1時を過ぎていた。

気持ちを落ち着かせ、仕事場へ向かう準備を始めた。

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