第9話 理香
「なんでだめなの!」
理香は持っていたバッグを自分のベッドに投げつけた。そしてそのままベッドにうつぶせに横たわった。
理香は第2棟の1階に位置する、第二管理事務局から、外出届け不受理の報告書を持って帰ってきたところだった。
「何年ここに閉じ込める気なの!」
そう言って起き上がり、今度はベッドにあった枕を床に投げつけた。それは床に高く積みあがっていた本たちに当たり、それらはばたばたと倒れた。もともと散らかっていた部屋は、より一層雑然とする。
理香がこの23612号室に来てからもう4年近くが経過していた。
最初は1年も経たずにこの場所を出て行けるものだと信じていた。
それが理香の場合はかなりの長居をする羽目になっていた。
その間、同年代の顔見知りができたりもしたが、気付くと理香よりも先にここを出て行ってしまっていた。居なくなる時は、決まって皆突然だった。
別れを言う機会も殆ど無かった。
もともとここへ来た当初から今まで、理香は一度もこの場所を好きになった事は無い。だが近頃はより一層、嫌いになってしまっていた。
医師たちの住民を蔑む様な表情。
常に隠し事をされている感覚。
バーチャルの様な生活。
過去を思い出せない自分。
理香は医師たちも嫌いだったが、過去を忘れてしまっている自分も許せなかった。本当なら過去の事も抱えて生きて行きたいと思っていた。
自分にはその強さがあるはずだと思っている。
「バーでも行こう」
理香はそう思い立ち、カードキーをジーパンのポケットに入れ、玄関に向かった。
玄関でいつものヒールの高い、シンプルな黒い靴を履こうとしたが、気分的にそれを履く元気は無かった。
何か無いかと靴箱を開け、探っていると、奥にあまり履いたことの無い、黒いスニーカーが見えた。理香はいつそれを購入したかも思い出せなかったが、4年もここにいるのだから、そんな事もあるだろう、と考えてからそれを履き、部屋を出た。
今年20歳になった理香は、すぐにお酒を頻繁に飲む様になった。
最近はその量も日を増す毎に増えていた。自由奔放な性格の理香にはこの環境が肌にあわなかったのだ。
小さな事で怒髪天を衝いては、周りを困らせていた。
この様な行動がここに長居を強いられる原因だという事を、本人も理解しているつもりではいるのだが、一度怒りを覚えると、自ら抑制することが出来なかった。
エレベーターで二つ階を上がり、最上階の38階まであがって来た。この階には、バーの他に、ファミリーレストランやカフェ、フリースペース等があった。
理香は迷わずエレベーターを出て右奥にあるバーへと足を運んだ。
入り口に長身のボーイが店の制服と思われるスーツを着て立っていた。ボーイと言ってもこの棟の住人だ。
「いらっしゃいませ」
少し自分のサイズより小さめのスーツを着たボーイが愛想無く声をかける。
「カードのご提示をお願い致します」
理香はジーパンにしまったカードを取り出し、その無愛想なボーイに手渡した。その男はカードを手元の電子端末のカードリーダーに通すと、画面に情報が出てくるのを待っていた。
理香は、彼の顔を眺めながら、その曇った表情の中に自分と同じ匂いを感じた。この人も一刻も早くこの場所を離れたいと思ってる……。
この施設で暮らす人間の中には、なるべく長くここに留まっていたいと考える人も少なくない。
外の世界で暮らしていくことへの恐怖心や、自分がうまくやっていけるかを危惧する気持ちが殆どだが、中にはここの暮らしが快適で、心地よくなってしまっている者もいた。
理香はそんな人間を見る度に吐き気がした。
そういった意味では、ボーイの無愛想な態度が理香を安心させた。その時ボーイが顔をあげて言った。
「お客様、申し訳ありませんが、お客様は今月の飲酒が許容量を超えておりますので、当店でアルコール類を提供する事は出来かねます。ソフトドリンクのみのご提供であれば、ご利用頂けますが、如何なさいますか?」
その言葉に耳を疑った。
「え、なんであたしのアルコール摂取量をあんたが知ってんの?」
理香は苛立ちながら彼の顔を睨み付ける。
「いえ、こちらのカードにそのデータが記載されております」
そういうとボーイは端末の画面をこちらに見せた。そこにはレストランで飲んだビールや、売店で買った小さなワインなどのアルコール購入履歴、ここのバーで注文したものなどが全て記載されていた。
理香は、頭にカーッと血が上るのを感じた。
だめだ、怒りに思考を乗っ取られちゃいけない……。
理香は冷静になろうと試みる。しかしその端末に書かれた文字が理香の平常心を奪う。
『20歳 女性 三月分 アルコール摂取量限度オーバー』
理香は怒りを抑える事が出来なかった。そのボーイの持っている端末を奪うと地面に叩きつけてしまった。理香はその端末を壊してしまいたかったのだが、絨毯敷きの柔らかい廊下ではそれは叶わなかった。
この施設内ではどこまでも危険の無い様に守られている。絨毯敷きの道など、もう歩みたくない。理香は砂利道を裸足で走ってみたかった。しかし理香の投げたそれは、ゴトっと鈍い音を立て、3メートル程、向こうの方へ滑っていっただけだった。
ボーイはあまり怒った様子ではなく、面倒臭そうな顔で理香の顔を少し睨み付けた。
斜めに流された黒く長い前髪の奥から、切れ長の鋭い目が覗く。
そしてゆっくりと放り出された端末の方まで行き、片手でそれを拾いあげ、モニター面に傷が入っていないかなどを確認していた。機械に一通り問題の無いことを確認すると、スーツの袖でモニターのほこりを払いながら彼は理香の方へ振り返った。
「今月、あと3日なんだから、我慢すれば? 今日は諦めてもう部屋に帰れよ」
彼は冷静に理香に忠告した。しかし理香の方は一度激昂した気持ちを抑える事ができなかった。
「なんでアルコールの摂取量まで、あれこれ言われなきゃいけないの? あんただっておかしいと思うでしょ?」
理香は大きな声で言った。しかし彼は冷静だ。
「それは思うけど、ここに居る短い期間だと思えば我慢できる。君も少しは我慢しろよ」
「短い期間って、私はもうここに4年以上いるのよ。貴重な青春時代の4年をここで過ごして、まだ外出だって許されないんだから!」
彼は細い目を少し見開き、小さく驚きの表情を浮かべた。
「四年……」
彼にそんな事をいってもどうにもならない事は、理香にも分かっていた。しかし、他人事の様に彼女を制す彼に、ここは思っている以上に恐ろしい場所だと思わせたかったのだ。
その時、近くのエレベーターの到着の合図が鳴った。
「チン」
そしてそこからは、理香の担当医師の高谷が降りてきた。
「高谷さん……」
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