閑話:とある少女が微睡に見た夢の景色

 その少女は、幼いころから天才と地元でもてはやされていた。

 小学校1年生にあがる時点ですでに高校生レベルの内容は完璧に理解しており、絵画や作文、挙げられる賞は全て手に入れていた。運動神経だけは全然なかったが、特に身体が弱かったわけでもない。

 そして四歳から母親に教えられていたトランペットはソロコンクールの全国大会で何度も優勝するほどの実力だった。

 勉強や作文などは、少女自身特筆するような努力を行ってきたという自覚もないし、それに喜びや楽しさを見出すことは少なかった。けれどトランペットは――少女が七歳のときに病で亡くなった母親から教わったトランペットだけは、心から打ちこむことができた。表情の変化に乏しいと言われるその端整な顔も、トランペットを吹いているときだけは楽しげに綻ぶのだった。


 その少女は、小学校三年生まで孤独だった。

 その優秀な頭脳ゆえに、学校での授業に楽しみを見いだせなくなってしまう。それでも根が真面目な彼女は授業を受け続け、フラストレーションを溜めていく。

 自身にとって当たり前のことを答えるだけで褒めてくれる教師が理解できない。

 それを答えられない同級生が理解できない。

 喜びも楽しみも得られない学校生活を、ただ機械的にこなすだけでしかなく、次第に表情の乏しさを形作る要因になっていた。

 この頃の子供社会というものは大人たち以上に、自身と異なる者に対して過敏で残酷だ。褒められても顔色一つ変えず、奇異な視線を自分たちに向ける少女に対する反発、嫉妬、あるいは恐怖。

 友達と呼べる者はなく、クラスメートから嫌がらせを受けるようになりながらも、片親で頑張る父に心配はかけまいと、無表情の仮面をつけたまま学校生活を送っていた。


 感情の発露が苦手になっていく少女ではあったが、トランペットの音はそれに反比例するように感情豊かで雄弁だった。一曲が終わったときに、聞く者が皆涙を堪えるために拍手ができず無音の退場を行ったという武勇伝もある。自己主張が少ない彼女が自身の思いを外に放つことのできる唯一の手段だった。


 「生意気なんだよ!」


 帰り道を一人で歩いているところに、突然背中から衝撃を受け、手をついて転ぶ。自身の怪我を見る前に、トランペットが入ったケースに傷がついていないことを確認する。そうして少女が後ろを振り向くと、男子生徒が四人、怒り顔で立っている。

 その日、学校のブラスバンドに所属していない少女はその顧問の先生に頼まれ、部員の前で一曲披露したのだ。少女の演奏を顧問は誉めそやし、部員への手本として聞かせると同時に、成績の揮わない部員に対する発破をかけようとしていたのだ。記憶力の良い少女は、トランペットパートに居た六年生二人と、クラリネット、オーボエそれぞれのパートの五年生だと認識する。


 「部員でもないのにわたしは上手に吹けますよってか!? 三年生なんだから空気読んで失敗するとかしろこの野郎!」


 少年たちは嫉妬と怒りに身を任せて、理不尽な言葉を、彼らよりも小柄で年下の少女にぶつける。

 しばらく少女は少年たちを見つめ、感情の読めないその表情に少年たちはたじろぐ。

少女は立ち上がり、そこに少年たちなど居ないかのように、背を向けて歩き出した。


 「おい! 無視してんじゃねーよ!」


少年たちが手近にあった石を投げつける。背中に、頭に、肩に当たっても、少女は振り返りもせずに淡々と歩いていた。けれど石の一つがトランペットのケースに当たったとき、少女はケースを掻き抱いて少年たちに振り返る。

 その表情は怒りに彩られていたが、その怒りをどう言葉に表現していいのか分からず、ただ睨みつけることしかできなかった。

 初めて見せる反応に少年たちは驚いていたが、やがて意地の悪い笑みを浮かべ、少女の下へと歩み寄る。その行動にビクッと少女の肩が揺れるが、足が竦んで逃げ出せなかった。


 「寄越せ!」


 無遠慮に伸ばされた手がケースに伸びているのに気付いた少女は咄嗟に背中を向ける。


 「いや!」


 その場で初めて放たれた声は甲高く響くが、辺りには誰一人も居ない。監視カメラは多数設置しているが、その場で即時的な対応がされるわけもない。2040年代にイギリスを手本にした監視カメラネットワークを作ろうと日本で試みられたが、国民の強い反対により実現しなかったという、最近読んだ本の内容をなぜか少女は思い出していた。

 少年たちの手からトランペットを守ろうと、少女はケースを抱えてしゃがみこむ。ケースを引っ張り出そうとしていた少年たちだったが、それが厳しいと見るや否や、小柄な身体に暴力をぶつけはじめた。


 痛みを感じないわけではない。

 予防接種のときは注射から逃れようと、病院の医師の腕に噛みついたことだってあった。人並み以上に痛いのが嫌いだと少女は自負している。

 恐怖を感じないわけではない。

 三歳ごろにたまたま見た怖い映像を思い出して、自分の部屋から父親のベッドにもぐりこんで父親を起こすことなど、頻繁にやっている。


 自身よりも大柄な四人の男子、それも年上が、大声で罵りながら痛めつけてくる。恐怖と痛みで泣き出しそうだったが、少女はそれでも耐えてトランペットを守り続けた。四歳のときに誕生日で父親に買ってもらい、元トランペット奏者の母親から習い続けたトランペット。少女にとってはそれこそ、命以上に大事なものと言っても過言ではなかった。


 痛みも、今曝されている恐怖も、それを失うと考えるときの恐怖と胸の痛みに比べれば少女には耐えられた。


 「……くっそ! 何なんだこいつ!」


 一向に手放す気のない少女に痺れをきらす。そして一人の少年があるものに目をつける。


 「ふざけたリボンしやがってクソ!」


 乱暴に頭からリボンを抜き取られる感覚に、少女は心臓を掴まれたような絶望を覚える。


 「やめて、返して!」


 咄嗟に出た声に、少年たちは意地悪い声で笑いながら、


 「じゃあ、そのトランペットと交換してやるよ」


 と、容赦なく告げる。

 少女の栗色の髪を結わえている、細く赤いリボンは亡き母親から譲り受けた物だ。トランペット同様、少女の大事な物の一つだ。選べるわけがない。


 「返してほしかったら明日学校に、ぶっ壊したトランペット持ってこい。それと交換だ。先生とか親にチクったらどうなるか分かるよなあ?」


 脅すような口調で、うずくまる少女の足に蹴りを入れる。声を殺して身を震わせる少女の反応を見て少年たちは笑い声をあげる。そうして少女を置いて歩き出そうと、背中を向けて歩き出す。


 「待って……」


 痛む身体に鞭打って、少年たちを追いかけようとしたとき。


 道着姿の少年が、少女のすぐ横を駆けた。


 「え……?」


 思わず漏れた困惑の声を置き去りにして、少年はリボンを持つ少年の無防備な背中へと、


 「どりゃぁぁぁあぁぁ!」


 ボーイソプラノの声を振り絞って、跳び蹴りをお見舞いさせた。いきなりの攻撃に、蹴られた少年は海老反りになって前方に倒れこむ。


 「「ユキヒサ先輩!?」」


 「ユキヒサ!?」


 ユキヒサと呼ばれた少年は背中の痛みと地面に顔をぶつけたときの痛みで悶えており、残りの三人が慌てて駆け寄る。

 道着姿の少年はそんな四人に目もくれず、倒された少年が落としたリボンを拾って少女へと駆け寄る。


 「はいこれ。大事な物なんでしょ?」


 そう言って、右手で握ったリボンを少女へと突き出す。勝気なその表情は『俺、やってやったぜ』と言わんばかりのドヤ顔であった。

 あまりの出来事と、事態の変化の早さに、少女は痛みも忘れて目を白黒させる。


 「ハルちゃん、待ってよ~~」


 遅れて聞こえる声に、少女はその方向へと目を向ける。少年と同じ黒髪と道着姿ではあるが、少女よりも小さいその体は竹刀袋を二つ抱えており、よろけそうになっている。


 「遅いよ優華。もうちょいキビキビ動こうぜ?」


 「だって、いきなりハルちゃんが自分の竹刀私に押し付けて走っていっちゃうからじゃない! って、あのお姉ちゃん、大丈夫?」


 可愛らしい丸い瞳を心配そうに揺らし、優華と呼ばれた少女はハンカチで少女の足元を拭う。鋭く染みるような痛みに目を向けると、最後に蹴られたところがすでに内出血を起こしており、そこの皮膚がめくれて血が流れていた。


 「お前、何しやがる! ヒーロー気取りかこの野郎!」


 明らかな怒気を含んだ声に、少女は身を強張らせる。ユキヒサは鼻血を流しながら立ち上がり、残りの三人も少女たちに向かって敵対的な目をする。


 少女と優華を庇うように、ハルと呼ばれた少年が四人に相対する。少女より少し大きいくらいのまだ小柄な体格だったが、少女にはそれがとても大きく逞しいものに見えた。


 「『何しやがる』だぁ? それはこっちの台詞だボケども!」


 優華から竹刀袋の一つを手に取る。そして少年たちよりも鮮明な怒りを放ちながら、ハルは竹刀袋から竹刀を取り出し、右手だけでその切っ先を四人に向ける。


 「燈華さんと椿さんとで約束したことだ。

 いち、男はいかなる時も女に暴力を揮ってはいけない!

 に、戦うときは常に正々堂々! 卑怯な手を使ってはならない!

 さん、弱い者苛めなど言語道断! むしろ弱い者の味方である強さを心得よ!

 一つでも破れば生まれてきたことを後悔させるまで叩き直すってな!

 お前ら全部破ってスリーアウトだ! そのふざけきった根性、俺が叩き直してやる!」


 漫画やアニメのような啖呵であったが、少女にはそれがとても勇ましいものに聞こえた。ハルのその剣幕と竹刀を持つ姿に、四人は怯みあがっている。


 「お、お前だけ武器持ってずるいだろ!? こっちは丸腰なんだぞ!?」


 何をふざけたことを言っているのだろうと、少女はどこか他人事のように思う。四人がかりで低学年の女の子にしたことを、彼らは忘れているくらい頭が悪いのだろうか。


 「ん、言われてみりゃそれもそうか」


 ハルのその声に、少女だけでなく四人組も呆気にとられる。そうしてしばらく考え込んだあと、ハルは自身の得物を四人組の足元へと投げた。


 「じゃあ、それ貸すわ。誰かがそれ使えばいいだろ。それ掴んだらスタートな」


 そう言って、ハルは何の緊張感もなしにストレッチをするのだった。


 「ああもう、ハルちゃんったら。自分の竹刀そんなに乱暴に扱っちゃダメなのに」


 優華と呼ばれた少女が、舌足らずな口調で言う。この状況をきちんと理解できていないんじゃないかと思い、少女は優華に声をかける。


 「あの、あれ四対一だし、それに、竹刀、あの」


 あまり身内以外の人と喋らないでいたせいで、自身よりも明らかに幼い少女に対しても緊張で言葉が回らない。最初そんな様子にキョトンと呆けた表情をしていたが、優華は大きく笑みを浮かべて、


 「大丈夫だよ、お姉ちゃん。ハルちゃんは強いから。それに、こんなに可愛いお姉ちゃんを苛めるような悪い奴らなんだから、一回くらい成敗されなきゃ」


 と無邪気な声で、少女を安心させるように言った。






 「おいどうする?」


 ユキヒサと同じトランペットパートの六年生が、残りの三人に問いかける。向こうは武道をやっていてこちらは文化部ではあるが、向こうは竹刀を捨てるどころかこちらに差し出している。加えて体格も数もこちらが勝っている。それでも危険を察知するアラームが頭の中で鳴り響いているような錯覚にとらわれていた。


 「やるに決まってんだろ。あいつ絶対に泣かせてやる! 俺が竹刀持つ!」


 ユキヒサは鼻血がようやく止まりかけていたが、鼻と背中の痛みは未だ消えずに怒りの元となっていた。


 そうしてユキヒサが地面に落ちてる竹刀を手に取り、ハルに向かおうとして、


 「え?」


 ハルの道着姿が目の前にあって、あまりの驚愕に声をあげる。


 「んじゃ、スタートな」


 そう言ってハルは右の拳を、ユキヒサの鼻めがけて叩き込んだ。





 「今、何が……?」


 少女の目には、ハルの身体が急に沈むように倒れ、気付けば7mほど離れた距離を一瞬で移動したように見えた。その驚愕のままに、今や四人は成す術なくハルに殴られ、蹴られ続けている。


 「ちょっとしたコツだよ。あ、もう終わったみたい」


少し優華へ目線をやった隙に、ハルは四人を昏倒させて、自身の竹刀を持って二人の下へと歩いてきた。


 「まあ、死んではないし大丈夫だろ。お待たせ……って、君、やっぱり怪我しんどいよね。どうする? 家によって手当していく?」


 辿り着いて早々、ハルは少女へと言葉をかける。


 「ハルちゃん、同級生?」


 「そ。んで、俺らの中で有名人かな。風島かぜしま かなで。えっと、超頭良くて、賞をバンバン取ってて、トランペット上手で、あとは可愛い!」

 


 「かわ……」


 異性から言われたことのない言葉に、唯でさえ機能しない口が余計に絡まってしまう。 


 「ハルちゃん、ナチュラルに口説かないでよ馬鹿なんだから」


 「いや、可愛いってのはあれな? 皆が言ってること……っておい! 兄貴に向かって馬鹿とはなんだ馬鹿とは!」


 少女そっちのけで始まる馬鹿騒ぎに、呆気にとられながらも奏はハルを見る。

 学校で見かけたことがあり、休み時間ではいつも友達と駆け回っているタイプの男の子、という印象だった。少年らしい快活さ、そして力強さがその表情から窺えた。


 「あ、あの」


 言い合う二人に、奏は勇気を出して声をかけた。二人に見つめられて、緊張で硬直する。それでも、きちんと伝えなきゃいけないことくらいは、奏にも分かっていた。


 「あ、ありがとう!」


 ブン、と音がするかと思うくらいに頭を振って、感謝の言葉を言った。


 「気にしないでよ。勝手にやったことだから。ああ、もしあそこの奴らがまた変なこと言ってきたら、速攻で俺呼んでよ。またボコボコにするから」


 「はい。えっと……ごめんなさい。名前、分からなくて」


 「あ、そっか。俺、篠崎春翔。こっちは、妹の優華。よろしく、奏」


 これが、風島 奏の人生初の友人、彼女にとってのヒーロー、そして初恋の人との出会いだった。



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アンブレイド・キャバリア 優しき騎士の物語 らんらんるー @ran-ran-ru-

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