第1話、あるいは最悪な寝覚めと美少女との眼福な出会い②

「っはあ! はぁっ、……っは」


 少年は弾かれたように飛び起き、荒い呼吸と早鐘を打ち続ける心臓を少しでも静めようと、右手で胸をおさえた。部屋の中も、窓から見える景色も暗い。少年以外に音を発するものは部屋になく、そのため自身の呼吸音が、心臓の鼓動が不気味なまでに大きく聞こえていた。

 暴れ続ける心臓の鼓動のせいか。

 それとも先ほどまで見た夢のせいか。

 あるいはその両方か。


 吐き気と頭痛を覚え、少年は四肢の感覚が覚束なくなっていた。手放しそうになる意識を必死に握りしめ、呼吸を落ちつけようと深呼吸を繰り返した。やがて徐々にではあるが動悸も治まり、体の末端まで感覚を取り戻せるようになった。


 「ひっでぇ汗……てか、気持ち悪」


 呟いたあとに、左手乱暴に額を拭う。額に張り付いた毛先から汗が滴り落ちる。全身が雨に打たれたかのように、寝巻が彼の身体にびっしりと張り付き、不快感を催す。

 その感触をどこか他人事のように遠いものと感じながら、少年は自分の両手を茫然と見た。

 夢の中の幼い自身の手より、大きさも肉付きも逞しい見た目になっている。それでも少年には昔と変わらず、ちっぽけで頼りないものに見えている。

 そして両手にこびりついた感触は、今も変わらず少年を苛んでいた。

 

 どこまでも暗く落ちていきそうな自分自身に喝を入れるように、勢いよく両頬を叩いた。そしてまずは喉の渇きを癒やそうとベッドから腰をあげて、


 「あーそっか、家電は今日届くんだった……」


 静寂に包まれる部屋を見渡し、項垂れて溜息を吐くのだった。喉の渇きを潤したいが、ぬるい水道水を飲む気にはなれなかった。

 ベッドの脇に置いてある目覚まし時計に手を伸ばし、時間を確認する。表示されている時刻は午前3:56。午前5:00から行う予定だった朝のトレーニングには、些か以上に早い時間だ。普段の少年なら間違いなく寝直すだろう。しかし、


 「こんな汗まみれで寝れるわけないからシャワー浴びるだろ? 今から入って髪乾かして寝たとして多分4:15。ウェアに着替える時間も考えりゃ遅くても4:50には起きたいから、寝れるの35分? ……よし」


寝起きで働かない頭を動かそうとブツブツと呟きながら状況を整理した結果、予定よりかなり早いが、少年は寝直すよりもトレーニングに向かうことを選んだ。シャワーを浴びることを考えたが、トレーニング後にどうせ汗をかくことになるのだからと、制汗用のペーパータオルで体を拭くだけに留めた。制汗剤特有の清涼感が全身を刺す。眠気はすぐに吹き飛んだが、夢によってもたらされた不快感の余韻までは、中々消えてくれそうになかった。

無理矢理にその感覚を無視するように、あるいは逃げるように、少年は玄関の扉を開け放ち、部屋を後にした。

 

 男子寮一階、エントランスの自販機でミネラルウォーターを購入し、一口だけ水を含む。 一気に飲み干してしまいたくなるが、辛うじてそれを我慢する。


 エントランスを出て、少年は軽くストレッチを行い体をほぐす。

 4月初旬の早朝。

 空気は冷たく、春の陽気には程遠い。肌だけでなく、吸い込む空気のせいで体の中からも熱を奪われる感覚に陥りそうだった。

 まだ空は暗く、朝日は遠い。点在して見える外灯が無機質なもの寂しさを訴えていた。


 少年は自身の左手に巻かれた腕時計状の端末を見る。本来時間を示す針なりデジタル画面なりがあるはずの部分には、小さなガラス面が存在するものの、その画面は真っ暗なままだ。少年は右手の人差し指で画面をタッチする。


 すると小さな起動音が鳴り、画面から中空に向けて光が一筋、30cmほど伸びる。そして光の線は20cm四方の平面へと展開され、空中投影型のディスプレイが出現した。ディスプレイには『Please call your name』と、認証を求める文章が表示されている。


「桜咲 春翔(さくらざき はるか)」


端末に求められるままに、少年は自らの名前を口にする。本人照合を終えた端末は、

『おはようございます、ハルカ』

と文章を表示した後、デスクトップ画面へと移行した。学校から支給されて初期設定のままのデスクトップには、画面の中央で校章がその存在を大きく主張している。


「学校の地図は、と……」


 ディスプレイをタッチし、初期設定ですでに実装されている≪学校案内≫と書かれたアプリケーションを開く。そこから国立精霊騎士学校のホームページへアクセスし、学内マップを立ち上げる。


 「ここが現在地の男子寮……って違うわ、これ中等部のだ。高等部……あったこれだ。しっかし広いなこの学校の敷地。三年間でここ使い切れるのかな、俺」

 

 生きた災害と呼ばれることもある厄霊。その唯一の対抗手段である精霊騎士の育成は人類にとって急務であった。その育成、および魔法を用いた大規模な訓練を行えるために、その敷地面積は中等部を合わせて広大なものとなっている。世界最強の一角とされる叔母からその面積を聞かされたときも、

 

 (へぇ~、北海道とかならまだしも東京にそんだけの土地よく準備できたな。というか東京ドーム数十個分って言われても、ねぇ……)


 そもそも東京ドームの大きさが分からない春翔にとっては、『とりあえず大きいんだな』という身も蓋もない感想しか持てなかった。


 マップでルートを確認し、ウォッチモードに設定する。そしてランダムなタイミングでアラームが鳴るように設定し、ディスプレイ上で人差し指と親指を閉じる動作を行うと、投影されていたディスプレイが畳まれ光の線が左手首のガラス面に吸い込まれる。そうしてガラス面に時刻が表示されるのを確認したあと、春翔は未だに夜の表情が色濃く残る道を駆け出して行った。


 国立精霊騎士学校はその広大な面積のために、敷地内には車道が整備されている。そして全自動の無人コミューターが決まった時間、決められたコースを巡回しており、生徒はそれを移動手段に用いている。現在時刻は午前5:37、通学時間にはほど遠く歩行者などもちろん皆無であるにも関わらず、ランニングを初めて春翔は数台のコミューターを見かけていた。窓から垣間見えた車内には数名ほどの、明らかに生徒には見えない大人が乗っていたので、教職員だろうかと酸素不足気味の頭でぼんやりと考えていた。

 一定のペースで走るのではなく、身体に付加をかけるため、アラームが鳴った瞬間から次のアラームが鳴るまで全力疾走をするという方法をとっていた。それをかれこれ一時間半に渡って行い、今はクールダウンとして歩きながら呼吸と脈を落ちつけようとしていた。体の酸素需要に応えるため、心臓と肺が悲鳴を上げているのを春翔は自覚する。


 オレたちにこれ以上仕事をさせるな。

 今すぐ身体を休めろ。


 自身の付加を減らすべく、歩みの停止を要求するように暴れる心臓と肺。しかしながらその場ですぐに体を休めれば、筋肉に乳酸などの疲労物質や老廃物が蓄積することになる。胸部臓器の悲鳴を強い意思で無視し、春翔は歩みを進めていた。

 普段ならばランニング1時間、そのあと型の練習で1時間を用い、朝の鍛錬を終了としている。だが今朝は普段よりも一時間早く起きたということもあり、それぞれの時間を一時間半ずつ行おうと考えていた。しかしながら構内の探索がてら寄り道をしていった結果、本当なら寮に到着するはずの時間であっても春翔は戻れずにいた。このまますぐに寮に戻ったとしても、20分はかかる。


 (ミスったなぁ……)


 夢中になって時間を忘れていた自身を反省し、春翔はマップを立ち上げる。寮への最短ルートを検索しつつ、ランニング前に買ったミネラルウォーターを口に含む。口の中に粘ついていた唾液を胃袋へ洗い流し、もう一度走り出そうと一歩を踏み出しかけた時だった。


 シャッ、シャッという、風切り音が春翔の鼓膜を揺らし、思わず歩みを止める。目に見える範囲には人はもちろん、コミューターも走っていない。

 訝しく思い、音の出所を探る。すると、車道を挟んだ歩道、さらに向こうの、木々が生い茂る場所から聞こえているようだと春翔は判断した。

 「あれ、あそこは確か……」

 

 再びマップを立ち上げ、現在地と音の出所を確かめる。するとマップには≪森林演習場≫の文字が表示されていた。


 (人のこと言えないけど、こんな時間に? もしかして上級生の授業とか?)


 寮に戻るかどうかを10秒ほど悩んでいた春翔だったが、やがて車道を渡り反対車線側の歩道へと辿り着く。本来の鍛錬の時間に比べればまだ時間はあると考え、興味に逆らうことなく音のする方へと足を踏み入れた。


 「ちゃんとした道を、探せば、良かったかな、っと」


 細かい木々に阻まれながらも、春翔は少しずつ、音の元へと近づいていく。空は白み始めたが、森の中は薄暗い。なるべく音をたてないようにゆっくりと歩みを進めていると、とうとう音の発信源を目にすることができた。


 少し開けたスペース。そこで一人の少女が、槍を振るっていた。


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