第八話 マン・ハント
8−1
それからしばらくの間、宇賀神さんからの連絡はなかった。
宇賀神さんのお手紙は担任の先生に渡してある。
警視庁からのお手紙だったのでびっくりしたようだったが、先生は
「わかった」とだけ頷くと、「他の先生にも言っておくから安心しなさい」と言ってくれた。
つまらない数学の授業。
数学はどちらかというと得意な方だ。授業を聞いていなくても問題は解ける。
『ねえねえ』
ペンをクルクル回していると、隣の理沙が小声で話しかけてきた。
理沙は数学が苦手だからもっと授業に集中した方がいいのに。
嫌いな科目だからやる気が出ないらしい。
『アリス、警察のお仕事手伝ってるんだって?』
わたしも小声で答える。
『誰から聞いたの?』
『パパが言ってたの。S課の仕事を手伝ってるみたいだって。S課ってヤバいみたいだよ。パパも何をしてるのか知らないって言ってた』
まあ、それはそうだろう。冥界とか幽霊とか、S課の扱う事案は警察とは相容れない。
「黒川ー」
おしゃべりしているのを見咎めたのか、先生がわたしを指す。
「はい」
「この後の式を書きなさい」
初老の数学の先生はとても優しい。
理沙では解けないと判断してわたしを指したらしい。
「はい」
わたしは大きなホワイトボードの前に立つと、先生が途中まで書いた微分関数の残りを解いた。
「うん、正解だ。だが、もう少し授業に集中してくれた方が私も嬉しいんだがな」
笑った感じは少しお師様に似ている。
「わかりました」
わたしはペンをホワイトボードの下のトレーに戻すと自席に戻った。
『もう、怒られちゃったじゃない』
『へへ、ごめーん』
理沙が小さく舌を出す。
と、その時、わたしの携帯電話がブーン、ブーン、と鳴っていることに気づいた。
ハムスターを引っ張り、傍に置いたバックパックから携帯電話を取り出す。
宇賀神さんだ。
『出たぞ。中野のXXXにあるコンビニに来てくれ』
行ってみると、道端に座って宇賀神さんが缶コーヒーを飲んでいた。
いつものようにブラック。
「空振りだった。キョウヤはいなかったよ」
少し落胆したように宇賀神さんが言う。
「まあ、そういう事もあるさ」
そう、自分を慰めるように一人ごちる。
「次に期待だな」
宇賀神さんはコーヒーを飲み干すと、妙に丁寧な仕草で缶をゴミ箱の穴に捨てた。
「見当違いだったらしい。警ら中の連中から連絡があったんだが、本当に少し気が狂った元サラリーマンだったようだ。何事か叫んでいたが、ありゃ、ダメだな」
どうダメなのかは特に語らず、宇賀神さんはそばに止めたパトカーに向かって歩き出した。
「PC出したんだが、次回からは電車の方がいいかも知れないな。PCで乗り付けたら目立ちすぎて困った。学校まで送ろうか?」
「いえ、いいです」
わたしは遠慮して断った。
「今から学校戻っても六限終わっちゃってるし、パトカーで送ってもらったら学校で翌日何を言われるかわからないもの」
「ま、それもそうだな」
宇賀神さんは肩を竦めた。
「気をつけて帰るんだぞ。何かあったらすぐに連絡してくれ」
そう言い残すと、宇賀神さんはパトカーで帰って行った。
その後も二、三日に一回ずつ呼び出されては空振りの繰り返し。
いい加減飽きてきた頃、また宇賀神さんに呼び出された。
指定された場所に行ってみると、そこでは現場検証の真っ最中だった。
「今度はアタリだ。でも、少し遅かったみたいでな。もう終わってた」
残念そうにため息をつく。
みれば、白いワンボックスがグシャグシャになっている。
突撃されたコンビニもグチャグチャだ。これでは当分営業できないだろう。
事故を起こした人はパトカーの後部座席に座らされていた。両側から制服姿のお巡りさんに挟まれている。
若い男性だ。とてもアクセルとブレーキを踏み間違えるとは思えない。
「アルコールは検出されないなあ」
若いお巡りさんが小さな機械のディスプレイを眺めている。
「……酒は、飲んでません」
と小さな声。
「俺、酒は飲めないんで」
「しかしなあ、じゃあなんでこんなことになっているんだ?」
反対側に座った年配のお巡りさんが優しく尋ねる。
飴とムチなのかしら。どうやら、年配のお巡りさんが飴の方らしい。
「わかりません。ここに駐車して、俺遅い昼飯を食ってたんす。そうしたら急にぼうっとなって、気がついたら店に突っ込んでました」
「あんた、熱でもあるんじゃないのか?」
と若いお巡りさん。
「俺、ガテン系なんで、ここ数年風邪なんてひいたことないっす」
「アリス君」
と、不意に背後から肩を叩かれる。
宇賀神さんだ。
「一応緊急配備はした。ここで事故があったってことは近くにキョウヤがいたはずなんだ」
「見つかるかしら?」
「見込みは薄いな。どうやってるのかは知らんが、現場からは煙のように消えてしまうんだ」
「一回冥界に逃げ込んでるとか?」
「可能性はある。それでほとぼりが冷めてから戻ってくるんだろう。しかし解せないのは今回の目的だ。前にも話した通り、奴は『リクルート』のために殺しを行うんだ。でも今までほとんど人は死んでないし、事件ももっぱらコンビニ突撃ばっかりだろう。リクルートならもっと沢山殺してもおかしくない。まだ、一人しか死んでないからな。しかも奴が嫌いな『薹の立った』おばさんだ。狙ったとは思えん」
それよりも、と宇賀神さんはわたしに言った。
「あの被疑者になんか痕跡は残っていないか? 君は『視える』んだろう?」
痕跡?
何か痕跡なんて残るのかしら?
それでもわたしはパトカーの窓越しにそのガテン系のお兄さんを見つめてみた。
背中のオーラに集中する。
緑色と青い渦巻き。混乱しているようだ。それにとっても真面目な人。
とてもいい加減なことをするとは思えない。
と、その渦巻きの中にかすかに黄色い色が見えたような気がした。
あれはとっても元気な子供のオーラだ。
だが、集中するとそのオーラはすぐに消えてしまった。
「子供のオーラが少し見えたような……」
わたしは宇賀神さんに伝えた。
「憑依跡だな。あいつ、たっくんに何かを仕込もうとしているのかも知れん。……アリス君、そのオーラの跡からそれが誰なのかを特定できたりはしないのか?」
そんな、都合がいい。
そんなことができたら裁判官は要らない。
「それは無理です。せいぜい、大人か子供かくらいしか……」
「そうか」
悔しそうに宇賀神さんが舌を打つ。
「くそ、もう一歩のところまで迫っているはずなんだがな」
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