第三話 アリス
3−1
ようやく落ち着いてお医者様にまた色々な管を差し込まれてしばらくのち、パパが息急き切って病室に駆け込んできた。
濃緑色のポロシャツに色褪せたジーンズ。いつものパパの格好だ。
「ああ、アリスアリス、目を覚ましたんだね。良かった、本当に良かった」
ボロボロと涙を流しながらパパがわたしの枕元に座る。
パパの顔はやつれ、顎には無精髭が伸びていた。でも、それでもパパは格好いい。
わたしはたぶん、パパ似だ。パパはとても背が高い。確か一九〇センチって言っていた。ママは一五〇センチくらいしかなかったけど、とても目が大きな、人目をひく美人だった。
親戚の人たちはいつも、「いいとこ取り」だと言ってわたしをからかったものだ。
わたしはどうやら二週間も昏睡していたらしい。パパはもう目覚める事はないんじゃないかって半分諦めていたみたい。
頭蓋骨骨折、左大腿骨折、その他全身に打ち身と打撲。
頭を強く打ったから意識がなくなっていたみたい。脳に異常はないそうだから、もう一ヶ月くらいすれば退院できるという。
「……パパ」
ボロボロ涙を流し続けるパパがかわいそうで、わたしは思わずパパの方に手をやった。
「ママ、は?」
パパが黙って首を振る。
「ママは天国に行っちゃったよ。救急車が来た時にはもう心肺停止状態だったらしい」
「そう、なんだ」
予想していただけに、悲しいという感情はなかった。
何も感じない。
でも、改めて言葉にされるとやっぱり辛い。
すっぽりと胸に大きな穴が空いた感じ。
「お葬式ももう済ませたよ。今はおうちにいる……うちは、二人になっちゃった」
「……うん」
と、その時。
「あれ、アリス、その目……」
ぎょっとしたようにパパが目をみはる。
「あ、あの、先生?」
パパは振り向くと、後ろに控えていた若いお医者さんに声をかけた。
「アリスのこの目は、一体……」
「それが私たちにもわからないんです」
少し困ったようにお医者様がパパに言う。
「こんな症例は今まで聞いたことがありません。調べた限りでは器質的な異常も見受けられません。これはもう、瞳の色が突然変わってしまったとしか……」
お医者様の物言いはどうにも歯切れが悪い。
「……わたしの目が、どうしたの」
わたしの声はかすれて、とても弱々しかった。
「あ、ああ、不安にさせちゃったね。見た方が早いかな……看護婦さん、手鏡ってありますか」
「ちょっと待ってくださいね。ナースステーションに何かあるかも」
しばらくして看護婦さんが持ってきてくれた四角いお化粧用の鏡をパパはわたしの前にかざして見せた。
「アリス、驚かないでね。アリスの目の色をよく見てごらん」
鏡の中のわたしの顔は少し痩せて、いつにも増して黒目がちの目が大きく見える。
細い鼻梁に白い頬。
幼い顔立ちにはなっていたが、いつものわたしの顔だ。
でも、問題はそちらではない。
わたしの瞳はまるで燃えるような赤い色になっていた。
驚くなと言われても、驚かない方が無理というものだ。
「……パパ、赤いよ。血が出ているの?」
「いや、違うみたいだよ。身体には異常はないってお医者様が言っている。なんかわからないけど色が変わっちゃったみたいだ」
変わったことは他にもあった。
どうやら、わたしは『視える』人になってしまったらしい。
この広尾の病院は大きいから、毎日沢山の人が亡くなっていく。
その人たちをわたしは『視る』ことができた。
ある人はわたしの病室を通り過ぎてそのまま壁を突き抜けて外に出て行った。他のおばあさんは壁を突き抜けて病室に入ってくると、また元来た道を引き返して行った。わたしの上の空中を歩いて行った人もいる。
しかも、『視える』ものはそれだけではなかった。
怒り、悲しみ、そして歓喜。
生きた人の背中に漂う煙のようなもの(きっと、これがオーラってものなんだと思う)で、わたしのその人の気分を読み取ることができるようになっていた。
まあ、あれだけ長いあいだ冥界にいたのだ。何が起きてもおかしくはない。
お師様と過ごした期間は濃密だった。
果たして、あれは夢だったのだろうか?
それにしてはあまりに記憶が鮮明で、しかも現実感がありすぎる。
ふと、わたしは枕元にネズミの根付が置かれている事に気づいた。
お師様が最後にくれたネズミの根付。
「……持ってきちゃったんだ」
ぼんやりした頭で考える。
と、急激に全てのパズルピースがはまるかのように、記憶が蘇ってきた。
そう。わたしはお師様に師事して巌流の剣術を学んだのだ。
乱取り、居合、『西瓜割』。
全てのピースがピタリとはまる。
それにしても、身体感覚と実際の肉体とのギャップは激しかった。
ここでのわたしは交通事故で大怪我をした十歳の女の子。そして向こうでは長い、長い修行を経て剣術を修めた若い女剣士。
わたしの感覚ではわたしの身体はもっとずっと大きく、そして筋肉質だ。
でも今のわたしの身体はぽよぽよの小さな女の子。
確たる理由がある訳ではなかったが、このギャップを早く埋めないといずれ困ったことになる。
そんな切迫感があった。
まずは身体を治して、修行をやり直さないと。
わたしはお医者様の言う通りに身体を治して早く退院するために目を閉じた。
…………
……
結局、わたしの肉体が身体感覚に追いつくまでには七年間の歳月と毎日一キロのマトン肉、それに血の出るような修練が必要だった。
リハビリは約一年。その間おとなしくお医者様の言いつけを全て守ったことに関しては少し褒めてもらってもいいと思う。
最後のリハビリが終わってから、わたしは本格的な修行を再開した。
リハビリが終わったお祝いに何がいい? と聞かれた時、わたしは迷わず練習用の木刀をおねだりした。
ケーキや服を想定していたパパはかなり面食らったみたいだったけど、それでも車で武道具屋さんに連れて行ってくれると、ローズウッドの高価い三尺六寸の木刀を買ってくれた。
ローズウッドは硬くて重い、高級な材だ。
本当はもっと長い木刀が欲しかったんだけど、今のわたしの身長では振り切れない。
一緒に買ってもらった竹刀入れにその木刀を入れ、わたしは小学校でも中学でも素振りと居合の抜刀に専念した。
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
中学に進学した時、乱取り稽古がしたくてわたしは剣道部の扉を叩いた。
「乱取り稽古がしたいんです」
わたしは顧問の先生に相談した。
「乱取りって、黒川、お前経験あるのか?」
怪訝そうに大柄な先生がわたしに問う。
「まあ、あるといえばあるし、ないといえばないし……」
わたしの答えは歯切れが悪い。
「よくわからんなあ。まあ、一度おいで」
それでも顧問の先生はわたしを招き入れてくれた。
「よろしくお願いいたします」
わたしは道場に正座すると最初に神棚に深く礼をし、そのあと先生に礼をした。
「一応はわかっているみたいじゃないか」
先生が満足げに頷く。
「じゃあ、黒川がやってみたいという乱取りを見せてごらん。俺が受けよう」
「はい」
さすがに木刀ではまずそうだったので、三尺七寸(これが中学生の剣道では標準の長さの竹刀だ)のカーボン竹刀を借りてわたしは先生に相対した。
「どう打ち込んでもいいのですか?」
防具をつけていない先生に一応念を押す。
「ああ。当たるわけがないからな。さあ、来いッ」
「では」
わたしは左腰に竹刀を据えるとグッと腰を深く沈め、居合の姿勢を取った。
「なんだなんだ黒川、そんなんじゃあ当たらんぞ」
正眼に竹刀を構え、早くもボクサーのようなフットワークで左右に移動する先生がバカにしたように鼻を鳴らす。
先生の背中からは油断の色しか見えない。
カチンッときた。
わたしは擦り足で先生に相対すると、腰構えからいきなり抜刀した。
ダダンッ!
両足を強く蹴り、一気に間合いを詰める。そのまま下から胴へ。
「エィッ」
「うおッ」
さすがに慌てたのか、先生が切り返した竹刀で胴を受ける。
これで面がガラ空きだ。
「チェイッ」
胴を打ち抜いた竹刀を切り返し、そのまま面に叩き込む。
さらに切り返して竹刀を持った籠手を叩く。
三連撃を食らって先生は膝を突くと、竹刀を道場に落とした。
カラカラカラ……
竹刀が道場を転がる。
「く、黒川」
「はい、先生」
正座して、道場に転がった先生を見つめる。
「……お前は、俺の手に余る。他を当たってくれ。お前が来たら、剣道部の連中が全員壊される」
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