キャット・クロック・スクエア・ナイト

黄鱗きいろ

プロローグ

 昼下がり。日当たりのいい公園の階段。小鳥たちのさえずる声。膝には広げられた本。頭上には逆さまにぼくを見下ろす女学生。

「見つけた」

 セーラー服姿の目つきの悪い女学生が、むっすりした表情でそう言う。

 思えばこの出会いこそが、ぼくの短い大冒険の始まりだったのだ。


 電子都市フロンティア。それがぼくの住むこの都市の名前だ。高度に発達した電子技術が街全体を覆いつくし、今や電子技術なしではこの街では何もすることができないほどだ。それゆえに技術の輸出は厳しく制限され、他の都市ではこれほどの技術の進歩はなされていないという。

 端末を手に手に持つ人々。路上のゴミを回収するロボット。地面は土の見えるところがないほど美しく整備され、ガラス張りのビルには様々な広告が投影されている。聳え立つ「時計塔」を中心に広がるこの街には、電子の光に照らされない場所はない。

 そんな電子都市において、ぼくのように紙の本を愛用する人間は稀だ。ぼくは俗にギークと呼ばれる部類の人間ではあるけれど、情報収集にはもっぱら本を用いていた。それは単なるぼくの癖でもあったけれど、それ以上に、両親の影響が大きいところだった。

「はあ……」

 両親のことを思うとため息が出る。両親は変わり者の電子技術の研究者だった。本当に重要な情報は紙から仕入れるべし、という妙なこだわりを持っているくせに、フロンティアの心臓たる「時計塔」随一の技術者だった。ある意味尊敬できるし、すごい人たちなのだということはぼくにも分かる。

 でも、まだジュニアスクールも卒業していないぼくを置いて、研究のために家を出ていってしまうのは流石にどうなんだろう。そう思わずにはいられない。友人たちには「もっと怒っていいんだぞ」とは言われているけれど、そういう人たちだと幼い頃から見てきて分かっているので、ぼくとしてはあまり感傷はないのだった。

 ただ、どこかで元気で生きていてくれればいいなあ、と思うくらいで。

「どこでなにしてるのかな、あの人たち」

 階段に座って両親からもらった本を広げながら、誰にともなくぼやく。

 トン、と硬い足音が背後に降り立ったのはその時だ。

「見つけた」

 頭上から落ちてきた影に、空を見上げる。視界に広がったのは、薄い茶髪のセーラー服姿の少女。

「ミカミ・イクバール・ミシェルスだな」

 少女は首を傾げて問う。ぼくは戸惑いながらも頷いた。

 初めて会う人だ。というかそもそもセーラー服だなんて古風な制服、博物館でなければ見たこともない。

「あの、お姉さん、誰ですか?」

 恐々と尋ねると、半袖白セーラーのお姉さんは地面を蹴って、ぼくの頭上を通り過ぎるようにして宙返りをした。

「えっ」

 重力を感じさせないその動きにぼくは目を瞬かせて、前方の階段に降り立った彼女の背中を見つめた。

「いた」

 視線を階段の下に向けたまま彼女は言う。彼女越しにぼくも覗きこんではみるけれど、そこには転がる空き缶とそれを拾おうとする清掃ロボットしかいない。

「えっと……」

「ミカミ、これはお前のものだ」

「へ?」

 差し出されたそれを咄嗟に受け取る。それは立方体のペンダントだった。何かしらの電子技術が使われているらしく、表面に刻まれた切れ目からかすかに光が漏れている。

 彼女はぼくの手を引っ掴み、無理矢理立ち上がらせた。

「来い」

 膝の上から本と鞄が滑り落ちて階段に転がる。焦ってそれを拾おうとするぼくをよそに、彼女はぼくを引き寄せて階段の下を指さした。

「見ろ。今のお前なら見えるはずだ」

 彼女に抱き留められながら階段の下を見る。そこには転がる空き缶と、それを片付けようとするロボット、そして、そこに纏わりつく黒い影のようなものが。

 影はまるで意志を持っているかのようにゆらゆらと形を変えロボットの行動を阻害している。

「な、なんですかあれ」

 例えるならぶよぶよのゼリー。形を変える黒い雲。

 明らかに現実味を欠いた存在にぼくは声を震わせて尋ねる。

「バグだ」

「……バグ?」

 それってプログラムの? と彼女を見上げる。彼女は頷いた。

「半分はそうだが、もう半分は違う。あれは半生命体の<<虫>>だ。この街にはああいった手合いが今やごろごろいる」

 彼女はぼくの手を掴んだまま、階段を一歩一歩降りていく。ローファーの硬い音がカツンカツンと響く。それが聞こえたのか聞こえなかったのか、彼女がバグと呼んだ影は小さく飛び上がると地を這うようにして一目散に走り出した。

「あっ逃げた」

「気付かれたか。……行くぞ」

「へ、うわわっ」

 三段飛ばしで階段を駆け下りていく彼女。そのなびく茶色の髪に見とれる暇もなく、ぼくの体も彼女に引きずられて宙に投げ出される。

 落ちる!

 目を閉じてコンクリートに打ち付けられる自分を想像する。だけどいくら待っても衝撃は訪れなかった。代わりに足の裏にトンと軽い感触が。

 目を開けるとぼくは階段の下にしっかりと足をつけて立っていた。自分が座っていたはずの場所を見上げる。

 これが夢でないのなら、ぼくは今、十数段の階段から飛び降りて無傷だったということになる。

 おそるおそる彼女を見上げると、彼女の目にはまるでカートゥーンに出てくる魔法陣のようなものが複数出現して回転していた。ピントを合わせるような音が数度したかと思うと、彼女はぼくを掴む手の力を強くして、地面を蹴った。

「走るぞ」

「わああああ」

 まるで吹き抜ける風のように彼女は走り出す。物理法則に則るのであれば、ぼくは転んで地面を引きずられるはずなのに、何故かぼくの体は高速で引っ張られる風船のようにふわふわ浮いては地面に落ちたりを繰り返しているのだった。

 公園の外に飛び出す。舗装された歩道を仕事帰りの人々が歩いている。姿勢を低くした彼女に引きずられるぼくは、そんな人々の間を縫っていく。右へ左へ振り回されながら、だけど一度も誰にもぶつかることはなく、ぼくは飛び去っていく景色を呆然と見つめていた。

「あれだな」

 走りながら彼女が言う。視線の先を見ると、車道を挟んだ向こう側にあの黒い影が高速で這いずり進んでいた。彼女は車道とは逆側のビルに駆け寄ると、その壁を蹴って、車道を飛び越えた。

 ぼくの体が振り回されるようにして宙に浮かぶ。もうその頃になるとぼくは意識を半分手放していて、ほんの少しだけ近くなった空がきれいだなあとか思っていた。

 彼女が向かい側の歩道に着地する。遅れてぼくも地面に落ちる。膝丈の黒のスカートが舞い上がり、地面に横たわるぼくの頭上で翻った。

 ……黒のショートパンツだった。

 進行方向に突然現れたぼくたちに、黒い影は慌てて急ブレーキをかけ、横道へと滑り込んだ。

「逃がすか」

 彼女がその後を追い、地べたに這いつくばっていたぼくも自然と引きずられていく。

 右へ、左へ。表通りから裏路地へ。ジグザグに逃げていく影を追って奥へ、奥へ。電子の光からどんどん遠ざかり、ついにぼくたちは薄暗い道の奥に黒い影を追い詰めた。

「もう逃げ場はないぞ」

 彼女がぼくの手を離す。ようやく解放されたぼくは、ひびわれたアスファルトの地面に鼻を打ち付けた。鼻を押さえながら顔を上げると、行き止まりに追い詰められた影がぷるぷると震えていた。最初ぼくは、それが恐怖から震えているのかと思ったが、次の瞬間その予想は裏切られた。

 黒い影はグロテスクにぼこぼこと表面を泡立たせると、瞬きをする間にどんどんと肥大し、見上げるほど巨大な物体へと姿を変えたのだ。

「追い詰められて本性を現したか」

 それは巨大な蛙だった。影は細くてぶよぶよの四肢を道を塞ぐ勢いではりつかせ、どこを見ているか分からない巨大な目をぎょろぎょろと動かした。

 流動的でどろどろと溶け続けるそれの肌に、にちゃあと音を立てて開かれる口に圧倒されて、へたりこんだまま後ずさる。セーラー服の少女はそんなぼくを素早く抱え上げると、背後へと飛び退った。見れば、蛙の口から飛び出た太い腕のような舌が、アスファルトの地面を砕いていた。

 ――現実だ。あの蛙は現実に存在しているんだ。

 蛙は素早く舌を巻き戻し、こちらにむかってひたひたと近づいてくる。

「変身」

 蛙の怪物から目をそらさずに彼女がそう言う。見上げると、今度はぼくを見て彼女は繰り返した。

「変身だ。変身と言え」

「へ……?」

 ぼくが戸惑っているうちにも蛙はじりじりと距離を詰めてくる。体に比べて短くて細い足にぐっと体重がかかった。少女は声を荒げる。

「来るぞ。急げ!」

 飛びかかってくる黒い影。大きく開かれた口。飛び出した舌はまっすぐにぼくたちに向かってくる。その舌先がぼくたちに届く寸前に、――叫んだ。

「へ、変身っ!」

 ぶわりと風が巻き上がった。風に巻き込まれて、かけていた眼鏡が吹っ飛び、長い前髪が舞い上がる。左手にずっと握りしめていたあのペンダントから光が放たれ、魔法陣のような形で腕を覆った。

「な、何!?」

 蛙はまるで見えない壁にぶつかったかのようにぼくたちの寸前で動きを止めていた。魔法陣は腕から胴体へ、そして全身へと広がっていく。魔法陣が通ったあとは、元々着ていた服がばらばらに分解され、真っ白で半袖の服へと姿を変えていった。

 半袖に半ズボンの真っ白な服に着替え終わると、ぽんっと音がして大きな襟が生えてきた。次に生えてきたのは襟の下のスカーフだ。ぽんっぽんっと間抜けな音とともに靴も変わっていく。最後に帽子が落ちてきて、魔法陣の光は収まった。

 左手に一体化してしまったペンダントを掲げながら、ぼくはおそるおそる辺りを見渡す。少し離れた場所でこちらを窺う蛙、変わったままの白い服、セーラー服のお姉さんの姿はいつの間にかどこかへと消えている。

 ぼくは改めて自分の服装を見つめた。白くて短い上着、大きな襟、一本線の入った半ズボン、青のスカーフに、線の入った帽子。

 というかこの服装は……。

「ひああああっ!?」

「どうした」

 悲鳴を上げてしゃがみこむと、どこからともなく彼女の声がした。いやもうどこから声がしているかなんてどうでもよくて、それより今は。

「ななな、なんですかこの恰好!」

「セーラー服だが」

 ひどく冷静な声が返ってくる。

 ですよね! 主に昔の中学生や高校生の「女の子」が着るセーラー服ですよね!

 ぼくは恥ずかしさに泣き崩れる。どこにもいないはずなのに、不思議と脳裏に首を傾げる彼女の姿が見えた。

「な、なんで、ぼくが、こんな目に」

 さめざめと泣いていると、こちらの様子を窺っていた蛙がぼくたちを飛び越えて、どこかへと走り去っていった。脳内の少女が立ち上がる。

「行くぞ。逃げられる」

「い、嫌ですよ! 恥ずかしくてこんなの着て歩けません!」

「言ってる場合か。行くぞ」

「いやだーー!」

 悲鳴とともにぼくは走り出す。彼女が体を動かすと、少しぎこちない動きではあるけれど、不思議とぼくの体も動いてしまうのだ。

 たん、たん、と音を立てて地面を蹴る。いつもでは考えられないほど体が軽い。視界には風景に重なって様々な模様が浮かび上がり、前方を行く蛙がそれらを引きちぎりながら走っているのも見えた。

 ぼくの体はあっという間に蛙に追いつき、その頭上を飛び越えて、蛙の目の前へと身を躍らせた。

 脳内の彼女がぼくを操り、ペンダントと一体化した左手を蛙に向かって掲げる。

 左手は、突っ込んできた蛙の額に食い込んだ。

「うえっ」

 生温い感触が伝わってきてぼくは声を上げる。と、同時に左手の上に何か文字が浮かび上がっているのに気がついた。

「読み上げろ。それで座標が特定できる」

 脳内の声が急かす。蛙は押しとどめられたまま、ぶよぶよと蠢いた。

「早くしろ。死にたいのか」

 蛙の蠢きが徐々に大きくなる。ぼくは慌てて叫んだ。

「マ、マガツヒ四七五二!」

 その途端、蛙の周囲を囲むように魔法陣が広がり、蛙を一気に圧縮し始めた。絞られるような声を上げて縮んでいく影。その頭上には9ケタの数字が並んでいる。

「座標、985.875.008.市庁舎付近の街灯か」

 ふん、と鼻を鳴らしながら彼女が呟く。黒い影はもう手のひらサイズにまで縮んでしまって、ぼくの手の中でふよふよと浮かんでいた。

「握りつぶせ。それで終わる」

 ぼくは一瞬だけ躊躇い、手の中の黒い塊を見つめ、意を決して思いきり拳を握りしめた。

 ぷちっと何かが潰れる音がした。

 最初は手の中に湿った感触があったが、徐々にそれは乾いていき、拳を開くとパラパラと影の破片が手の中からこぼれていった。

 気が抜けて大きく息を吐くと、ぽんっと間抜けな音がしてセーラー服も帽子も靴も、まるで夢のように消えてしまった。残ったのは元々着ていた服と、手の中のペンダント、それにいつの間にか姿を現していたセーラー服姿のお姉さんだけ。

 ぼくは立っていられなくなってへたりこんだ。

「大丈夫か」

「大丈夫じゃないです」

 体がだるい。指も震えている。悪夢を見ていたにしてはあまりにもリアルな体験すぎた。

「こんな、魔法みたいなことがあるなんて」

「魔法じゃない。電子技術だ」

「えっ」

 戸惑いをもって彼女を見上げる。彼女は真っ直ぐにぼくを見下ろしていた。

「そんな、これが、電子技術?」

 ペンダントを見つめながら、彼女の言葉を繰り返す。ペンダントは淡い光を放っている。戸惑いは既に他の感情に打ち消されつつあった。

 すごい。

 学校でも、検索でも、両親が残した本でも、こんな技術は見たこともない。全く原理の分からない現象を見せられて、ぼくは内心興奮していた。

「お前はミカミ・イクバール・ミシェルスだな」

 ぼくは頷いた。今度は惑いなく、真っ直ぐに。

「私はキト。……着いてこい、お前の両親の秘密を教えてやる」

 差し出された手。声色の割に真摯で真っ直ぐな視線。

 そこでその手を取ってしまったのは、きっと技術者の卵としての好奇心だったのだと思う。

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