3-2 死ねない男(1)
一週間後、聖ゴルゴダ教会サクラメントシティ本部は全世界に向けて、日本の支部教会に大天使ガブリエルが出現したことを発表し、英訳字幕を添えた動画を公開した。ただし、動画はイエスの再臨予告だけで、肝心の啓示内容についてはカットされていた。
世界中のメディアがこれを大きくとりあげた。権威ある教会が発表したにもかかわらず、真偽については疑問視された。肝心のカメイドの丘が日本の公園で、しかも全くの平地であることも批判された。それでも、世界中の多くの人々の興味を引き、大きな話題となった。
それから十日後の夕刻、ハルミが大学の校門を出ると、黒塗りのベンツが近くに停まっていた。そこから中年男性が二人出てきた。二人とも精悍な顔つきの引き締まった体型で、黒いスーツをきちんと着こなしていた。ちょうどそのとき周囲に人がいなかった。
「栗生先生ですね?」
ひとりが慇懃にきいた。訛りはない。日本人のようだ。
「はい」
と返事をしたが、ハルミは警戒した。
「失礼ですが、これから我々と御一緒していただきたいのですが。決して怪しいものではありません」
言葉遣いは丁寧だが、脅しているようにもとれる。
「充分、怪しいわよ。なんなの、あなたたち」
「薔薇十字団の関係者といえば、もうおわかりでしょう」
その名を聞くと、彼女は抵抗するのをやめた。
「するともう、私のことを突き止めたわけね。いいわ。一緒に行って、そちらのボスとお会いしましょう。私も一度話をしてみたかったから」
彼女は、自分からベンツの後部座席に乗り込んだ。
それからどのくらい経っただろう。車は一軒のレストランの駐車場に停まった。少なくとも都内のはずだが、どこなのか全く検討がつかない。建物自体は教会を思わせる造りのこぢんまりした一軒家だが、小さな店が混み合った商店街に、優に十台は駐められる駐車場があることに違和感を覚えた。
外観もまだ真新しく、古い街になじんでいない。外国語の看板があったが、男達がすぐに店内に入ったので、彼女は店名を覚える前に店に入ることになった。
店内は思ったより広い。外観から考えると、少し広く感じるといった程度ではない。どういう構造なのかわからないが、物理的におかしく思えるほど広い。それにかなり高い位置に小さな窓があるだけで、外の景色が一切見えない。
入るとすぐ、三十歳くらいで、かなり大柄な白人男性が、愛想よく近づいてきた。
「あっ、どうも。お待ちしておりましたよ。ミセスクリュウ先生。あちらにサン・ジェルマンが待ってます。私は彼の付き人のような者で、ジェイコブと言います」
テーブル席が十席ほどあった。貸し切りのようで、客は入り口近くのテーブルにいるひとりだけだった。中年の外国人男性だ。席から立ち上がると、彼女のところまで歩いてくる。身長は低く痩せている。肌の色も白人にしては少し黒い。彼女はすでに相手の正体に心当たりがあった。
「ようこそ、栗生先生。私はサン・ジェルマンともうします」
相手はそう名乗った。
サン・ジェルマン伯爵。十八世紀のパリ社交界にたびたび出現した謎の人物だ。プロイセンのフリードリヒ大王は、彼のことを死ねない男と呼んだ。巧みな話術と博識、音楽、手品、宝石などで、当時の上流社会を魅了した。その逸話は信じがたいものが多い。錬金術師と呼ばれ、賢者の石を所有していると噂がたった。若い頃彼と出会った婦人が、四十年ぶりに彼と会ったとき、容姿が以前と全く変わっていないことに驚いた。楽器の名手で歌も上手。
ヨーロッパ各国の言葉の他、ヘブライ語、アラビア語、サンスクリット語、中国語も堪能。博学無類でヴォルテールを感心させた。ダイアモンドの傷を治した。ソロモンやカエサルに会ったと自慢し、年齢を尋ねたところ四千歳と答えた。彼が食事をとっているところを、誰も目撃していない。ドイツで死んだはずが、数年後のフランス革命で暗躍し、その後もナポレオンに接触したり、アメリカ独立運動にも関わったとも言われる。
目の前の人物は、ハルミの想像したような十八世紀のカラフルな詰め襟ではなく、黒いタキシード姿だった。当時カールしたカツラが流行っていたが、伯爵は地毛のようで、髪も瞳も黒い。彼女は、右手を前に出して握手を求めたが、伯爵は手を差し出さない。それで相手の正体を確信した。
「はじめまして、サン・ジェルマン伯爵。いえ、大天使ラファエルさん、それともウリエルさん、あるいはアズラエルさんかな」
ラファエルもウリエルも、聖書偽典に登場する天使の名前だ。すると伯爵は天使ということになる。それで彼は握手の手を出さなかったのか。名前を推測できたのは、キリスト教とイスラム教の四大天使のうち、ミカエルとガブリエルを除く二人のうちどちらかだと推測したからだ。
「もう私が誰だかわかっておられるようですな。おっしゃる通り、私はラファエルです」
伯爵は、日本に何十年もいるような、流暢な日本語を使った。
二人は向かい合わせに座った。彼女のいる席から厨房の様子が見える。五、六人の料理人たちが忙しそうに腕をふるっている。車で同行した怪しい二人組は、一緒に建物に入ったはずなのに、いつの間にかいなくなっている。外の車の中で待機しているのだろう。
美人ウェイトレスが食前酒を用意した。
「伯爵は飲まれないんですよね?」
ハルミは聞いた。
「私は不老不死の薬を飲むだけです」
「それも嘘ですよね。天使は飲んだり食べたりできないから」
ハルミが、サン・ジェルマン伯爵が天使と判った理由は、アレクサンダー大王のバビロン入りに立ち会ったり、イエスの磔を見学したり、十字軍に参加したり、ジャンヌ・ダルクにお告げを告げたりしたと、本人が言っていたと伝わっているからだ。しかも、年をとらない、食事もとらず、壁をすり抜け、権力者に接近して、政情を操作しようする。それらの理由から、イエスの傍にいた二人の天使のうち、どちらか片方だと推測したわけだ。
しかし、彼女はそのことを自著に書いていない。相手がまだ生存している可能性が高いと判断したからだ。下手に名前を出して、本人に彼女の存在が知られるのは怖い。だから、あえて書かなかったのに、伯爵のほうは彼女のことを突き止めていた。
「まず、私のことをどうやって突き止めたのか教えてください」
「私は、ガブリエルが日本に現れたと聞いてやってきました。書店に立ち寄ったとき、偶然あなたの本を目にしました。その場でジェイコブに立ち読みさせて、内容に驚き、すぐに購入しました。読むときは、多少不便で、ジェイコブにページをめくってもらいました。これは作者に会う必要があると思い、出版社に忍び込み、社員に化けて、あなたのことを聞き出しました」
発売当初はゲームの攻略本コーナーにひっそりと置かれていたハルミの著作は、ガブリエル騒動の影響で、書店の目立つ場所に、終末予言を扱ったトンデモ本と一緒に並べられていた。帯も新しくなり、キャッチコピーは、「終末はとっくの昔に終わっていた」という、皮肉っぽいものになった。
ハルミは、伯爵のスパイとしての能力に驚嘆した。彼は、昔から諜報活動に従事していた。
「たしか、あなたはフランス革命の後、日本に来たんですよね?」
フランス革命直後、彼は知人に、これから日本に行くと語っている。まだ明治維新も始まっていない頃だ。
「あのとき、初めて日本に来ました」
「幕府を倒そうとしたんですか?」
「いえ、あのときは、様子を見にいっただけです」
「では、ウリエルさんが、明治維新を指導したんですか?」
ハルミがそう尋ねると、彼は笑いをこらえるように、
「アズラエルには無理です。彼は愚鈍で純朴な男です。イエスは本物の神の子だと、ガブリエルが言ったことをそのまま信じ続けています」
ガブリエルは、仲間の天使にさえ嘘を言っていたようだ。
「すると、ファティマ予言やマリア像の涙は、あなたの仕業ではないんですね」
「あれはアズラエルのしたことです。私はとうの昔に、神を信じることをやめています。ガブリエルがグレゴリウス教皇の暗殺を私たちに指示したとき、アズラエルは大反対をし、私もアズラエルの肩を持ちました。それでガブリエルは、イスラームを起こしにメッカに向かいました。そのとき、私たちはガブリエルと離れました。私は、カトリックの味方をしたわけではありません。実は、もう宗教に関わることにうんざりしていたのです」
「神を信じていないんですか」
「今は信じていません。イエスの頃の混乱で、宗教活動が嫌になったことが原因です」
ハルミは驚いた。彼女は、自著のなかで二人の天使を同じように扱ったが、実際はまるで異なるタイプのようだ。おそらく、片方は共産主義の成立と拡大に深く関与し、もう片方は子どもに啓示を授けて、間接的に非難するのが精一杯だったようだ。
「それでヨハネ福音書は、イエスを神の子と称えながら、救世主計画の裏側を明かすようなヒントが何カ所もあるんですね。ガブリエルは、神を信じていたんでしょうか?」
「もちろん、彼は神を信じていました。それで、神の言葉が降りてこないことをずいぶん気にしていました。生前から神秘的なことに興味があったようです。エジプトの魔術師に弟子入りを頼んだこともあって、よそ者のイスラエル人という理由で断られたそうです」
「あなたは神を信じてないとおっしゃいますが、インドに行き、ヨガのような修行をされましたね」
「私はガブリエルと違って、神秘的なことには興味がありません。ただ、真実が知りたいのです。神なき世界で真実を探るために、錬金術など様々な経験をしてきました」
二人分の前菜が運ばれてきた。
「伯爵も食べられるんですか?」
「実際に食べなくても、食べているように見せかけることはできます」
外典トビト書十二章で大天使ラファエルは、トビトに一緒に食事をしたときのことを、
「本当は私は何も食べていなかった。あなたが見たのは幻だった」と明かしている。
「今のあなた、つまり伯爵の姿は、誰か他の人のモデルがいたんですよね」
「どういう意味です?」
「食事したり、体に触れたりする場合があるので、体のない天使だけでは、長期的にある人物を演じ続けることができない。サンジェルマン伯爵として活動するにも、イエスや使徒ヨハネのときと同じように、生身の人間を必要としたはずです」
「お察しの通りです。バイオリンをモデルの男に持たせて、音色は私が出しました。こんなふうに」
伯爵がそう言うと、バイオリンの音色が響き、そのまま店内BGMとして流れた。
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