第三部 アルファであり、オメガである者 1 メギドの丘(1)

「ある日私たちがムハンマド様のもとに座っていると、純白の服を着た黒髪の男がやってきた。彼は預言者の傍に座って、『ムハンマド様、イスラームについて教えてください』と聞いた。預言者が答えると、彼は『そのとおり』と言った。その男が立ち去ると、預言者は言われた。『彼はガブリエルです。あなたがたにあなたがたの信仰を教えるために来たのです』」 ムスリムによる伝承 



 小木政近は、米国に本拠をおくプロテスタント系教会の牧師だ。私大の経済学部に入学した彼は、信仰に目覚めると退学し、他の大学の神学科に入学した。卒業と同時に牧師の道に進み、もう三十年になる。欧米と違い、日本ではキリスト教は目立たないマイナーな存在だ。巨大な仏教系新興宗教団体はあの手この手を使い、強引な布教を勧めているが、彼は正しい地道な宣教に務めている。


 小木の実家は仏教徒だった。といっても、神社にもお参りに行くし、もっぱら葬儀などの行事の際お世話になるくらいで、形式的な檀家にすぎなかった。それが、十代の終わりの頃、親友の自殺という辛い体験をし、道に迷っていたとき、書店で手にした自己啓発書に載っていた主の御言葉により救われた。それからすぐ今自分が勤めている教会に通うようになり、生涯に及ぶ信仰を宣言した。たとえ科学的に論破されようと、神に対する信仰が揺らぐことはないという自信はある。


 そんな彼にとって、その日の夕方、生涯忘れることのできない事件が起きる。彼はその日の仕事を終え、信者との面談に使う牧師室のソファに腰掛け、ひとときのくつろぎを味わっていた。真向かいにある窓の外はすっかり秋景色だ。ちょうど西日が入ってきており、まぶしいので目を閉じると、そのままついうとうととしてしまった。


 目が覚めると、右側の壁の扉の前に誰かいることに気づいた。

「これは失礼」

 彼は慌てて身体の向きを変え、相手を見据えた。


 そこに立っていたのは、見知らぬ外国人青年だ。白い服を着ている。それも足先までとどきそうなローブだ。それだけでも充分おかしいが、さらに決定的なことに、青年の背中から鳥のような白い翼が生えていた。


 天使? 

 小木は立ち上がり、夢の続きか何かだろうと思い、目をこすった。


 しかし、天使の姿は消えることはなく、自分のほうに近づいくる。

「うわっ」

 小木は腰を抜かし、ソファに尻餅をついた。

「ど、どなたです」

 そう訊くのが精一杯だった。

 相手はテーブルを挟んだ向かい側のソファまで歩いてきて、小木の方に向き直ると、

「私の名はジブリール」としゃがれた声で名乗った。


 ジブリール。数十名に及ぶ天使の名を知っている小木にも、聞いたことがない名前だった。自分のところに現れるくらいだから、あまたおられる天使の中でも、下のほうの存在だろうと、失礼ながら小木は思った。

 しかし、「ガブリエルともいう」と天使は付け加えた。


 大天使ガブリエル。その御名はルカ福音書とダニエル書に記されている。聖母マリアに御子の受胎を知らせたまさにそのお方。小木は衝撃を受け、何故、私のような者のところへと思い、混乱した。

「汝に問う。我は悪霊か否か」とガブリエルは聞いた。


 小木の目に映るその姿は神々しく、とても悪霊には見えない。しかし、しわがれた声は天使にふさわしくないような感じがする。それに自分ごとき罪深き者のもとに大天使が現れるとは思えない。詐欺師が身なりに気を配るように、悪霊こそ見た目を取り繕うのかもしれない。しかし、本物である可能性は否定できず、仮に偽物でもこの場は相手に合わせるべきと考え、小木はまた立ち上がり、姿勢を正して、

「本物のガブリエル様だと思います」と答えた。


 ガブリエルは小木の態度を見て、満足したように頷いた。

「よろしい。それでは、我が今日ここに来ることになった経緯を話すことにする。

 ローマ教皇グレゴリウスは主に背き、我はグレゴリウスに間違いを正すよう忠告した。だが、グレゴリウスは耳を貸さず、我を悪霊と罵った。グレゴリウスが死んだ後も、後継者は改めようとはせず、我はローマ教会を見限った」 


 プロテスタントの牧師である小木はすぐに理解した。大教皇グレゴリウスは、煉獄という嘘の概念を教義にとりいれ、ローマ教会の堕落を招いた。その結果、プロテスタント運動が起こり、今日に至る。大天使はそれより遥か昔に、その問題に気づき、悪の芽を摘もうとされたのだ。


「そこで、我はムハンマドに啓示を授けた。だが、ムハンマドは途中で我のもとを去り、自ら啓示を作り出し、自らを最後の預言者とした。そのため我は千年以上の長きに渡り、我慢を重ねたが、もはやこれ以上ムハンマドの過ちを見過ごすわけにはいかず、汝小木を新たなる預言者として世を正すことにした」


「わ、私が預言者に……」

 小木はあまりのことに絶句し、また尻餅をついた。自分ごときがエリヤやモーセのような預言者に選ばれるなどとはどう考えてもおかしい。他に解せない点もある。イスラムの創始者ムハンマドに啓示を授けたとはどういうことなのだろう。彼はあやふやな聖書の知識をもとに、ガブリエルから啓示を授かったと嘘を吐いただけのはずだ。


 しかし、大天使自らムハンマドに啓示を授けたとなると、ムハンマドは本物の預言者ということになってしまう。すると、イスラム教は正しい教えということになり、主イエスの教えは、ユダヤの律法のように過去の契約となってしまうことになりかねない。


 天使は、そんな彼の混乱を見抜いたようだ。

「小木よ。迷うことはない。主みずから汝を指命されたのだ。ありがたく引き受けよ」

「私ごときにはとても荷が重く、預言者のような重大で責任のある使命は務まりそうもありません。他にふさわしい方々は大勢いらっしゃいます。どうぞ、他の方を当たってください」

 と、小木は座ったまま謙遜を装い、断った。


「かのモーセも主に対し、世の中の連中が俺のいうことなんか聞くわけない、俺は口べただ、誰か他の人にしろ、などと逆らった。そこで主はお怒りになり、モーセをカナンに入れなかった」

「私は大預言者モーセよりはるかに劣る一介の牧師にすぎません。とても預言者などといった重責は果たせそうにありません」

「コンスタンティヌスは啓示を授かるまでミトラの神に仕えていた。使徒パウロもユダヤの律法学者だった。聖職者である汝が断れるわけがないであろう」

 天使の正論に、小木は反論できず、

「わ、わかりました」といって預言者になることを承諾した。


 テーブルの上には、大学ノートとシャープペンが置いてある。ガブリエルはそれを見て、

「記念に、汝に印を授けよう。汝、小木。その杖を投げよ」と命じた。

「杖?」小木は戸惑った。「シャープペンシルのことですか?」


 小木はシャープペンを手にとり、ノートの表紙の上にそっと投げた。すると、ペンはほんの一瞬だけ蛇のように動いた……ように見えた気がした。小木はどう反応していいか迷ったが、

「き、奇跡です」と小さな奇跡を賞賛した。

「我の話す言葉は、主から授かったものである。その杖でその紙に記録するがよい」

「は、はい」

 小木は奇跡の杖を手に取った。


 天使は彼がメモしやすいように、ゆっくりと語りだした。

「天の国には主の御言葉を綴ったクリュウアーンがある。我が汝に語るのもクリュウアーンであるが、天のクリュウアーンを短くまとめたものである。

 主は天地を創造せず、アダムもノアのことも知っておられぬ。主はアブラハムとイサク、ヤコブの神である。そう主はモーセに告げたが、モーセは主に名前を尋ねた。主はその場で名前を思いつかず、私はあると言う者だと口をすべらせ、後にヤハウェと改名したが、あまり気にいられず、その名を呼ぶことを禁じた。


 アブラハムの父テラは家族を連れ、カナンを目指した。長旅に疲れたアブラハムは、途中のハランにとどまると言い張り、テラはやむなくアブラハムの意見に従った。テラは無念のうちにハランで亡くなった。主はアブラハムに、カナンに向かうよう、父テラの遺志を告げた。アブラハムはそれに従った。


 主はアブラハムと妻サラに子供がいないのを気遣い、アブラハムの甥ロトに命じて、娘との間に子供をもうけさせ、その子をイサクと名付けた。主はエサウもヤコブも好きだったが、ヤコブが家出したのでヤコブを愛した。ヤコブの息子ヨセフがエジプトに誘拐されたとき、主も一緒に向かった」


 いきなりの衝撃的な内容だが、書くのに必死で、頭を整理する暇がない。

「ヤコブの一族は増え続け、主ひとりでは手が回らなくなり、主はイスラエル人のさまよえる魂たちを御使いとして迎えた。我ガブリエルもその一人である。イスラエルの民はエジプトで虐げられ、モーセはエジプト人を殺して逃亡した。

 そのとき我はモーセに付きそい、主にモーセを預言者にするよう推薦した。主はモーセを好かれず、殺そうとまでしたが、モーセの活躍でイスラエルはカナンに戻れた。しかし、主はバアルを拝むイスラエルを見捨て、究極の預言者となるキリストを探すよう我に命じた」


 天使はそこまで語ると、ひと息いれ、

「クリュウアーンは一度に読むものではない。今日の分は終わりである。次に来るのは来週のこの時刻でよいかな?」と訊いた。

 啓示に次回予告があるとは、聞いたことがない。

「はい。私はかまいませんが」

「それでは来週のこの時刻、この場所で待つがよい」

 そう言い残し、大天使は突然姿を消した。


 突然の出来事を、小木は幻覚と疑い、ノートの乱雑な文字を読み返した。その内容はとても信じられないものだ。そのうえ、大天使はイスラム教の教祖に啓示を授けたとおっしゃっていた。今の彼にとって、それは認めることはできない。すると、あの天使は偽物、単なる悪霊なのだろうか。今はそんなことを考えている場合ではない。天使の話の前半はメモしていない。彼は天使の言葉を思い出し、ノートに記録した。


 それから何事もなかったかのように、ノートとシャープペンを持って自宅に帰った。書斎にこもり、聖書を朗読するが、いくら読んでも次から次へと疑念が浮かんでくる。それで、クリュウアーンと名付けられた主の言葉を綴ったノートを何度も読み返した。

 やはり、天使ははっきりとムハンマドに告げたと言っている。そこで、いままでイスラム教には全く目もくれなかった彼は、その成り立ちや教義についてネットで調べてみた。その教義は彼には受け入れがたかった。


 悩んでいると、あるアイデアが浮かんだ。来週も天使が来るのなら、隠しカメラやマイクをしかけて、映像や音声として残したらどうだろうか。もしこれが本物の大天使による啓示だとしたら、今後の宣教における強力な証拠になる。だが、御使いを隠し撮りすることは、主の御心に逆らうものになるかもしれない。彼は悩んだ末、翌日、秋葉原の電気街に出かけた。自らの行動が相手から観察されているなどとは、思いもよらなかったのだ。


 二回目の啓示の日がやってきた。

 牧師室で待つ。壁時計の針が気になる。六時まで後五分。小木は緊張しながら天使の登場を待った。

 六時ちょうど。大天使は予兆もなく、前回と同じ位置に突然現れた。


 天使の口から語られる言葉は、前回以上に、長年牧師としての務めを果たしてきた小木には耐え難いものだった。

「主はキリストとして生まれる者を見いだすことを、我ら御使いにゆだねた。我らは祭司ザカリヤの妻エリザベトの懐妊を知り、我は妻の懐妊を知らなかったザカリヤに、男の子が生まれるので、名前をヨハネとするように告げた。ただし、男の子が生まれた場合にのみ、このことを公表するよう堅く約束させた。


 エリザベトの親戚にはマリアという若い娘がいた。マリアには大工ヨセフという許嫁がいたが、我はザカリヤに、マリアとの間に子供をもうけるように命じた。マリアはザカリヤの家に住み、そこで懐妊した。生家に帰ったマリアを家の者たちは不貞と非難したが、マリアは神の子だと言い張り、ヨセフと結婚した。


 住民登録のため、二人がベツレヘムに向かったので我らは慌てた。二人を宿に泊めず、馬小屋に泊まるよう取り計らい、イエスは予定どおり馬小屋で生まれた。我らは三博士を用意できず、近くにいた羊飼いを導き、祝福させた。ベツレヘムの星の話は、我が考えた作り話にすぎぬ」


 意識を失いはしないものの、小木は自分の顔色のことが気になった。 

「エゼキエルが亡くなった後、我はペルシアに向かい、邪教ゾロアスターの神ミトラについて学んだ。光の救世主ミトラは十二人の友に囲まれ、奇跡を起こし、死後復活する。我はダニエルに新たなる神の計画を告げ、イエスをミトラの神のごとく光り輝く救世主に仕立て上げた。我らの力によってイエスは奇跡を起こした。このように」


 天使はテーブルの上を凝視した。すると視線の先にコッペパンがひとつ出現し、すぐに消えた。

「ふ~」と天使は息をもらし、

「千数百年ぶりで我の力も衰えた」とつぶやいた。


 天使は続きを語っていく。

「御使いは、イエスが訪れる家に前もって行き、病気の真似をするよう啓示を授けた。御使いはイエスをそこに導き、病人の病気が治った。イエスの弟子達もこの奇跡に手を貸した。それで、弟子達はイエスのことをあまり信じず、イエスが捕まったときに逃げた。


 ただ病気が治るだけでは、エリヤやエリシャと同じである。救世主の真の奇跡は、ミトラのように復活することにある。我らは替え玉を用意し、イエスの代わりに磔にするつもりだった。しかし、諸事情で本物のイエスが十字架にかけられた。助けが来ないことを知ったイエスは、主の裏切りを非難したが、我ら御使いのいたしたことで、このことに主は関わっておられぬ。


 我ら御使いはイエスの墓を守るローマ兵を脅し、遺体を外に運ばせた。それから、替え玉に復活したイエスの代わりを四十日間務めさせた。それ以上は無理だと判断した御使いは、イエスに化け昇天した。それがイエスの真実の物語である」


 小木の頭に、イエスがゲッセマネで逮捕される直前に苦しみだしたことが浮かんだ。

 ――主イエスは、替え玉ではなく、ご自身が処刑されることを知り、苦しみもだえておられたのだ。ということはつまり、替え玉が死ぬことに心を痛めてはおられなかったのか……。いや、そんなはずはない。これは何かの間違いだ――


 それから天使は、「来週、また来る」とだけ言い残し、姿を消した。

 天使がいなくなると、小木はショックのあまり、ソファにぐったりともたれかかった。


 キリスト教と多くの共通点があるというミトラ教の噂は、耳にしたことがある。それで、イエスの話は全部ミトラ教をもとにした創作だという意見まで出ている。もしそれが考古学的に常識だとしても、どなたかのおっしゃるように、ミトラ教は悪魔が前もってキリスト教に似せて作ったものだと、彼は思っていた。それが天使自ら、ミトラ教を模倣して、イエスを登場させたとなると話は別だ。


 彼は、ノートの文字を何度も読み返した。天使の御言葉によると、イエスはあらかじめ与えられた役割を演じた普通の人間にすぎなかったということになる。

「ありえない……」


 それから彼は、カメラの映像を確認した。たしかに映っている。あらためて映像で見ると、天使は心霊動画の幽霊のように不気味だった。

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