2-4 ミトラ教的な、あまりにもミトラ教的な(2)

 イエスとヨハネは無事成長し、イエスは父親の大工仕事を手伝い、病人を治すこともなく、パンを出現させることもなく、普通に生活していた。


 ヨハネは、「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイ3:2)」と宣教し、ヨルダン川で人々に洗礼を施していた。その中のひとりにイエスもいた。天使からイエスのことを聞いてきたヨハネは、

「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか(マタイ3:14)」と謙遜した。


 イエスが洗礼を受けたとき、天使が鳩のように空中に飛んでいた。鳩という表現から、この天使は、ヘレニズム文化のキューピッドの影響を受け、翼を持つようになっていたのかもしれない。

 ガブリエルがイエスの洗礼を見に来ていたのだろう。というよりむしろ、ローマにいたガブリエルは、帝国情勢から今が洗礼のタイミングだと判断し、パレスチナに来たのだ。


 イエスは四十日間断食した。ヨガの行者によれば、一月くらい食べなくても生きていけるようだから、これは誇張でも比喩でもなく、実際に行ったものだろう。断食中、悪魔がイエスを誘惑した。エルサレムに連れていかれ、世界の全ての国を見せたということから、悪魔の正体はエゼキエルに幻を示した天使だろう。


 イエスが悪魔を追い払うと、天使が来た。悪魔が去った直後に天使が来たということは、天使はその様子を観察していたことになる。あらかじめ悪魔と打ち合わせて協力してもらったとは考えづらいから、天使が悪魔に化けてイエスを試したのだ。

 悪魔に化けた天使が、去る途中で元の姿にもどり、イエスのところにまた行く。イエスは、相手の天使がさきほどの悪魔だとは気づかない。


 その後、ガブリエルはイエスのもとを離れ、ローマに戻った。クルアーンの内容から、彼はイエスの死の真相を知っていないと推測できる。イエスを二人の天使に任せ、第四の獣ローマ帝国のコントロールに専念し、復活したイエスと十二使徒が、天使に付き添われながら、ローマにやってくるのを待っていたのだ。


 そこで、救世主劇のクライマックスを、自ら手がけることになる予定だった。天使長ガブリエルがシナリオライターで、部下の二人の天使が現場監督、イエスが主演俳優といった関係だ。


「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ(マタイ3:9)」

 などと、ヨハネもイエス同様、ユダヤ選民思想を否定していた。指導する天使が同じだから、基本的な思想はイエスと等しい。


 しかし、ヨハネはイエスと異なり、弟子達に断食を指示した。イエスは断食については曖昧にしたまま、昇天してしまったので、一部の宗派を除いては、キリスト教徒は断食をしない。イエスが断食について指導しなかったのは、当時のガブリエルがまだどうするか決めかねていたからだ。


「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか(ルカ5:34-35)」


 あなたがたは、ローマ貴族が一緒にいるのに、キリスト教徒に断食をさせることができるであろうか。


 パンとサーカスという言葉に代表される、退廃的で享楽的なローマ市民。特にローマ貴族たちは贅沢を極め、数時間に及ぶ宴席で食べ続けるため、一度食べたものを吐瀉剤や鳥の羽根などで吐き出し、胃を空にする風習があった。

 彼らに断食ができるだろうか。断食を嫌がり、キリスト教への改宗を避ける可能性もある。それでキリスト教では、断食は義務づけられなくなった。


 イエスは天使の協力のもと、行く先々で奇跡を起こす。ガリラヤ湖では魚の集光性を利用して大漁を見せつけ、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの二組の漁師兄弟を信者にした。弟子達を強制的に舟に乗せ、天使が風を起こし、イエスが舟に乗ると、天使は風を止めた。


 健康な村人の前に、突然天使が現れ、病気のふりをしろと言われ、しばらくすると、天使に道案内されたイエスがやってくる。村人はその場で病気が治る。皮膚病に見せかける業は、天使がモーセの手を白くしたときにも使った。弟子の中に協力者がいれば、さらに成功率は高い。


 奇跡の噂には尾ひれがついて、作り話も喧伝されるようになったのだろう。イエスはその噂を聞きつけた群衆を集め山に登り、天使から教わった言葉を語る。山上の垂訓だ。セリフを忘れた場合は、姿を消した天使がそばでささやいてくれるか、代わりに声をだしてくれる。あるいは、最初からイエスの姿をした天使だったのかもしれない。


 ヨハネ福音書七章。イエスはユダヤ人に殺されることを恐れてユダヤ地方に向かわず、ガリラヤに留まっていた。兄弟たちからエルサレムの仮庵の祭に出かけるように勧められたが、断った。自分から断ったくせに、こっそり出かけて、エルサレム神殿で説教をして、その豊富な知識でユダヤ人達を驚かせた。


「そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである(ヨハネ7:30)」

「また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう(ヨハネ7:36)」


 イエス本人ではなく、イエスの姿をした天使なので、見つけようもなく、捕まえようもない。


 イエスが病に苦しむ十二歳の少女の家を訪れたとき、大勢の野次馬の中に出血の病に苦しむ女がいた。彼女はイエスの服に触れただけで病が治り、イエスは誰が触ったのか問いただした。

 なぜイエスはその程度のことを問題にしたのだろう。あれだけの奇跡を起こしながら、誰が触れたのかわからなかったのか。これは、あらかじめ打ち合わせ済みの狂言で、都合良くイエス訪問直前に死んだふりをした少女が生き返ったのも狂言である。


 グノーシス派の教典には、十二使徒のひとりトマスによる福音書がある。それによると、イエスはトマスに自分が彼の師ではないと語り、その後で密かに三つのことを告げたとある。そのうちのひとつでも知れば、トマスに石をぶつけることになるそうだ。


 トマスはイエスの奇跡を信じようとしなかったが、イエスは一体、彼に何を告げたのだろうか。ペテロが西方のローマに伝道の旅をしたように、トマスも東のインドに赴き、主の教えを広めたと伝えられる。大乗仏教にキリスト教の影響がみられるのは、彼の活躍による。


 牢獄のヨハネはイエスの噂を聞き、弟子を送った。ヨハネの弟子の前でイエスはヨハネを称える一方で、かつての預言と律法はヨハネまで有効だと、新時代の到来を宣言した。その言葉通り、イエスは安息日に病気を治し、律法学者の反感を買う。


「身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである(マルコ3:21)」


 突然、救世主になったイエスのことを、家族は心配した。イエスが故郷ナザレに帰ると、人々は、あの大工の小倅が、どこからそんな力を得たのだろうと驚いた。故郷では疑いの目で見られていたため、手品がばれないように、

「そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった(マルコ6:5)」。


 故郷では見せなかったイエスの奇跡はさらに続く。イエスに化けた天使が海の上を歩き、それを見た弟子達は、奇跡を見慣れているはずなのに、幽霊だといっておびえた。弟子達は正しかった。そのイエスは本当に幽霊だった。


 イエスの周りに大勢の群衆が集まった時、イエスは五つしかないパンを引き裂き、弟子たちに配らせると、パンは増えていた。パンはあらかじめ大量に用意してあったが、天使が見えないようにしていた。

 翌日、パンを求める群衆はイエスを探し出したが、二回分も用意していないので、イエスは、人を生かすものは霊であって、肉は役に立たないと説得した。それを聞いた弟子達の多くは、

「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか(ヨハネ6:60)」

 と不満を口にし、

「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった(ヨハネ6:66)」


 難問を持ちかけられ、即答できなかったこともある。律法学者達が姦淫した女を連れてきて、イエスにどう対処するか尋ねた。イエスは何も答えず、地面に何か書いていた。だが、しつこく問い続けられ、

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい(ヨハネ8:7)」

 とだけ答え、何かを書き続けた。それで律法学者達は去った。


 心霊研究家でシャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルは、このときのイエスは霊団の憑依により、本人の意思と無関係に手が勝手に動き地面に書き記した、いわゆる自動書記をしていたと考えた。

 イエスが霊団の指示を受けていたのはドイルの読み通りだが、このときに限り指示がなかった。イエスは、文盲なのに文字を書く振りをして、正面からの対応を避けて時間かせぎをしたのだ。

 このくだりは初期写本に無い。イエスの対応がどこかおかしいので採用を見送ったが、じっくり考え抜いた答えがそれなりに名答なので後世に追加したのだろう。このとき天使も同じように返答に困り、イエスに指示できなかったに違いない。


 イエスは、弟子に自分の死と復活を予言した。死んでも復活することがわかっていたためか、そのときには恐怖で打ちひしがれている様子はなかった。

 八日後、イエスは一部の弟子だけを連れて高い山に登った。イエスの顔や服が光り始め、モーセとエリヤがそばにいた。イエスの変容と呼ばれる。

 おそらく姿を消した天使がその場にいて、イエスの左右にモーセとエリアの幻を描き、間に挟まれたイエスも光に包まれたのだろう。

 そのときイエスが連れていった弟子は、ペテロとヤコブ、ヤコブの弟のヨハネの三人だ。後の章で理由を述べるが、幻を描いたのは姿を消した天使ではなく、ヨハネかもしれない。


 イエスは、自分が死んで三日後に復活すると予告した。何故、三日後なのだろう。処刑されてすぐ復活すれば、敵対する祭司長といえどもイエスの信者になりそうだが。

 その場で死者をよみがえらせるイエスなら、自分をよみがえらせることなど簡単なはずなのに。わざわざ墓に納められてから、墓の中で人知れず復活しても、祭司長たちがけちをつけることぐらい予想できたはずだ。


 イエスと弟子達はエルサレムに入った。そこではイエスを殺す計画が練られていた。そのことを知っていた天使たちは、イエスの代わりに処刑される青年を見つけておいたが、何らかの手違いでイエス本人が処刑され、替え玉が生き延びてしまった。


 復活後のイエスは、「イエスはちがった姿で御自身をあらわされた(マルコ16:12)」ということだから、替え玉は似ていなかった。代わりに死んでくれる似た人間など滅多にいないから当然だ。

 探偵小説十戒第十条。双子やうり二つの人間を登場させるなら、あらかじめ明記すべきである。読者に知らせずに替え玉を使ったが、違った姿なので十戒違反ではない。


 弟子のひとり、イスカリオテのユダは、ユダヤの祭司長たちと取引をし、金でイエスを売った。そのことをイエスはあらかじめ知っており、最後の晩餐の席で私を裏切ろうとする者がいると語った。


 異端とされるグノーシス派のユダの福音書では、ユダは最高の使徒で、イエス本人に頼まれて、イエスの肉体を犠牲にすべく、師を敵に売ったように記されている。もしこのことが事実なら、ユダは復活劇の悪役を演じたことになる。

 正典の福音書でもイエスがユダの裏切りを予告していることから、ユダの裏切りはやはり天使の書いた筋書き通りのことだろう。ユダがイエスを敵に売り、替え玉が処刑され、本物のイエスが三日後に人々の前に登場する。これでエルサレムの民衆は、イエスの信者となる。計画通りにいけば、そうなるはずだった。だが、予定を変更せざるを得ない事態が起きた。


 ルカ福音書九章。パンを増やして群衆に配った後、イエスがひとりで祈っているところに弟子達が近づき、イエスは群衆の反応を聞いた。そのときイエスは、自分が死んで三日後に復活することを明かし、そのことを口止めした。

 マルコ六章。パンを配り終え群衆と別れたイエスは、山に上り祈った。夕方、イエスが海の上を歩いているのを弟子たちが見た。

 ヨハネ六章。パンを配ったイエスは、ひとりで山に上がり、夕方海の上を歩くのを弟子達に目撃される。翌日も群衆からパンをねだられたが、自分こそが命のパンだと言い張った。それを聞いて多くの弟子達が、イエスのもとを去った。


 マルコ、ルカ、ヨハネの三福音書から、イエスのもとを去った弟子の中には、死んで三日後に復活する予定を知っている者がいた可能性があることがわかる。必ずいたと断言できないのは、マタイ、マルコでは復活の秘密を明かすのは、別のタイミングとなっているからだ。

 もし、復活のことを明かしたのがルカの通りだとしたら、イエスのことを山師の類と思っている彼らは、イエスの悪口を言いふらし、死んで三日後に復活するという大ボラを知人や親戚に話すだろう。


 その結果、

「あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました(マタイ27:63)」

 と、祭司長たちが言うことになる。


 逮捕されてからの取り調べでは、イエスに不利な証拠がなかなか見つからなかった。

「イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった(マルコ14:61)」

 キリストかどうか問われ、

「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう(マルコ14:62)」

 と認めたことが決め手となり、ピラトに引き渡されてからも、

「ピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった(マルコ15:5)」そうなので、イエスは取り調べで、自分が処刑されて三日後に復活するとは語らなかったはずだ。


 敵はイエスに関する情報収集をした結果、復活計画を事前に知っていた可能性が濃厚だ。


 話を持ちかけたのはユダのほうからだ。イエスの弟子であるユダは、回し者と疑われて当然だ。たとえ復活計画が漏れていなくても、大金を払うのだから、本人確認は必須となる。

 イエスはエルサレムに着いてからも神殿で説教をしていて、祭司長や長老と会話をしている。祭司長らは、偽物を渡されないように、逮捕時には自分も同行する、あるいはイエスの説教を聞いた者を探し出し、送り込むなどと言って、本物のイエスを渡すように、ユダに念を押した。逮捕時の群衆の中には、イエスの顔を知る者も混じっていたのだろう。


 ユダは困り果てたに違いない。イエスのもとに帰ったユダの話を聞いて、イエスは主(天使)と相談する。二人の天使は、やむなくイエス本人が処刑され、替え玉に復活後のイエスを演じさせる計画に変更した。

 イエスを安心させるため、処刑の最中に神が助けに来ると嘘をいい、遠方にいる立案者のガブリエルには、計画変更のことは事後報告という形にした。


 ユダは、イエスに有罪が下ると自殺した。受け取った金を返そうとまでした。金で師を売るような人間が、そのような行動をとるだろうか。ユダはイエスの死を知りたくなくて、師より先に命を絶ったのだ。歴史に汚名を残してまで、イエスの指示に従ったユダは、最高の使徒だった。

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