1-3 バグだらけの人生(1)
土曜日午前。
ハルミは、JR中央本線に乗り山梨県甲府市に向かっていた。二時間弱の列車での移動中、緑豊かな窓外の秋景色も気にならず、ひとり考えごとに耽っていた。
――恒星や惑星が球なのは、引力があるから。あのゼリーの中の球を、球たらしめているのはどんな力? 全体から引き離すような力が働いたから、球が産まれた。その力こそが自我。自我が消えると、球は消滅し、全体に吸収されてしまう――
甲府駅で降りると、タクシーに乗り、駅前の大通りをそのまま南に進む。笛吹川を超えると、目的地の曽根丘陵公園はすぐだ。
この辺りは先土器時代から平安時代にかけての遺跡が多く、この広大な公園には、東日本最大級の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳と、県内最大の円墳である丸山塚古墳がある。園内には他にもいくつか小さな古墳があり、考古博物館、埋蔵文化財センター、研修センター、キャンプ場、テニスコート、芝生広場、遊具広場、歴史植物園などもある。
タクシーが停まった。
彼女は料金メーターに表示された金額を支払った。後部座席のドアが開き、足を外におろしたとき、運転手にさりげなく、
「幽霊が出るって噂聞いてます?」と聞いてみた。
「大人は大丈夫みたいですよ」
と、運転手もごく当たり前のように答えた。
まずは丸山塚古墳だ。さすがに公園にあるだけに、草が伸び放題のものと違い、古墳の表面は綺麗な芝が覆っている。五世紀前半の円墳で、高さ十一メートル、直径七十二メートル。頂上には数本の樹が生え、そこまで階段が続いている。彼女は上がっだけで、すぐに隣の前方後円墳に向かう。
前方後円墳は円形の墳丘(後円部)に方形の墳丘(前方部)を組み合わせた古墳の一形式で、甲斐銚子塚古墳は上空から見ると、鍵穴のような形をしている。前方部はなだらかな丘のようで、遺骸を埋葬する後円部は小さな山のように盛り上がっている。
彼女は、前方部の下端から緩やかな傾斜の階段を上がった。階段は前方部の途中まで続き、後円部の頂上から端まで続いている。後円部は丸山塚古墳より大きく、高さ十五メートル、直径九十二メートル。階段も急だ。
彼女は頂上に上がると、甲府の街を見下ろした。民家がどこまでも続いている。
去年の冬休み中のこと。夕方、三人組の男子高校生が、古墳の脇で古代人の格好をした中年男性を目撃した。幽霊とは思わず、一人が声をかけた。
「おじさん、こんなところで何コスプレしてるの?」
「おじさんではない。わたしはアマテラス近江守だ」
三人の耳には確かにそう聞こえた。
「近江守って、時代劇かよ。おおみかみだよね」
「そ、そう、あまてらすおおみのかみ」
と、古代人は慌てたように言い直した。
「写真撮っていい?」
高校生たちが携帯で写真を撮り、画像を確認してから古代人のほうを見ると、相手はどこかへ消えていた。証拠写真は心霊写真とは思えないほど鮮明に映っており、高校生達が普通の人間と間違えたのも無理はない。薄鼠色の衣。八の字に結った角髪。鼻の下にひげを生やした精悍な顔。細い目で、携帯のほうを不思議そうに見ている。
アマテラスとは古事記や日本書紀に登場する太陽神あまてらすおおみかみ(古事記では天照大御神、日本書紀では天照大神)のことなのだろうか。天照大神を祀る神社はいくつもあるが、どうして古墳の周りに出没するのだろう。全国各地に伝承が存在するが、この付近では特に聞かない。
きっとこれは、名もなき幽霊が天照大神を名乗ったに違いない。ネットの心霊サイトでこの情報を知ったハルミは、信憑性が高いと判断し、幽霊の存在を自分の目で確認したいと思い、ここまで来たのだ。最近は飽きられたのか、幽霊目当てに来る人はほとんどいなくなっていた。
相手は本当に現れるだろうか。広い公園で時間をつぶしている間、考えていたのは、幽霊というよく知られてはいるが、必ずしも信じられていない現象のことだった。
転職する場合、途中、ある程度のブランクがあるのが普通で、前の会社を退職した翌日に次の会社で働くケースは希だろう。死が訪れた瞬間に次の肉体にセッティングするのも、転生先の胎児がすでに準備されて、受け入れ可能な状態になっている必要があり、難しいというより、無意味で無駄なのだろう。
これが寿命の短いプランクトンや昆虫なら、ブランク期間は短くてすむが、人間ともなると、次の人生の選択という重要な事柄を決めるのだから、数年から数十年は要して当然だ。
その間、外部からの刺激の無い暗闇で無音の状態では、それを体験する本人に有害である。現に、感覚遮断実験で三日以上耐えられる被験者はほとんどいないという。天国や地獄という特殊な仮想現実を用意するのも、余計な計算資源を消耗し、天国はすぐに飽きてしまい、地獄は計り知れぬトラウマを与えることになるから、有害そのものだ。
だから、視覚、聴覚の刺激を与えられ、さらに移動制限の少ないある程度の自由な状態で、人間の暮らす、これまで過ごして来た世界に、しばらく居続けることになる。
幽霊という期間は、神が面白半分に用意したのではなく、合理的判断から採用したものなのだ。
死を間近に控えた人間が、もう一人の自分の姿を見るという、ドッペルゲンガーという現象がある。リンカーン大統領、エリザベス一世、ゲーテ、芥川龍之介など、多くの事例があるという。
これも幽霊の一種で、近々死を予定している魂が、幽霊になった時に備えて運用を調整している幽霊予行演習だと、ハルミは考えた。ドッペルゲンガー体は、肉体の近くでシュミレートしなければいけないので、肉体と遭遇する確率が高く、死期と遠くない時期にしか出現しない。
ゲーテの場合は死の八年前だが、この頃、ゲーテは失恋で意気消沈していた。自殺文学の代表作「若きウェルテルの悩み」の著者が、いつ自殺してもおかしくない状況だったことを考えると、やはり彼の潜在意識が死後に備えて、幽霊を作り出して、視覚、聴覚、発声などの調整、リハーサル、試運転をしていたのだろう。
ドッペンゲルガーが死期が迫った状況なのに対して、生き霊は、強い思いが高じて、データ処理の一部を割いて、肉体が存在していない場所に、何らかの作用を及ぼす現象と解釈できる。その考え方からすると、たとえば土星の衛星ディオネのことを強く思い続ければ、生き霊をそこに飛ばすことができることになり、彼女は試してみたが、検証できなかった。
医師や看護師など医療関係者に心霊体験が多いという調査データがある。人の死に接する機会が多い職業なので、そういうことを意識しやすい環境にあるのも事実といえるが、やはり死んでしばらくは、遺体の近くにいるのだろう。
東日本大震災の後、被災地では心霊現象が頻発したと報告されている。二万人近い人が一度に亡くなってはいるが、日本の年間の死亡者数は百万人を越えるので、やはり震災が影響していると思われる。ジャーナリズムは、被災地特有の集団心理で片づけようとするが、ハルミは光学、音響系の物理現象と考えていた。
これは、高齢や病気などであらかじめ死を想定している場合と違い、予期せぬ災害によって亡くなったので、自分が死んだ自覚がないケースが多いことが原因なのだろう。自分はまだ生きていると思っている状態では、生きている時と同じように、人に話しかけたり、タクシーに乗ったりするのだろう。
死んだ自覚はあるが、やり残したことがあって、素直に受け入れることができない状況でも同様で、彼女が探している相手も、何らかの理由で、死んでも死にきれないに違いない。
大震災の三年後には、直接の心霊体験は減っている。さすがに三年もすれば、自分の死を認める。果たしてアマテラスは、いつの時代の人間だったのだろうか。
世界の人口が爆発的に増加していることから、人間から人間の転生だけでは、魂の供給が追いつかない。動物からの転生も一部あるのだろうが、どこかの地球外文明が絶滅に瀕しているのでないだろうか。環境破壊や大規模な戦争などで、数十億人単位の死者が出て、行き先を失った魂が、地球を選んだ。
哀れんでばかりいられない。この地球もこのまま環境破壊が進むと、人類絶滅という状況も想定できる。生物の歴史から考えて、人類という種が永遠でないことは明らかだ。いつか、この星を離れなくてはいけない。
――そのとき、私はどこに行くのだろう。地球と似た星? いや、星とは限らない。すべての宇宙が仮想現実ならば、基本構造の異なる、想像も及ばないような別の宇宙があってもおかしくない。そこの生き物は、呼吸や食事、老化も病気もない、まるで天使のような存在――
日が沈む時刻になった。そろそろ現れる頃合いだと考え、再び古墳の頂上に上がる。そこから見える夜景は綺麗で、甲府の街が光の河のように見えた。雲の少ない晴天で、空を見上げれば星々が瞬いている。その光は遠い過去からやってきた遺物で、その星自体が今は存在していないかもしれない。
午後八時までそこにいたが、結局アマテラスは現れなかった。彼女はあきらめて、予約してあった市内のホテルに向かった。一階のレストランで食事をすまし、料金の割に質素な302号室に入り、シャワーを浴び、寝間着に着替え、すぐに床についた。部屋には聖書がおいてあったので、ベッドの上で寝転がったまま、出エジプト記を読み始めた。
この書では神の名前が何度も変わっている。先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神→わたしは有る→先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が永遠に神の名→ヤハウェ→その名を唱えてはいけない。その理由を考えていると、昼間の疲れも出てきたようで、そのまま寝入ってしまった。
夜中の二時頃、目を覚ました。照明が点けっぱなしだ。毛布もかぶらず、枕元には開いたままの聖書。カーテンを閉めるのを忘れていたことに気づいた。三階なので外から覗かれることはないが、気になるので、窓のほうに向かった。
カーテンに手をかけると、突然、窓の外に中年男の顔が現れた。
ここは三階のはずだ。
そいつは空に浮かんでいるのか。彼女が驚いて動けぬままでいると、その男はガラス窓をすり抜け、部屋の中に入ってきた。男の格好は古墳から抜け出てきたかのようだった。
両耳の辺りで八の字に結った角髪と呼ばれる髪型で、勾玉を連ねた首飾り。弥生時代の人間のようだ。身長は百七十センチほどで、当時としてはかなり高いはずだ。一重まぶたの細い目が鋭く彼女をにらみつける。クルミなどを食べる縄文人に較べ、米が主食の弥生人だけあって、顎が細い。
彼女は、自分が寝ぼけているのか、まだ夢の続きを見ているのかわからなかったが、目の前の異様な姿の男は探していたアマテラスオオミカミに違いないと見当をつけた。昨日の彼女の行動を見ていて、わざわざ自分から出向いてくれたのだろう。
「わ~驚いた。あなた本物のアマテラス?」
と、彼女が立場もわきまえず、無礼な口の利き方をすると、相手は頷き、
「そうだけど。俺に何か用か?」と気さくに話してくれた。
機械で合成されたような声でも、妖怪が人を脅すような声でもなく、少ししゃがれた明るい感じの男性の声だった。
「いろいろとお聞きしたいことがありまして」と彼女が言うと、
「なんなりと尋ねるがよい」
と相手の口調も改まった。そこでハルミは本題に入った。
「あなた、本当は誰? 天照大神ってたしか女性の神のはずだけど」
「な、名前なんかどうでもいい。わ、私はただの神様、そう、私こそが神だ」
と神は慌てた。
「名前なんかどうでもいい」
ハルミは目を大きく見開き、神の御言葉を繰り返した。
「どうでもいい……あってもなくてもいい、なくてもいい。そうか、そうすれば名前がいらなくなる」
彼女は、神の存在を忘れたように、ベッドの上に飛び乗り、放置されていた聖書を手にとり、出エジプト記を読み始めた。神が不思議そうな顔で彼女の様子を見ていても、
「全部、モーセが原因だったんだ。モーセがあんなこと聞くから……だから、神が唯一にされたんだ。これで全部、謎は解けたじゃないの」
と、ぶつぶつ口にしていた。
日曜の夕方、京は二人分の食事を用意して、ハルミを待っていた。ドアが開いた音がして、妻を出迎えに彼が玄関に向かうと、彼女に連れがいた。
上物のスーツを着たやせぎすの中年男性だ。旅先で知り合ったのだろうか。男性は京と目が合うと会釈をしたので、京も「どーも」と挨拶をした。
「どーもって何?」とハルミは夫に尋ねた。
「そちらは?」
京は、身振りで彼女の後ろの辺りを示した。
「え?」
彼女が振り向いたときには、男性の姿は消えていた。
「嘘だろ……:」
京は言葉を失った。
「どうかした?」
「いや、別に。それよりおなか空いただろう」
京は平静を装って食事をしたが、心は動揺していた。食べ終わると、さりげなく彼女にこう尋ねた。
「僕は信じてないけど、幽霊見える人間っているじゃないか。もし仮に本当にいるとしたら、見える人間と見えない人間の違いは何なのかな?」
「人間が見えているものって、目から入ってくる信号そのものじゃなくて、脳で補正をかけているの。網膜からの情報って多すぎて、瞬間的に必要なデータを取捨選択して抽出しないと、脳の処理が追いつかない。人が見ていると認識しているものは、過去の経験から、それがどのような物体なのか判断して画像処理した結果なの。
その補正の段階で、その人の持つ世界観がどうしても反映されてしまう。錯覚模様なんかもたぶんそれが原因と私は考えてる」
特定の幾何学模様などで起きる、生理的錯覚の原因はよくわかっていない。
「画像編集ソフトで自分の顔写真のほくろを消すようなものか。ここにこれは写っていないほうがいい。従って消す」
「そうそう。ぼんやりとした幽霊の画像を、これはあるはずのない間違った信号だと脳が自動的に判断して消してしまう。ところが、小さな子供や動物はありのまま受け止めるから、幽霊が見えるという理屈」
「すると、霊能者の脳みそは幼児や動物並みということになるな」
「鋭い。彼らは、自分は人より優れていると勘違いしてると思うけど、実は大脳が幼児と同じレベルだったということ。それに騙し絵みたいに、気づく、気づかないの違いもあると思われます」
「カメラは正直にとらえた映像を写すから、心霊写真があるのか」
京が納得していると、ハルミは思わぬことを話し出した。
「私、心霊写真で思うんだけど、鏡台、鏡の前にいた人が振り向いたところを撮影した動画や写真で、鏡に映っているその人の顔が振り向いていなかったり、鏡に映る顔が後ろ姿じゃなく、前から見た顔だったというものをネットで見たことあるんだけど、これって心霊写真じゃないと思わない?」
「はあ、どういうこと?」
「鏡の中の姿が現実と一致していないということ」
「それがどうしたって?」
「これ、霊の仕業なんかじゃなくて、宇宙GPUの描画ミスかもしれない」
「バグ?」
「プログラムバグというより、判断に戸惑うまぎらわしい情報に対処しきれない場合があるかもしれないということ。情報に従ってこの宇宙が描画されているとしたら、その情報そのものにエラーがあれば、間違ったまま現実世界に反映されてしまう。あるいは、鏡に映る映像を撮影するということは、かなり計算量が多いはずだから、単純に計算が追いつかなかったとか」
「計算が間に合わないって? 鏡に映るのは、高パフォーマンスを要求されるクリティカルな処理ってこと?」
「合わせ鏡の都市伝説も、案外そのあたりに理由があったりして」
ハルミはいたずらっぽくいった。
合わせ鏡とは、二枚の鏡を向かい合わせに設置し、鏡の中に鏡が映り、またその中に鏡が映るということが繰り返されていく状態だ。悪魔が出てくる、将来の自分の姿が映るなどの言い伝えは日本に限らない。
「他には、逢魔が時。太陽が沈んでいく夕暮れは、変化が激しいうえに、明るくも暗くもなく、光や陰影の計算が夜中や日中に比べ高負荷。それで魑魅魍魎が蠢くことになる」
彼女の考えでは、高パフォーマンスでクリティカルなデータ処理なので、異常が起きやすいということになるが、
「やめてくれよ。そんなことあってたまるか。怖くてこの宇宙に住んでられないじゃないか」
といって、京は混乱した。
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