優しい嘘の恋文

絢音 史紀

File.00  受諾

 Prologue.

 黒いスーツ姿に青いネクタイを巻いた青年。というには少しスーツに着られている感があり幼さを残す男が、少し速足で歩く。カツカツという音が静かな廊下響き渡っていた。歩くたびにがゆらゆらと首から下がって胸の前で漂っていた社員証が揺れを小さくした。

 何の変哲もない片開きのドアが点々と存在する空間が随分続いて、不意に他とは雰囲気の違う両開きの扉の前にたどり着いた。

男はその扉の前で足を止め、フーッと短めに息を吐きだして、しばらくの間、緊張からか、苦悶の表情を浮かべていた。しかし、意を決したように視線を真っ直ぐと扉に向けると、目の前の重厚な木製両開きの扉をノックした。コンッコンッという音が静かな廊下に木霊する。

「入りたまえ」

すぐにノックの音にこたえるように、短い声が扉の向こう側から聞こえてくる。それに、答えるように

「失礼します。」

とだけ言って、右側のドアノブに手を掛け、それを回し、ゆっくりと引き、半開きにするとスッと身体を滑り込ませ、開けた時と同様にゆっくりと両手で扉を閉めた。そして、正面に向き直る。微かな明暗の違いによって、一瞬、視界が白く染まったが、それもわずかばかり、足をそろえ直立のまま

「S.(special agent)13 篠田一哉。まいりました。」

そう短く名乗ると、軽く頭を下げるように礼をした。

 そこは、いわゆる社長室や校長室と雰囲気の似た部屋だった。部屋の中央に背の低いダークブラウンの長机とそれをサイドで挟むように見るからに高級そうな黒いソファー。1人掛け用が2つと3人掛け用が1つが置かれている。その奥にはお偉いさんが使っていそうな威厳がありそうなデスク。その上にファイルなどが積み上げられている。窓際には、スラリとした白いスーツの男がこちらに背を向け、後ろ手に手を重ねて、その傍でこちらを見つめるスーツ姿の髪の長い女性が立っていた。

 スーツの男は、ゆっくりと振り返った。その男の風貌は、一哉の想像するお偉いさんとは、まるで違っていた。スラリと長い手足と整った顔立ち。そこらのアイドルにも引けを取らない顔の良さと、穏やかな眼が入口に立っている一哉をまっすぐにみつめると

「よく来てくれた。まずは、かけたまえ。」

威厳のありながらも優しさの含んだ声が一哉の耳に届いた。それにこたえるように「しつれいします。」とだけ答えてツカツカと数歩歩くと一哉は、3人掛けのソファーに腰を下ろした。余計な沈み込みはなく適度な反発が返ってくる。いかにも高級と言ったところだ。

「どうぞ、一哉さん」

先ほどまで、窓際のスーツの男の傍に立っていたはずの女性は、目の前におりこちらにお茶を差し出すように机に湯呑を差し出していた。微かに立ち上る湯気が暖かくなり、もうじき5月になるこの時期に出すものではないと感じつつも無言で小さく頭を下げた。

「御足労願ってすまない篠田一哉君。いや、ここではS.13と呼ばなくてはならないね。」

「いえ、これも仕事ですから」

そうそっけなく、返すと男は、フッと静かに笑みを作り、一枚の名刺を差し出してきた。

「数日前にここ、国営、機密情報保護委員会直属、潜入工作作戦科、南関東支部、支部長を就任した杉下徹だ。」

頭を上げると窓際に立っている男っからいきなり本題に入るという意思を込めた、そんな言葉を掛けられた。男は、ゆっくりとこちらに歩み寄り一哉の正面にある1人用のソファーにスッと腰を下ろす。

「EO(Exclusive Operator)の梓紗に聞きました。お会いできて光栄です。」

一哉は一先ず社交辞令のような言葉を口にし徹を見つめた。

 その堂々たる姿は、こちらを威圧しているようにも見えるが、彼にその意思は全くないのだろう。穏やかな笑みを浮かべている。

「こちらこそ、優秀なSである君にこうして、依頼をする立場になるまで20年もかかったよ。君もいずれはS.01にたどり着く人材だろう。それだけに期待している。」

徹は、すべてを包み込むような穏やかな笑みを浮かべた。

「最善を尽くすまでです」

視線を交わす2人の間に沈黙が流れた。

 近年増加する国際的なテロや凶悪犯罪を未然に防ぐために、30年前から活動していた機密情報組織をもとに15年前構成された国営 機密情報保護委員会が定める4つの分野S特殊工作員、G防衛工作員、A攻撃工作員、I情報工作員での序列。それぞれに3000人以上の人間が登録されており、任務成績、その他実績が優秀なほど、数字が若くなっていく。そして、その頂点に立つのがS.01総合力の必要なSの頂点は、各分野の序列1位に匹敵する者に与えられる称号だ。そして、目の前で、穏やかな笑顔を浮かべている彼は、元S.01で、作戦達成数歴代1位の本物。杉下徹、5年前に幹部となるための研修に入ったという話が上がってから話は聞かなくなっていた。それが、今上司として目の前に座っている。

 一哉は少し気圧されながらも徹の目を見続けた。徹がゆっくりと瞳を閉じ、短くフーッと息お吐くと同時に、沈黙と共に場に張り詰めていた緊張が一瞬緩む。

「まぁ、楽にしたまえ。君に受けてほしい依頼があるんだ。まずは、受けるか…受けないか、それを答えてほしい」

あまりにも雑談感覚でさらりと聞かれた一哉は一瞬呆気にとられた様に目を丸くした。危うく全く何の気なしに「Yes」と答えそうになった。油断ならない人だ。

 冷静に考えると、受ける受けないを聞いてから話す依頼は難易度が高いAランク以上の任務。それか、相当に面倒な場所、人物を相手にすることになる。

それでも、一哉の答えは決まっていた。

「はぁー、俺がここに来た以上、断るなんて選択肢はしません。それに尊敬する大先輩からの直接の依頼ですから。お受けします。」

「そう答えてくれると、思っていたよ。まず、この資料に目を通してくれ。」

そういって、徹は一つのA4サイズの紙の入る茶色い封筒を手渡された。それを受け取ると、早速裏にある紐を解き、中身を取り出した。

紙の束に指が触れ資料の厚みはそうでもないことを理解する。そして、引き出した最初の紙は、白紙紙そして、白紙の紙を捲るとクリップで付けられた一枚の集合写真が目に入った。一哉は、暫しその写真を観察する。写っているのは男子18名、女子22名の制服を着た少年少女たち、男女バラバラで身長もまちまちな点を踏まえると、出席番号順でとられたクラス写真だろう。そして、その写真の次の資料に目を落とした。

 出てきたのは、集合写真の切り抜きが貼られた1人分のプロフィール。その他個人情報。写真には、正面にパイプ椅子に腰かけ手を膝の前に置く1人の少女の姿があった。焦げ茶色の髪と整った顔立ち健康的な肌色と大きな瞳が優し気に細められている。紺色地の2本の白線の入ったスカーフに白いシャツ。セーラー服にしては珍しい前をボタンで留めるシャツタイプ。白いラインの入った紺色のゴアードスカート。その裾から白く綺麗な足が伸びている。 

 天宮夕陽。16歳。2000年10月11日生まれのてんびん座。血液型は、A型。株式会社ブルーレファレンス社長、青木智晴氏の一人娘。

 集中して目を通していた一哉は、その部分を読み、眉をひそめた。そこに漬け込むように徹が声をかけたのはその直後だった。

「株式会社ブルーレファレンス。高度経済成長期に力をつけ、バブル崩壊の波も退けたこの国の5本の指に入る大企業。コンビニ経営からIT、人材派遣、電力、様々なものに幅広く業務を行い、最近では、政界とのかかわりも持ち始め国に影響を及ぼす企業にまで成長した会社だよ。」

「説明どうも……それで?俺への依頼は、その社長の娘さんの護衛?それとも……」

 一哉は資料の重要な欄が空白であると指摘するように、目の前に座る徹に見えるように突きつけながら問いを放った。

「護衛だとも。彼女の父親は娘愛が強くてね。危険にさらされることを恐れて、旧姓を名乗っているほどだ。その娘が親元を離れての暮らしをするに際して、護衛を出してほしいとのことでね。」

娘愛って……そんなことをつぶやきそうになりなったが口を噤んだ。それというのも

「徹様、娘愛などと誤解されかねない単語を出すのは、どうかと思いますが……」

後ろに立っていた秘書の女性が、徹の言葉に横槍を入れた。

「大切な依頼人を“親馬鹿”とは、呼べないからねー」

そういって徹は苦笑い浮かべた。

「それでは、過保護でよろしいのでは?」

「社長令嬢であることを隠して生活させている以上、過保護とはいいがたいからね……」

もはや徹の発言が屁理屈じみてきたところで、一哉は尋ねてい事を口にした。

「そういえば、えっと……そちらの秘書さんは……」

「お?まだ、紹介していなかったね。こちらは……」

そういって、左手を上げて女性の方を示すと、徹が口を開く前に、

「旧姓、金桐 葵です。」

金桐と女性は、名乗った。しかし、最初にわざわざ旧姓をつけているところで、なんとなく察しがついたが一応という気持ちで口を開く

「旧姓……ですか……」

「はい。今は杉下葵と名乗っています。」

一哉の問いかけに事務的な声が返ってきた。

「やっぱりですか……じゃ、つまり……」

そういいながら目の前に座る徹とその左後ろに立つ葵の左手薬指に目を向ける。装飾の少ないシンプルなシルバーリングがはめられていた。  

 工作員とオペレーターでは、よくあることで気にせずに先を促すことにした。

「でしょうね。じゃ、これからよろしくお願いします。」

そういって、一哉は右手を差し出した。一瞬疑問符を浮かべたような顔をした葵もすぐにその意図を察して右手で一哉の手を取り握手に応じた。

「夫の前で、人妻の手を握るとは、君もなかなか肝が据わっているね。」

徹はニヤニヤとしながらこちらを見ていた。それに反論する気も起きず黙っていると葵が一言。

「社交辞令です。」

 徹が頭をボリボリと掻きながら冗談が通じないなという顔をしていたが、気にせず話題を戻すことにした。

「で、杉下支部長。今回の護衛任務の詳細を聞いてもよろしいですか?」

そういうと、徹は小さく頷くと話し始めた。

「君には、4月25日から私立山澄学園の2年D組に転校し、24時間体制で天宮夕陽の護衛及び、監視の任務に就いてもらう。もうすでに転入の手続き、彼女の部屋の隣への入居の手続きは済んでいる。期限は、卒業まで。長期の任務となる。」

 黙って聞いていたはいいが、この人は、俺が断った場合を考慮してなかったのか……と内心ぼやきつつも次の質問をぶつけた。

「監視・護衛ですか。それならここにそう書けばよかったのでは?」

一哉は再び仕事の業種の書かれているはずの空欄を示し尋ねた。

「まぁ、そこはこちらのミスだね。深い意味はないよ。」

そう答えながら徹は、フッと不敵な笑みを作った。

 深い意味はないというときほど何か、とんでもない思惑があるというのは、よくある話だ。少しきな臭さが出てきた。が、今は話を進めることにして、徹に話の再開を求めた。

「今日が4月20日だったね。3日後に引っ越しを手配してある。それまでに、まとめておくように。入居は24日。制服と教科書は、その日に届くようにしてある。その他に必要なものがあれば随時申請してくれ」

 大分突然のような気はしたが、まとめる必要があるほど今の家。いわゆる社員寮には荷物はなかった。もともと移動が多いこともありかなり身軽だ。

「ま、いつも通りですね。地図等はありますか?」

「ん。地図だね。用意させよう。後程部屋の鍵と一緒に君の部屋に届けさせるよ。」

「今回の仕事は何人で行っているか、聞いても?」

「ああ、勿論。君の同居人。疑似家族として、君のオペレータの梓紗くんと、その夫、義政くん。今回は君と同じ篠田の姓を名乗ってもらう。あとは、クラスメイトにG.21とI.9を一年前から任務に就かせている。」

「そうですか……G.21ってことは、武斗ですか。」

「相棒と一緒の方が心強いだろ?」

ふふっと楽し気な笑みを浮かべる徹と、対照的にまたかという顔をする一哉。

 武斗は、武闘派なGの中でも体術は3本の指にも入る強者だが、このランクに固定されているのは、明らかな知能の低さが原因だろう。人の心は理解できても勉強ができないタイプの人間で、相棒というよりは腐れ縁というものだろう。だが、一哉の最も信頼している人物でもある。

「聞きたいことは、以上かな?」

黙って、思案していると徹はそう尋ねてきた。部屋の中に沈黙の時間が流れ口を開いた。

「なぜ……この仕事を俺に?」

 瞬間部屋の空気が凍り付いた。何の気なしに口からこぼれた、いつも抱く疑問。しかし、この質問をするのはこの仕事で、初めてだった。それを聞かないのは暗黙の了解であるとわかっていながら聞いたのは、この仕事の怪しげな匂いを本能がかぎ取ったからかはたまた、気まぐれか。どちらにせよ無意識にこぼれていた。それに気が付き、一哉はバッと立ち上がり

「すいません。忘れてください。」

といって、頭を下げると無言のまま扉の前へ歩き出す一哉を徹は目で追った。一哉が扉に手を掛けたときようやく徹は口を開いた。

「君が適任だと思ったからだよ。君は考えてくれるだろう。私の思惑を……」

一哉は振り返り、徹を見つめ返す。その瞳には、微かに困惑の色が見て取れる。そんな一哉に徹はまたも不敵な笑みを浮かべ

「思い悩め、考え続けろ少年。青春はそのための時間なのだよ。」

再び沈黙が流れ、

「君の答え聞ける日を楽しみにしているよ。一哉君」

そう言って、徹は立ち上がり、一哉に歩み寄ると、右手を差し出した。その威厳ある姿に一瞬見惚れる一哉は、一瞬遅れて右手を差し出した。その手がぎゅっと握られる。

「これからよろしく頼むよ。」

そういって徹は、穏やかにほほ笑んだ。

「……はい、よろしくお願いします。」

正面から見つめあって数秒ようやく手が離される。そのタイミングで、

「それでは、失礼します。」

そういって、一哉は半身で、重みのある扉のドアノブに手を掛けると、それを回し押し開く背中越しに「いつでも来たまえ。」という徹の声が聞こえたが一哉は無言のまま、スルッと扉の隙間をくぐった。


 ふーっと大きなため息を一つ吐き出し、肩の力を抜く。閉まった扉に背を預け寄りかかって、数秒間目を閉じ、耳を澄ませると、中の話し声が微かに耳に入った。


 一哉が出ていった部屋に一瞬、静寂が流れた。

「何か……怒らせるようなことを言っただろうか……」

 静かな部屋に徹の一言が響き渡り、事務仕事に入ろうとしていた葵が一瞬手を止めてそれに答えた。

「いいえ、おそらく自分の発言を恥じたのでは?」

「まぁ、彼の疑問は今回に関しては、至極当然なものではあるから、こっちとしても答えたのだけれどね。」

「例の件、依頼主の意向にそっているとは、言い難いのですが……あれでよろしかったのですか?」

その葵の問いかけに、徹はフフと微かに笑うだけで、何も答えなかった。その反応を見て、何も答える気がないことを悟った葵は事務仕事に戻った。


 一哉は、聞き耳の甲斐なく、尻尾をつかむことができなかったことに内心で舌打ちしつつ、扉から体を離し歩き始める。一哉は歩きながら、一秒でも早く重圧から逃れたいともがくようにネクタイを緩めた。


 再び静かな廊下にカツカツという足音が木霊した。その静寂に響く足音は、彼に言い知れぬ不安を与えた_____

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