執事がいっぱい
福北太郎
執事がいっぱい
「おはようございます、お嬢様」
ウェントワース領主令嬢、ジャニス・ウォルターズの朝は優雅に始まる。
執事のルーファスがシルクのカーテンを開けると、柔らかな日差しが室内を照らし出す。ベッド脇に用意された紅茶は、香りからしてアールグレイだろう。
「ん、おはよ。ルーファス」
「モーニングティーをご用意しております。お召し替えのご準備を」
ジャニスはゆっくり起き上がりながら、背伸びをした。貴族のお嬢様にしては少々みっともないが、どうせここにはルーファスしかいないのだ。ついでに小さく欠伸を漏らすと、あちこちに飛び跳ねていた鳶色の髪を手櫛で整える。
やがて寝ぼけ眼をこすり、ジャニスは――愕然とした。
「な、何よ、これ!」
思わず叫んでしまったのも無理はない。彼女の目の前には、山ほどの執事があふれていたのだ。
そのうちの一人がベッドの上に腰かけると、にこやかに微笑みかけてくる。
「おはよ、お嬢様」
「え、ええ?」
ジャニスが目を白黒させていると、執事たちは皆、彼女が目を覚ましたことに気付いたのか、丁寧に挨拶をしてくる。
「おはようございます、お嬢様」
「よ。目え覚めたか、お嬢」
「……おはよう、ございます」
「な、なな、いったい、なんで」
いったい、何が起きたのだ。
完全にパニックになっているジャニスを後目に、横でルーファスはこらえきれないといった様子で笑っていた。
「まあ、とりあえず落ち着いてくださいよ。お嬢様」
そう言って、ルーファスは白地に青の唐草模様の入ったティーカップを渡してくる。ジャニスがつい習慣で受け取ってしまうと、そこへモーニングティーが注がれていった。
それをすすりながら、ジャニスは現実を直視する。
二十はくだらない数の執事達が、花瓶の水を換えたり、窓ガラスを磨いたり、各々の仕事をしている。もちろん我が家にこんなに執事はいないはずなのだが、彼らの方はさも当然といった様子で作業を続けていた。
ジャニスを軽いめまいが襲った。
「私はまだ夢を見ているの……」
「現実です。しっかりしてください」
「だって、ルーファス。目を疑いたくもなるでしょ。か、仮にもレディーの寝室に、ノックもなしに……」
そう、いくら多少男勝りで有名なジャニスとはいえ、十六の乙女、それも子爵の位を戴いている身だ。それ相応の立場でなければ、入室すら認められないはずなのに、この光景はいったいなんなのだ。
本来ならそれを咎めるべき立場のルーファスは、いたって平然とティーポットの口を拭き上げていた。
「彼らは今、執事見習いですからね。バトラーはノックをしなくても入室できるのはご存じでしょう」
「執事見習い?」
その言葉に、ジャニスはふとひらめく。おぼろげな記憶が、少しずつよみがえってきた。
「ああ、そうか――もうそんな時期なのね」
自分の想像にジャニスが重々しくため息をつく。それと同時に、勢いよく扉を開けて一人の男が登場した。
「おはよう! 今日も元気かい、我が愛しのジャニス」
金の髪をたなびかせ、全身から馬鹿馬鹿しさをただよわせながら現れたのは、ジャニスの父、トリスタンだった。黙っていればかなりの美男子なのに、口を開くとしょうもないことしか言わない残念な男だ。
「父様のせいでたった今、元気がなくなりました」
「照れ屋さんだな、ジャニスは。しかし実の娘すら魅了してしまうとは――ああ、美しさとは、罪」
「帰れ!」
ジャニスの怒声すら気にせず、トリスタンは髪をかき上げる。
「それよりどうだい、ジャニス。今年も素敵な若者をいっぱい集めてみたよ。お前が気に入った者を、好きに選ぶといい」
「……あのねえ、父様」
そう、実はこれは毎年のことなのだ。
ことの始まりは、ジャニスが五歳の誕生日を迎えたとき。「一流の貴族は、一流の使用人に囲まれて育つべし」というまったく意味のわからない父の考えのもと生み出されたのが、この馬鹿馬鹿しい程大げさな、ウォルターズ家使用人選抜試験。
毎年冬になると、この阿呆親父は領地中から元気な若者を集め、使用人見習いとして屋敷で働かせる。
一ヶ月の試用期間の内にジャニスに気に入られれば、その場で即採用というかなり美味しい企画なのだが、それに対して応募資格はたったの二つ。このウェントワースの領民であること。そして元気な若者であること。その二つさえ揃っていれば誰でも可能ということで、毎年百近い応募が殺到する。
応募の段階で数名に絞り込んでしまえばいいものを、何故かそれを全て受け入れてしまうため、屋敷はパンク状態。地元でも、各地から腕自慢の若者が押し寄せるため、便乗して露天や旅芸人が増え、ちょっとしたお祭り扱いだ。
ちなみに募集職種は毎年違う。去年は大工で、その前は料理人、さらに前は庭師と様々だが、経験未経験を問わないせいで、毎年参加する常連のような者までいる。例えば、ルーファスもフットマンの回で採用した口だが、彼はその前の家庭教師や吟遊楽士の回にも顔を出していた。
もちろんそれで良い使用人と巡り会えるのならばいいのだが、大概はそうでもない。ずぶの素人が一月そこらで技術を体得できるわけでもなく、多くの参加者がわずかばかりの給金を受け取って、故郷へ帰っていくのである。
まあ、彼らの全員が屋敷での就職を目指しているわけではなく、短期労働と割り切っている者も多いらしいので、それは構わない。
むしろ構うのは雇う側、ウォルターズ家の方だ。たった一月とはいえ、例えば今回なら、参加者への給金、寝食代、執事服、その他仕事で使う諸々の備品、彼らに仕事を教える職人たちへの給金――それはもう、半端ない経費がかかっているのである。
おかげで我がウォルターズ家は常に財政難。腕の良い家令のやりくりと、先祖代々引き継がれてきた莫大な遺産、そして献身的で心優しい領民達からの多大な税、この三拍子揃ってなんとか保ってきたのである。これのどれか一つでも失えば、即刻破産は免れないだろう。
「父様、毎年言ってるけどね」
「ん?」
「無駄なのよ、やり方が! なんで百人単位で呼ぶのよ、多いわ、制限しなさいよ!」
「なんでって」
トリスタンは何故そんな当たり前のことを聞くのかとでも言いたげに、首を傾げた。
「人は大勢いた方が派手だし、楽しいだろう?」
「阿呆か!」
この派手好きめ、お祭り大好き人間め。代々続くウォルターズ家をつぶすのは、きっとこの男に違いない。
「わかんないわ。なんでこんな阿呆が領民には大人気なの? 理解できない。顔か? やっぱり人間顔なのか?」
「本音が漏れていますよ、お嬢様」
「とにかく!」
ジャニスはベッドから起き上がると、トリスタンの顔めがけて、びしっと指を突きつけた。
「今度という今度は許さない。絶対にこんな企画、やめさせてやるからね、父様!」
「人の顔を指さすのはやめなさい、失礼だよ。それに――」
トリスタンは、わずかに顔を赤らめて言った。
「若い娘が、いつまでもそんな寝間着でいるのは、父さん感心しないな」
ジャニスの拳がわなわなと震える。トリスタン以上に全身を真っ赤にし、ジャニスは叫んだ。
「今すぐ全員出てけ!」
***
「はあ。これから一ヶ月、こんな生活が続くのか」
「お気の毒です」
「だからルーファス。なんだって、あんたはいつもそんな他人事なのよ」
あの後、着替えて朝食を済ませたジャニスを待っていたのは、仕事の山だった。
女とはいえ、領主のたった一人の子供であるジャニスは、次期領主として世襲することが決まっていた。これから父と母の間に男児でも生まれれば話は違うのだろうが、一向にその気配もなく、領主としての仕事を父から受け継ぐ日々が続いている。
本業はコックだという執事見習いが淹れたハーブティーを飲みながら、ジャニスは羊皮紙にサインをしていく。柑橘系の香りが強く主張しすぎているが、たまにはこんなのも悪くない。
すると、部屋に子供が二人入り込んできた。二人とも執事服を着ている。彼らもまた今回の選抜の参加者というわけなのだろう。
「こんにちは、おじょうさま」
「こんにちは。って、随分小さいわね。あなたたち、いくつ?」
「さあ? オレたちっていくつなの?」
「いくつって何? 美味しいの?」
――こ、このがきんちょ。
おちょくられたと思い、拳を握りしめるジャニスの横で、ルーファスは冷静に告げる。
「お嬢様、この子達はおそらく裏町の子供です」
「裏町?」
「彼らのほとんどは戦争孤児ですし、親の顔すら知らない者も多いです。きっと、自分の年齢も知らないのでしょう」
そうか。確かに、幼い頃に親と離ればなれに育てば、生まれた日を知らなくてもおかしくはない。ジャニスは無粋な質問をした自分を、こっそり反省した。
そこへ、一人の子供が満面の笑みを浮かべながら近づいてくる。
「おじょうさま、あのね、ひつじのしごとはね」
「馬鹿、ひつじじゃねえよ。しつじだよ」
「そっか。えっとね、しつじはね、おじょうさまを喜ばせなきゃいけないんだって。だから、おじょうさまにプレゼント!」
「え、私に?」
少年は両手で包んだ状態で、プレゼントを差し出してくる。彼らの気遣いが嬉しくて、ジャニスは快く手を伸ばした。
「あ、お嬢様、それは!」
「え?」
ルーファスの言葉に、ジャニスは一瞬ためらうが、時すでに遅く受け取ってしまった。手に生暖かい感覚が広がっていく。その茶色い物体に、ジャニスは一気に血の気が引いた。
「こ、これは――」
「馬のフン」
子供達が一気に爆笑した。
「やーい、ひっかかった」
「おじょうさま、うんこー」
「うんこー」
それ退散と子供達が逃げ出していく。怒り心頭のジャニスは、がむしゃらに彼らを追いかけた。
「こ、このクソガキども! 待ちなさい、ぶっ飛ばしてやる!」
その後を、やれやれと肩をすくめながら、ルーファスが追いかけていった。
***
その後も執事たちは、かわるがわるジャニスの前に現れた。なにせ、ジャニスに気に入られれば、それだけで高給取りになれるのだ。競争相手が多いことも手伝い、頭のてっぺんから爪の先まで、過剰なサービスを提供してくる。
だがジャニスからすれば、それははた迷惑な話だった。というか、散歩前の靴を懐で暖めておくのは、もはやサービスとは言わないだろう。
まとわりついてくる彼らをふりきって、ジャニスは幽霊のような足取りで廊下を歩いていた。
「も、もう限界だわ。あの阿呆親父に直訴してやる……」
「お嬢様、すごい顔ですよ」
「これが怒らいでか! 毎度毎度、あの万年お祭り野郎は人の迷惑も考えず、好き勝手ご覧遊ばして!」
「訛りもひどいことになっています。もう少し落ち着いてから行かれた方がよろしいかと」
「いいや、私は行く。もう無理、限界」
こうなってはもはや誰にも止められまい。引き留めるルーファスを背に、トリスタンの部屋に勢いよく乗り込んだ。
「父様! 話があるの、ちょっと面貸しなさ――」
しかし、最後まで言い切る前に、ジャニスは視線を止めた。
中央のテーブルで、トリスタンと家令が話し合っていたのだが、ジャニスの姿を見るなり、とっさに父が何か隠したのだ。
「や、やあ、ジャニス。どうしたんだい、突然」
「父様、今何隠したの」
「え? 何も隠してなんて――あ、やめなさい、ジャニス!」
トリスタンの背後に回り、ジャニスは薄い本のようなものを奪い取る。それはウォルターズ家の帳簿だった。
ジャニスは数枚めくり、そして、最終行の文字に目を止めた。
「何これ。エステルの涙、売却……?」
徐々に青ざめていくジャニスの問いに、トリスタンは顔を伏せた。
エステルの涙はウォルターズ家の初代が昔、戦で瀕死だった王を救い、下賜された青い宝玉の付いた首飾りだ。それはウォルターズ家当主の証であり、家宝であり、王との友情の証。それがなぜ、売りに出されているのだ。
「どういうことよ、父様。説明して」
「お嬢様、それは……」
「ルーファスは黙ってて」
父は顔を伏せたままこちらを見ようとしない。怒りにも似た感情が、ジャニスを支配していく。
「そんなに家は切迫してたの? 家宝を売り払わなければいけないほど、お金がなかったの? なら、どうして!」
「落ち着いてください、お嬢様」
「邪魔しないで!」
ジャニスはルーファスを振り切り、父に詰め寄る。
「ねえ、教えてよ。どうして、相談してくれなかったの。ううん、それならまだしも、どうして使用人を呼ぶのをやめなかったの。それさえなかったら、ここ数年はしのげるだけの蓄えがあったじゃない。今からでもいい。お願い、やめて」
「ジャニス……」
しかし、トリスタンは目をそらす。
「私は、あの試験をやめるつもりはない」
「父様!」
「お前がなんと言おうとだ。一度決めたことだ。絶対に覆さない」
「……父様の意地っ張り、分からず屋!」
そう叫ぶと、ジャニスは部屋を飛び出した。
「お待ちください、お嬢様!」
屋敷から五百ヤードほど離れた川べりに、ジャニスは座り込んでいた。背後から、追いついたのであろうルーファスの気配がする。
「こんな所にいては、冷えてしまいますよ」
「いいの。ちょっと……頭を冷やしたいから」
ふと、肩に柔らかい暖かさがふれた。見上げるとルーファスの上着がかけられていた。
「お供します。私は、お嬢様に選ばれた執事ですから」
「ルーファス……」
再び川の方を見つめると、ゆるやかに風が吹く。ぽつり、とルーファスが口を開いた。
「お嬢様。旦那様を責めないであげてください。旦那様は、自分から説明するのがお嫌いなだけなのです」
「わかってる。ううん、わかってるつもり」
ルーファスは苦笑して、ジャニスを見つめた。
「何故使用人を冬に集めるのか、ご存じですか」
「え?」
「ウェントワースの領民はほとんどが農家です。冬には作物も育たず、多くの者が夏の間の蓄えで冬を過ごすのが精一杯。幸いこの地は比較的暖かく、そうそう凍死者が出るわけではありませんが、それでも彼らにとって冬はつらいだけの季節」
「うん……」
「旦那様はずっとそのことを悩んでいたそうです。領民全員を屋敷で働かせることは不可能だし、かといって農作業に変わるような産業もない。冬の間どうにか仕事をさせられないか――そう考えて思いついたのが、あの選抜試験なのだそうです。あれはただ屋敷の使用人を選ぶものではなく、冬の間仕事のない領民達を受け入れ、様々な職種の訓練を施すものなのですよ」
ルーファスの言葉にジャニスは、ハッと顔を上げた。
「訓練?」
「ええ、私もあそこで様々なことを学びました。物書きや言葉遣いに始まり、立ち居振る舞い、乗馬訓練、金銭計算や貴族との接し方――初日に、お嬢様に馬のフンを渡してきた子供達がいたでしょう? あの子達はその一日だけで、敬語の使い方や貴族の生活様式など、普通に生きていくだけでは決して得られなかった知識や経験を得たのです。それは今後生きていく上で、あの子達の大いなる財産になる。そして、あの子達が育つことで、彼らはウェントワースの財産になるのです」
「ウェントワースの財産……考えたこともなかった」
呆然としながらジャニスは、肩にかけられた上着を強く握った。
「旦那様がお嬢様に使用人を選抜させているのも、できるだけ多くの領民を目にして頂きたかったからなのです。彼らがどんな人間で、どんな生活をして、どんな考えをしているか。領民を知らぬ者に、領主はつとまりませんから」
ジャニスは、つぶやいた。
「……悔しい」
何も知らなかった――知ろうとしなった幼い自分が、ひどく恥ずかしい。
「伊達や酔狂だけで、家宝を売るわけないのにね。私、そんなことにも気づかないで、父様に八つ当たりしてたなんて……すごく悔しいの、ルーファス」
「ええ」
ルーファスは慰めない。ただうなずくだけだ。その厳しさが、ジャニスには嬉しい。
ふと、風に乗って、背後から呼ぶ声がした。
「お嬢様、いらっしゃいますか!」
「帰ってきてくださーい」
執事見習いたちが、屋敷の方から何人もこちらへ向かってくる。心配して、探しに来てくれたのだろう。
ジャニスは立ち上がり、服に付いた泥を払うと、腕を組んだ。そのまま数秒考え込むと、真剣な表情でルーファスに告げた。
「ねえ、ルーファス。ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだけど」
***
ジャニス達がようやくウォルターズ家に帰宅したのは、もう日も暮れようかという時刻だった。
「ただいま……」
「ジャニス!」
屋敷の扉を開くなり、現れたのは父トリスタンだった。
「わ、ちょっと、抱きつかないでよ、気持ち悪い!」
「父さんが悪かったよ、ジャニス。良かった、帰ってきてくれてえ」
「泣くな、大の男がみっともない!」
鼻水まで垂らしそうな父親を、ジャニスは素早く引きはがした。
「まったく、どんな顔して帰ればいいか悩んでた自分が阿呆みたいだわ」
「ああ、門の前でうろうろしてると思ったら、そんなこと考えてたんですか」
「うっさい、ルーファス」
ジャニスはため息をつくと、父に微笑みかけた。
「ごめんね、父様。私、カッとなって言い過ぎたわ」
「いいんだ。私の方こそ、意地を張ってすまなかった。……でも」
「試験をやめる気はないんでしょ。わかってる」
「ジャニス……」
目を潤ませながら、トリスタンは感動しているようだった。
「ね、父様、手を出して」
「うん、なんだい?」
ジャニスがゆっくり手を開くと、父の手に小さな首飾りがこぼれ落ちた。青く輝くそれは、まごう事なきエステルの涙だった。
「ジャニス、これは……」
「お詫びの印」
「お詫びって。どうしたんだ……そんな簡単に取り戻せるものじゃないだろう。金は? 持っていたのか」
「そんなわけないでしょ。金がないから売っ払ったんでしょうに」
「じゃあ、どうやって――ま、まさか!」
「え?」
「いけない、ジャニス。その若さで身を売るなんて!」
全く見当違いの発言に、ジャニスは全身から力が抜けた。
「阿呆か! ――私はね。身体を売ったんじゃない。人手を売ったのよ」
「人手?」
「エステルの涙を買った貴族に、契約を持ちかけたの。『エステルの涙を返して欲しい。その代わり、ウォルターズ家は向こう五年間、若くて健康な労働力を低価格で貸与する』という、いわゆる派遣契約ね」
「派遣……」
「人を育てたら、今度は働く場所が必要になる。今回はそのお試し版というところね。まあ、細かい契約内容は、ほとんどルーファスに考えてもらったんだけど」
ルーファスは無言で、深くお辞儀をする。執事たる者、かくあるべし。
「それで、うちで働いてた執事見習達に話したら、快く承諾してくれたわ。ねえ、みんな」
ジャニスが振り返り問うと、後ろに控えていた執事見習い達は、皆一斉にうなずいた。
「ええ。もちろんですとも、お嬢様」
「まかせとけって。お嬢と旦那のためなら、そのくらい何でもねえよ」
その言葉に満足し、ジャニスは再び父に向き直る。
「ま、夏場の農作業が忙しいときに駆り出されちゃうのは厳しいけど、その辺りは分業して――父様?」
しかし、言葉は最後まで続かなかった。俯く父の表情に、いつになく真剣なものを感じたからだ。なまじいつもがおちゃらけてるだけに、その落差につい一歩引いてしまう。
「あ、あの、ごめんなさい。父様が領主なのだから、勝手にウォルターズ家の名前を使って契約するのはまずいかなとは思ったのだけれど……その」
「ジャニス」
「……はい」
ジャニスに向けて、トリスタンが手を伸ばす。一瞬、殴られると覚悟したジャニスは、わずかに身体を硬直させた。だが、父の手はジャニスを殴ることなく、彼女の目の前で開かれる。そこには父に返したはずのエステルの涙があった。
父の意思を問うように、ジャニスは顔を上げる。
「これはお前が自分の手で取り返してきた物だ。お前が持っていなさい」
「父様。でも、これって当主の証じゃ――」
「そうだよ」
トリスタンは、満面の笑みを浮かべた。
「お前の好きにやるといい。我が愛しの娘」
「父様!」
ジャニスはトリスタンに抱きつく。
「ありがとう、父様! 大好き!」
すると、いきなりトリスタンがよろめいた。
「……今なら天国に行けるかもしれない」
「え、なんで?」
「ジャニスが、私のジャニスが大好きって――!」
「勝手に行ってなさい」
***
それから一ヶ月が過ぎた。
結局使用人は一人も雇えなかった。雇えるだけの手持ちがなかったのだ。それでも誰一人文句も言わず、皆笑顔で帰っていってくれた。本当にウェントワースは民に恵まれていると思う。
十人、二十人と帰っていき、とうとう最終組の帰宅となった。門の前で、ジャニスとルーファスは彼らを見送る。
「これまで大変お世話になりました。お嬢様」
「ありがとう。この一月、あなた達には随分助けられたわ」
「なあに、こっちだって住み込みで仕事教わって、おまけに給料までもらえんだからな。むしろ、オレ達の方が感謝したいくらいだぜ」
「ええ、旦那様やお嬢様から頂いた恩は、そうそう返しきれるものではありません」
「僕、また来るよ。ここのお菓子、すっごい美味しいし」
ジャニスは微笑む。参加者の中でも、この最終組の面子とはすっかり仲良くなってしまった。故郷が遠方の人間は優先的に先に帰してきたのだが、彼らの方から最後まで残ると言い出してくれたのだ。
「来年か。――ま、お嬢はそれまでに結婚相手くらい見つけとくんだな。もう十六だろ。さっさとしないと売れ残るぞ」
「うるさいわね、余計なお世話」
そのやりとりを眺めながら、ふとルーファスが何でもない雑談のようにつぶやいた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。いざとなったら、私がおりますから」
「え」
ジャニスは言葉の意味を理解して、ルーファスを見る。心臓が鼓動を高めていく。
視線がかち合うと、ルーファスは微笑んだ。
「な、なな、何よ、それ」
「お嬢様、顔真っ赤だよ」
「牽制か。意外に独占欲が強いな、ルーファス」
周りが笑いながら、囃し立ててくる。
「な、あんたたちも何言ってるのよ! 私とルーファスはそんなんじゃ――もう、さっさと帰りなさい!」
「あはは!」
破顔しながら彼らは去っていった。屋敷の前で、ルーファスと二人立ち尽くす。
「まったく……寂しくなるわね」
「また会えますよ」
「そうね」
また来年。それまでにやることは山積みなのだ。
領主の仕事の引き継ぎも終わっていないし、派遣事業もまだまだ梃入れしなければいけない。軌道に入るには、しばらく時間がかかるだろう。資金の問題だってまだ解決したわけではない。事業が成功する保証もない。
けれど自分には、馬鹿だけど聡明な父がいる。善良で優しい領民達がいる。――そして、いつでも自分に付き添ってくれる自慢の執事がいる。
だからきっと、大丈夫。
ジャニスはきびすを返すと、屋敷の中へと歩を進めた。その後ろを、彼が何も言わずに追いかけてくれる。
「ね、ルーファス」
「はい」
ジャニスは振り向きざま、ドレスを翻して、笑った。
「久しぶりにあんたの淹れた紅茶が飲みたい。もちろん、ミルクはたっぷりね」
ルーファスは頭を下げた。大仰に、しかし完璧な所作で。
そして、執事はこう言うのだ。
「かしこまりました、お嬢様」
執事がいっぱい 福北太郎 @hitodeislove
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