5.上司

 コウが帰ってくるまで、前田さんといろんな話をした。


「移住準備室って、設備係の皆さんが兼務されるんですか?」

「全員じゃないけど、大体はね。小野さんは『また息子の部下になるのか』って言っていたけど、実は『自分だけじゃ抱えきれないから』って準備室設立の提案をしたのは小野さんなんだよ。これって結構凄いことなんだ。他の総合職は大抵、自分の成果のために無駄に色々抱え込むんだけど、小野さんは手放して人を立てる勇気がある。そういう人って、言っちゃ悪いけど出世は遅いかもしれないけれど、俺は尊敬しているよ」


 ああ、小野さんってそういう感じの人だよな。


「前にちょっと設備係にお邪魔した時、庶民の想像とは違って、なんか、和気あいあいとしていて楽しそうな職場だなーと思ったんです。あれも小野さんの人徳なんですかね」

「だろうね。前はもっとピリッピリしていたからね、ホラ係長が怖かったから」


 そう言って窓の外を指差す。

 いつの間にか家の前に来ていた元鬼係長は、ちびっこを両腕にぶら下げて、にこにこしながら振り回していた。


「俺、準備室には行かないんだ」


 唐突に、前田さんが意外な発言をした。

 人事部に行くなと言われても食いついてついていく印象があったんだけど。


「地上の移住なんて、そりゃ魅力的な仕事だよ。成功すれば評価も上がるだろうし。でも、実際東京中の人が地上に移住するまでには何年もかかるだろうし、その間地下で生活する人を見捨てるわけにいかない」

「まあ、そうですね。地下に潜った時と違って強制的に移住させるわけじゃないですから。やっぱりある程度経済的に余裕のある人から移住するんでしょうね」

「その通り。最後まで地下に残るのは、汚染物質にさらされながらも地下で生活せざるをえないような人達。だから俺は、コウさんがずっと調べていて、やっと原因が分かりかけた、あの汚染物質の除去の担当になる」


 そこで前田さんは表情を曇らせた。


「俺、S区の出身なんだよ」


 S区の出身。

 その言葉の意味するところは、「庶民」ではない。コウは、前田さんのことを話した時、穏やかな表現に脚色していたんだ。

 それは確かに……山の手出身の人に囲まれたら、色々言われることだろう。


「入社当時さ、俺がS区を変えてやるくらいの勢いでいたんだよ。そうしたら直属の上司だって紹介されたのが、自分より思いっきり年下の、お人形みたいなやつだったじゃん、もうがっかりなんてもんじゃなかったよ。しかも非常勤の管理品で、しかも口調だけは丁寧なのに毎回仕事ではぼっこぼこにされるし。だけどS区の事を一番気にかけてくれて、改善への道筋を作ってくれたのは他でもないその人でさ。もっと予算を回せ、もっと真剣に考えろって部課長相手に食ってかかっているのを見ていたらまあ、この通り思いっきり惚れちゃったんだよ……あ、北山さん大丈夫だよ、そういう意味じゃないから」

「分かっていますよ。でも前田さんがライバルじゃ、なんかいまいち勝てる気がしないです」


 そんな話をしていると、玄関の方が騒がしくなった。


「あ、前田さん、いらしていたんですね。少しお待ちください……ほらーこれが新しい制服だよー!」


 コウは玄関先に押し寄せているちびっこ達に、真新しい管理職用の制服を掲げて見せた。


「あー、これ、よくここに来ているおっさん達が着ているやつじゃん! だせー、変なのー!」


 ちびっこ達の遠慮のないコメントに、前田さんの眉がぴくりと動いた。


「でねー、これが今まで着ていた古いやつー!」

「上着ねーのかよ、しょぼいなー!」


 係長の制服を「しょぼい」と一蹴され、前田さんは微笑を張り付かせたままその場を動けなくなっていた。




 結局、せっかくの休日は、ちびっこと前田さんに取られてしまい、コウと一緒にいられる時間は殆どなかった。

 もうすぐコウはこの家を出て行く。そうなったら二人の時間はもっと少なくなる。あたしは、一人きりのこの家で、また暗闇や静寂と闘わねばならない。

 それが「当たり前」なのは分かっている。昨日のおばちゃんみたいな変な勘ぐりをする人だっているわけだし。

 でも。


「――あ、お客さん来たよ。十一時だからえーと人事部長か」


 秘書と部下を連れた人事部長を出迎え、お茶を出してあたしはリビングから出た。

 今は寂しいなんて言っていられない。休日は終わったんだ。ちゃんと支えないと。


 午後の予定を確認し、昼食の下ごしらえをしようと台所に立った時、いきなり玄関のドアが開いた。


「失礼ですが、どちら様ですか?」

「コウはどこだ!」


 呼び鈴も押さずに玄関に入って来た、係長の制服を着たその人は、挨拶もなしに叫んだ。


「北山でしたら、今、人事部長と……」

「こっちか!」


 人の話も聞かずにリビングへ入り込む。


 なんだこいつ。コウのこと、名前呼び捨てだ。

 他の人は大抵「北山さん」「北山君」と呼んでいる。設備係の人たちは、親しみを込めて未だに名前で呼んでいるけれど、なんだろう、この人の名前呼びには悪意を感じる。


「コウ! てめえ……」


 そいつはリビングに入るなりコウの胸倉を掴んで怒鳴りつけた。


「市民権を認めてやった途端にふざけたことやらかしやがって、何様のつもりだてめえ!」


 そう言うなり、人事部長の目の前でコウに殴りかかった。


 コウはその拳を易々と受け止めた。


 受け止めた拳を、汚いものに触ったかのように払い落す。そいつにはそれが意外だったらしく、目を剥いてたじろいだ。


「私は仕事に私怨を持ち込むことはありません」


 コウの口調は丁寧だが、係長のそいつはコウの目に射すくめられ、その場から動けない。


「だからただ、自分の仕事をした。それだけです」


 そう云って人事部長に一瞬目を向け、またそいつを見据えてにっこり笑った。


「てめ……」

「人事部長の前ですよ」


 何かを言い返そうとしていたそいつに向かって、コウはそう言って座り直した。


「ミキさん、今日、お客様がお見えにならない時間帯ってありましたっけ」

「十五時から十六時です」

「ありがとうございます。……とのことです。十五時にもう一度お越しいただくか、もし部長がよろしければ一緒にどうぞ。どうせ例の件でしょう」

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