第16話 バーニャカウダ

 明けて木曜日。果たして藻原さんがちゃんと出社してくるか。昨日の専務の話よりもそっちの方がずっと気になった。


 専務の告白は確かに衝撃的だったけど、俺がそこからまなければならないことはそんなに多くない。それがどんな事情であっても、結局彼女の感情や行動のブレーキになってるのが専務だってことを確かめられただけだからだ。

 そして、専務の話は全て専務の立場から出たもので、彼女が実際にどう考え、どう行動しているかの解明にはちっとも繋がらない。社内に充満している無責任な噂話とそれほどレベルが違わないんだ。極端に言えば、そんなのどうでもいい。


 親父さんがブレーキになってるなら、それをどうやってどかすかを考えなければ先がないし、昨日の専務との話し合いで活かせるのはその部分だけ。感情を安定させるなら、一番いいのはストレッサーの父親がいる家を出て自活することだと思うんだけどね。専務がそれを拒んでいるのか、それとも彼女の方が踏ん切りが付かないのか。俺にはその辺りのことが分かんないからなあ。


 まあ、いいや。とりま、今日明日の予定を立てちゃおう。俺は手帳を開き、パソコンのスケジューラと付き合わせてトゥドゥリストを更新した。藻原さんの様子を見ながら回らないとならないから、びっちり予定を詰めるわけにはいかない。そこをどうすっかだなあ……。ぶつくさ言いながらマウスを動かしていたら、横から河岸がひょいと覗き込んできた。


「うーす」

「おはー。魚地よー、おまえ昨日えれー早く引き上げたんだな」

「しゃあないやん。同行者がダウン」

「あらら。そういやいなかったな」

「緊張もあったんだろ」

「ええー、あいつがかー?」

「俺たちが知ってるのは全部伝聞。噂ばっかだよ。本人から何か出て来んと、実際にどうかは分かんないさ」

「ふうん。おまえも分からんの?」

「もちろんだよ」


 俺は、河岸の鼻先に指を突き付ける。


「なあ、河岸」

「え?」

「俺は、自分がお人好しだと思ってる。でもお人好しだから何から何まで許すってこたあないんだよ」

「ふん?」

「自分の全部が外から見えるわけじゃない。そういうところは、俺だけでなくて、みんなそうなんだろ」

「ああ、そういう意味か」

「おまえもそうだろ?」

「ううー、そう突っ込まれるとつらいなー」


 河岸が、苦笑いしながら頭をがりがり掻いた。


「藻原さんは、それがひどいんだ。ひどい分だけ大損をしてる、そして、損してるのを仕方ないって諦めてる。それだけだと思うよ」

「ふうん。でも、それは諦めていいのか?」

「よかないよ。それじゃ居場所がどこにもなくなる。だから全力でどやしてんだよ」

「まともになれってか」

「ちゃう。俺はそんな風にどやすつもりはない」

「へ?」


 その『へ?』の声は河岸からだけでなく、部屋のど真ん中で書類の山に埋もれていた羽田さんのところからも聞こえた。きっと、俺と河岸の会話に聞き耳を立ててたんだろう。のそっと席を立った羽田さんが、ゆっくり俺の側にやって来た。


「魚地くんが、彼女にマナーを教えるって話だったでしょ?」

「そうです」

「どやし抜きで出来るの?」

「へまったのをいくらどやしても効果がないんです。効果がないから、人事も蟹江さんも放り出したんですから」

「む。確かに」

「最初っからおかしいんですよ」


 羽田さんと河岸が顔を見合わせた。


「上司の指導が守れないのか、守らないのか。無意識か故意か。一番基本的な情報がすっぽり欠けてるんです。みんな、恥をかかされた、頭に来たっていうレベルで止まってる。なぜってところに誰も踏み込んでない。あの蟹江さんですら、ね」

「うーん……」


 羽田さんが、ぐいっと腕を組む。


「蟹江さんが彼女の世話を放棄したこと。僕らはそれを、何から何まで藻原さんのせいにしてる。実際に何があったのかを知らないのに」

「ちょっと、魚地くん。じゃあ、蟹江さんに何か問題があったっていうわけ?」

「そうじゃないです。それがさっきの話。僕らが知っている蟹江さんのイメージと、実際の蟹江さんの性格との間にズレがあるかもってことが言いたいんです」


 二人とも、俺の意図していることがよく分からないんだろう。そろってうなってる。


「うううー」


 もう一度、落ち着いて論点を整理しよう。


「ええとね。僕らは仕事の関係で、今まで蟹江さんと何度もやり取りしてます。その間に、温厚で辛抱強い人だなという印象を受けます」

「それは間違いないと思う」


 羽田さんが、即答。そんなの当然だろって顔で、河岸も頷いた。


「ですよね? つまり、僕らと蟹江さんとの間には接点が多いから、蟹江さんの印象と実像とのズレを小さく出来る。でも、百パーセント僕らの印象通りかっていうと、本当のところは分からないんですよ」


 ぎっ。椅子を鳴らして、二人の正面に体を向けた。


「態度はともかく、ペーパーベースの仕事はきちんとこなせる。その情報ソースはどこですか?」

「……。蟹江さんか」


 羽田さんが、口元に指を持って行った。思考モードに入ったな。


「ですよね。つまり、蟹江さんの中では、仕事は出来るんだからコミュニケーション能力の足りないところだけ鍛えればいい、そう計画されていたはず。人事の研修役からもそういう情報も受けていたはずです。いきなり投げ出されたんじゃないんですよ」

「うん。それで?」

「短気ですぐ爆発する人ならともかく蟹江さんみたいな辛抱強い人なら、いくら彼女に難ありって言ってもそうそうすぐにぶん投げないですよ」

「蟹江さんを怒らせたんでしょ?」

「それは事実だと思います。でも、なぜ怒らせたのか分かります?」

「あ……」


 二人の口から、声が漏れた。


「だから言ったんですよ。僕らの蟹江さんに対する認識には実態とズレがあるって」


 俺は事務机の引き出しから黄色とピンクの付箋紙を出して、ぺたぺたとデスクマットの上に貼った。黄色が二枚、ピンクが一枚。それを交互に指差す。


「累積警告、つまりイエロー二枚で退場って場合と、レッド一発での退場とは、全然意味が違うんです」

「そうか。魚地くんは、後者の方だと思ってるのね?」

「そうです。だとすれば、レッドにする意味は主審である蟹江さんにしかない」


 ぽん! 羽田さんが、ガッテンのポーズ。


「なるほどね! 彼女が蟹江さんの地雷を踏んじゃった。そして、それがなぜかが彼女には分からないってことか!」

「そうです。まるっきり空気を読まないのは、彼女の最悪の欠点です。でも、それは必ずしもイコール悪意じゃないんですよ」


 もう一度、ここまでの話を整理する。


「蟹江さんや彼女だけじゃない。僕らの誰もが、自分の内面と外面の間にズレを抱えてます」

「うん」

「じゃあ、僕らはそのズレがあっても大きな失敗をしないのに、なぜ藻原さんだけが徹底的にうまく行ってないのか」


 事務机の上に転してあったボールペンを掴んで、ケツで手帳をぽんぽんと叩いた。


「分かります?」

「うーん……」


 河岸と羽田さんが二人して考え込んでいる間に、まだダメージをずっしり引きずってる感じで藻原さんが登場。


「おはよう」

「……」


 返事が返ってこない。


「今日も無理?」

「ううん……じゃなかった、いいえ」

「そっか。じゃあ、今日は中くらいのレベルのところに行こう」


 考え込んでた羽田さんが、はっと現実に戻ってきて、わたわた慌てた。


「ちょ、ちょっと!」

「いや、大丈夫ですよ。今日回るのは、うちとの取り引き歴がまだ浅いところ。雑談は出来ないんです」


 羽田さんが、藻原さんをぎっと睨んでるけど、藻原さんは逆にほっとしてる。やっぱりね。


 さっきの蟹江さんの話と同じだ。藻原さんが無意識のうちに蟹江さんの爆弾を踏んでしまったのと同じ。クロダの親父さんは、藻原さんの地雷を踏んじゃった。昨日もう一つ回る予定だった峯岸さんのところも、雑談になればきっと専務の話が出ただろう。もし俺が予定を切り上げなかったら、それが致命傷になってたかもな。


「さて。昨日の分を取り返さないとならないから、すぐ出ます」

「気をつけてね」

「俺も出るわ」


 ばたばたと、みんな慌てて持ち場に戻った。


◇ ◇ ◇


 予想通りだった。


 午前中に四か所巡回。その間、お辞儀が雑だったり小さな言葉遣いのミスがあったりはしたけど、彼女は無難に挨拶を済ませた。もちろん、技術的なところはまだまだこれから勉強させなければいけませんのでと、そっち系の話が彼女に振られることは俺が前もって防いだけどね。彼女も、俺と取引先社員とのやり取りを必死に筆記。余計なことを口に出す余裕はなかったはずだ。


 つまり。クロダでのフランクなやり取りだけが彼女にとってのイレギュラーで、しかもクロダの親父さんに最悪の地雷を踏まれてしまったんだ。俺が感じ取った態度の変化以上に、彼女のショックは大きかったんだろう。

 彼女の中で、父親は決して許せない存在になっていると思う。父親の無軌道な生き方がむき出しになってた若い頃の話は、死んでも聞きたくなかったんだ。家族を裏切り、自分を無視して、道から外れるようなことを平然としでかしていた専務。それを古き良き時代みたいに言われたんじゃ、たまったもんじゃないわなあ。


 でも俺が回っている得意先で、専務との個人的な付き合いがあるのはクロダの親父さんだけだ。事情を知らなかったとはいえ、俺のチョイスがまずかったんだよな。しょうがない。事前情報ゼロだったんだからさ。


 昨日と違って無難に挨拶をこなせたことで、ほっとしたんだろう。藻原さんの元気が少しだけ戻ってきた。タメ口込みでね。


「ねえ……でなかった、あの。どこで昼ご飯食べるの……でなかった、食べるんですか?」


 努力は認めよう。でも、まだまだ改善てとこまでは行ってない。手帳のストッパーが外れると元に戻っちまう。PDCAの後ろ二つが壊れたままだ。ふうう……。


「そうだな。串揚げのうまい店があるから、そこに行くか」

「高いんじゃ……」

「いや、ネタのチョイスは出来ないけど、ランチの串定は680円だよ」

「うん。あ、はい。そこでいい」


 じろっ! 俺の視線を感じ取った彼女が、慌てて付け足した。


「です」

「ったく」


◇ ◇ ◇


 昼時を少しだけ外して。俺と藻原さんは串まさという店で昼飯を食った。俺がその店をひいきにしているのにはわけがある。そして藻原さんはそのわけにすぐ気付いただろう。カウンターに配膳された定食を見て、彼女が露骨にがっかりしていた。


「野菜ばっかだー」

「いひひ」


 当たり前だろ。魚介類だめな俺が、海鮮たっぷりの串揚げ屋になんか行くわけないじゃん。付け合わせのスティック野菜も含めて、このお店ではふんだんに野菜を使う。ネタにかける値段を抑えられるから、こんなに安いんだよ。


「串が九本も付いてるんだぜ? 当然だよ」


 俺は、まだ油がぷしぷし言ってる揚げたての串のうちイカとエビの串を彼女の皿に乗せ、代わりにスティック野菜を何本か回収した。


「残したくないからさ。食べて」

「ほんとにダメなの? いや、ダメなんですか?」


 言い方を訂正するようになっただけマシだな。


「ダメ。野菜の方がずっといい。熱いうちに食べよう」

「うん……はい」


 安い串定って言っても、揚げたてはうまいよ。オクラ、玉ねぎ、ジャガイモ、しし唐、れんこん、舞茸、アスパラ。どれもほくほくで、こっくり濃いめのつけダレによく合う。スティック野菜も同じようにタレを付けて、ぽりぽりぽりぽり……。

 まあ、あれだ。野菜を熱いディップソースにつけて食べるバーニャカウダの日本版て感じかな。


 なんとなく物足りなそうだった藻原さんも、俺が足した分の串もあったから満足したんだろう。


「おいしー。ねえ……でなかった、あの」

「うん?」

「魚地さんは、どうしてこういういいお店を知ってる……知っているんですか?」


 うん、許容範囲内。少しずつ意識出来るようになってきたかな。三日目でこのレンジなら、すごく上出来だと思う。


「いろいろだよ。先輩の行きつけを教えてもらったり、ガイドブック調べたり、お客さんのところで情報仕入れたり」

「へー」

「僕は、そんなに量は要らない。自分が気に入ったものをおいしいなと思える範囲内で食べるって感じ」

「そっか」

「だから、高級店も激安大食い系もレンジ外なんだ」

「ふうん」


 午後の部は飛び込みになる。顧客のところを回るのと違ってダメ元だから、度胸試しの色が濃い。マナーがどうたらっていう部分は若干欠けててもいいから、積極性と脈があるかどうかをさっと判断する能力が求められる。俺がどやす回数はうんと少なくなるから、今のうちにしんどい話をしておこう。


「あのさ、藻原さん」


 定食を食べ終わって、ほっとしたようすでお茶を飲んでいた藻原さんに、ダイレクトにネタを振った。


「なに? あ、なんですか?」

「昨日、専務から呼び出しがあってね」

「!」


 案の定、ばりっばりに表情が強張った。


「ちょいと膝詰めで、突っ込んだ話をしたんだ」

「わたしの……ことですか?」

「それも含めて。藻原さんの家でこれまであったことをね」


 ざあっ。まるでそういう音が聞こえるかのように、彼女の顔から一気に血の気が引いた。でも、俺はその反応を無視した。


「まあ。どんな事情があったにせよ。君が仕事をする上で、そういうのが考慮してもらえることも、役に立つこともないよ。きつい言い方すると、専務の懺悔話はまるっきり余計なお世話」


 俺が、苦り切った顔でそう言ったのが意外だったんだろう。藻原さんは、こわごわ横目で僕に視線を寄越した。


「他の社員がどう思ってるかは知らないけどさ。僕が営業職員として絶対にやりたくないのは乞食営業なんだ」

「それって……なに……なんですか?」

「どうか、僕を助けると思って買ってくださいってお願いする。そういうアプローチ」

「お願い、かあ」

「僕は、月末まで三本契約取らないとクビになってしまうんです。女房子供が飢えてしまうんです。お願いです、どうか買ってください」

「う……そ、それ」

「そういうの、やりたい?」


 ぶるぶるぶるっ! 藻原さんが激しく首を横に振った。


「絶対にいやっ!」

「でしょ? もちろん、生活かかってるから手段なんか選んでられないってこともある。だから全否定はしないけど、僕はやりたくないな」

「う……はい」

「そしてね、うちの社の営業は一種の技術職で、そういう売上至上主義のぎすぎすしたところは少ないの。だから営業社員の間でがりがり成績を競わせたりとか、ないでそ?」

「……そうか」

「売るのが営業の仕事。でも、自分を捨ててまで売るのはしたくない。じゃあ、どうすればいい?」

「んー」

「昨日専務とした会話の中には、そのヒントになるものがひとっつも入ってなかったの」


 最初の強い嫌悪の表情とは対照的に、藻原さんがじっと考え込んだ。


「イルマーレで晩飯食った時にさ。自分の売りはなにって話をしたでしょ?」

「あ……」

「藻原さんの売りはなににする? マナーのこととか言葉遣いのこととか、それはすごく大事だけど、あくまで基礎編なんだ。売ってナンボの世界なら、もう次のことを考えておかないとならない」


 湯のみを持ったまま固まっていた藻原さんが、きょろっと目を俺に向けた。


「魚地さんの売りは……何……なんですか?」


 慎重な探り。おけー。


「足」

「え?」


 それは、思い切り藻原さんの予想に反していたんだろう。絶句してる。


「顔……じゃないの?」

「違うよ。名刺だけじゃ、仕事になんない」

「あ!!」

「顔色も武器としては使うよ。でも僕は、特に押しが強いわけでも、勘がいいわけでも、頭の回転が早いわけでもない。それなら徹底的に足で稼ぐしかないの。それしかないもの」

「ううー、そっかあ」

「でも、ただ走り回るだけじゃ効率が悪過ぎるんだ。自分の足を鍛えて無駄なく使う方法を考える。そうやって足を効率的に使うのが、僕の売りなんだよ」


 藻原さんは、使用済みの串が放り込まれている壺をじっと見つめている。そう、その中にもし当たりがあるなら、それを確実に引き当てたいなら、どうしてもその串にはっきりした目印が必要なんだ。じゃあ自分が当たりの串になりたいなら、目印をどうするか。


「自分を切り売りするんじゃなくてさ。どうやったら自分に何か足していけるか、そう考えないと営業は一方的に消耗するだけ。絶対に続かないと思う」

「魚地さんは……足せる……んですか?」

「さあね。まだ三年じゃ分かんないよ。でも、少なくとも自分をものすごく切り売りしてるってわけじゃない。そのレベル」

「うん。そっか」


 カウンターの上に置かれた、油染みのついたレシートをつまみ上げる。


 藻原さんの意識が、専務のトラウマで原点に戻ってしまうのを防ぐ。それは、崩れないものを自力で自分の中に積み上げ、防波堤を作ることでしか叶わないと思う。父親の影響をミニマムにするなら親からの独立は避けて通れないし、そのためにはどうしても仕事のスキルを上げて自力で稼げるようにしないとならない。

 うちの社を干されたら、憎んでる父親の庇護下にずっといなければならないよ? それは死ねって言われることと同じだろ?


 さあ! 修行だ! 時間がない!


「出るよー」

「う……はい。あ、ごちそう……さまです」


 よろしい! 大変よくできました!




(バーニャカウダは、温めたディップソースに野菜を浸して食べるイタリア・ピエモンテ州の郷土料理)

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