第12話 ミネストローネ
イルマーレでの打ち合わせを終えて、帰宅してすぐ。俺はいつものようにバスタブにたっぷり湯を張って、どぷんと浸かった。でも一番のリラックスタイムのはずなのに、どうにももやもやする。それは不安のせいではなく、未達成感があるからだ。
「うーん……」
いや、イルマーレでの藻原さんとの打ち合わせは、ものすごーく有意義だったと思うよ。いわゆるビジネスミーティングとしては、ね。俺が彼女に伝えたかったことは理解してくれたと思うし、それをきっと活かしてくれるだろう。
そして、ミニコースにしてはこれでもかという量の料理だったのは、イルマーレのご主人の配慮だったのかもしれない。他のお客さんに申し訳ないなーと思いつつ、最後までおいしいおいしいと食べ切った俺ら二人は、確かに満足したんだ。料理にも、ミーティングにもね。ただ……。
ざぶん! 早々に湯船から出た俺はバスタオルで乱雑に体を拭くと、髪もろくたら乾かさず、パンいちでライティングデスクに向かった。古い自社パンフの裏にずらずらっと課題を書き並べ、それを見回してから、ぽんとシャーペンを放った。
「肝心なことが、ちっとも分からんかったなー」
そうなんだよ。俺が藻原さんに対して行ってる矯正のためのアプローチ。生命がかかってるんだぞっていうネガティブな動機であっても、仕事を前向きにやって欲しいというポジティブなものであっても、結局それは藻原さんを動かす決定的な動力にはなり得ないんだ。
コーズアンドエフェクト。何かを改善するっていう効果を見込むなら、うまく行ってない原因を特定して、それを取り除かないといけない。
そもそも俺が彼女をイルマーレに連れて行った一番の目的は、彼女の行動や言動を不自然にねじ曲げている障害物が何かを特定することだったはず。でも、今の俺にはそれがすごく難しいってことが分かっちまった。そう、社の先輩後輩っていう仕事上のやり取りの範囲内にいる限り、原因の核心部分にはどうしても迫れない。彼女の心の中に深く踏み込まないと原因を特定出来ないんだ。そして俺がそうするには、ものっそ覚悟が要るんだよ。
普通はさ。オフトーク、つまり仕事と関係のない世間話とか趣味のことから入って相手の感情の動きを探り、そこから徐々に踏み込んで行くんだろう。でも、今の彼女はそのコミュニケーション回路がほとんど壊れてる。表現が乱暴な上に、感情と連動してないんだ。そこから素を引っ張り出すのは難しいよなあ。
ただ、今日食事している間にちらちらと見えた部分がある。最初に俺と羽田さんとで目一杯ガチ入れちゃったから、彼女はそれでなくても乏しい自己表現をミニマムにしちゃってるんだよね。
でも上司や先輩、そしてその仕事ぶりにはほとんど関心を示さなかった彼女なのに、最初一緒に外回りした時には俺のプライベートに探りを入れてるんだ。そのアプローチと反応だけが、彼女の普段の姿勢と少しだけ違ってた。ものすごく乱暴でぶきっちょなやり方にせよ、俺に興味を持ったってことなんだろう。
俺がそれを受けて彼女に同じレベルで反応を投げ返せば、もうちょい深いところまで探れると思う。でも、それはものすごくリスキーなんだよ。俺にとっても彼女にとってもね。
アフターファイブでのアプローチなら、考えないでもないよ。でも、今の状況はそれどころじゃないんだ。まず彼女が自分の立てるところを確保してからじゃないと、何も始まらない。俺がイルマーレで彼女に最初に警告した通りさ。彼女は今、間違いなく崖っぷちにいるんだ。
順序としては、彼女の仕事を軌道に乗せるのが最優先。互いのプライベートに踏み込むならその後さ。でも、仕事のための自己改善に彼女のプライベートが必要になってる。たちの悪い入れ子構造だ。
「くっそ!」
俺か彼女に、一人でいいから頼りになるサポーターもしくはアドバイザーが居ればなあ。でも今は、四面楚歌で親すら見放しかけてる藻原さんとぺーぺーで上司も同僚もあてに出来ない俺しかいない。八方塞がりだ。もうぶん投げたいよ。
ん? 自分で言って、自分の言葉に首を傾げた。
そうなんだよ。なんで、俺が藻原さんの運命を背負いこまないとならないんだ? 俺にはそんな義理も義務もないよ。俺が彼女のことをぶん投げたって、誰も悪く言わないだろう。ああ、やっぱ魚地でも無理だったかー。きっとそれだけだと思う。
そして、俺が藻原さんの境遇に同情を覚えなければならない、何ものもない。俺が一方的に失礼なことを言われただけで、腹立ち紛れにぶっちすることはあっても、俺が彼女の行く末を案じなければならない事情は何もない。それなのに、なんで俺は藻原さんをそんなに気にしてるのか。
「……」
うん。好き嫌い以前に。藻原さんと俺とでは、あまりに重なる部分が多いからだ。
そりゃあ、見かけはまるっきり違うと思うよ。俺は、下っ端営業社員として上司や先輩を立て、お客さんに頭を下げ、ひいこら言いながらもなんとかかんとか仕事に付いていってる。上司や先輩から悪く言われたことはないし、俺も人を悪く言うのは好きじゃない。敵味方をすっぱり分けて、敵を徹底的にこき下ろす羽田さんのようなことは出来ない。まあ……絵に描いたようなお人好しだ。
一方の藻原さんは、出てくる言葉の全てがタメ口。客や上司、先輩に対して失礼のないように話そうっていう気がない。じゃあ、彼女の発言を丁寧語に翻訳してもそれは失礼か? そこさ。
よーく考えてみると……。彼女はなにをどうしたらいいのかっていうのをストレートに言ってるだけ。誰かをくさしたり、攻撃したりっていう発言ではない。いや、本当にないかどうかは分からないよ。俺は武勇伝の中身を正確に知ってるわけじゃないから。でも彼女の発言は、最初の登場の時から全て自分がどうすればいいか、だ。挨拶やお世辞の修辞詞が抜けてるだけで、別に攻撃的ってわけじゃない。
彼女は、誰にも相手にしてもらえない。仕事の指示は守れても口の利き方だけはどうしても直らないから、だめだこいつって無視されてしまう。どうしても彼女の人格は認めてもらえないんだ。そして、彼女はそれでいいと思ってしまってるふしがある。
『どうせ、わたしは誰にも見えないんだ。それなら、わたしの置き場所だけもらえればそれでいい』
そういう感覚。
俺は自分を折り曲げること、彼女はみんなから遠く離れることで、自分が居られるシチュエーションをひっそり守ろうとしてる。人とがつがつぶつかって、勝ち取ったところに自分の陣地を作ろうっていうのがとことん苦手なんだ。そこが怖いくらいよく似てる。
俺と彼女とでどこが違うか。俺たちが実行してる戦術が成功してるかどうか、それだけさ。俺はまあまあうまく行ってて、彼女はまるっきりうまく行ってない。俺は、うまく行ってるから基本路線を変えてない。彼女はうまく行ってないのは分かってて、でも変えられない。戦術の方向が正反対だから、現状維持のままなら、いつまでたっても俺たちの間に交点が生まれないってことか。
たぶん……彼女も、俺から同じような匂いを嗅ぎつけてるんだと思う。でも、俺の仕事はうまく行ってるのに、自分は全然うまく行かない。そして、自分との距離を空けなくて済む相手が目の前にいながら、繋がろうとするアクションがうまく起こせない。初日にしつこく俺に絡んだのは……彼女の救助信号。
わたしは泥沼にはまっちゃってるから、そっちから近付いてよ! 手を出してよ!
まあ、その発言だけ聞けばとんでもないエゴイストさ。でも、もしそれが本当に底なし沼に沈みそうになってるやつの悲鳴なら、話は別なんだ。だから俺は、どこまでも気になっちまうんだよ。
「ふう……」
俺はまだごった煮の中にいて、分からないことだらけの中でぐつぐつ煮込まれてる。味がなじんで、おいしいミネストローネになればいいけどさ。焦げ付いててスープも具材も共倒れじゃ最悪だよ。
それでも、事態は動き出した。一週間という時間は、彼女にとっては自分の運命を左右する履行期限。そう思っておいて欲しい。俺は、その間に別のアプローチを考えることにしよう。
「っくしょいっ! くしっ!」
ううー、そういやパンいちだったな。
「っくしょいっ!」
(ミネストローネは、トマトと野菜を煮込んで作られる具沢山のスープ)
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