君に八百年の花束を

玖珂李奈

【序】鬼に全てを奪われて

 また、自分の流した涙で目が覚めた。



 そういえば子供の頃、よくこうやって起きていた気がする。

 物心がついた時から繰り返し繰り返し見ている夢。目が覚めた後も、胸の中いっぱいに押し潰されそうな重い悲しみが満ちていて、母親の朗らかな「おはよう」の言葉が、苦しくてたまらなかった。

 もう、ずっとそんなことはなかったのに。急にここ何日か、毎朝あの頃と同じ状態だ。


 涙を振り切るように、私はわざと元気よく寝台ベッドから跳ね起きた。

 窓を開ける。途端に冷たい風が頬を切る。まだ陽は昇っていない。良かった。陽が顔を出してからのんびり起きたりしたら、また女将に殴られる。


 屋根裏にある自分の部屋から物音を立てないように外に出て、大きな樽のついた天秤を担いで井戸へ向かう。

 私が売られた先である宿付き飯屋で使う水は大量だ。私はもともと力がない方だし、一日一回あるかないかの食事だけが動力源では、この作業は結構きつい。

 とはいえ屋根のある部屋と多少の食事、そして命があるだけでも有難い事なのだ。贅沢は言えない。


 贅沢は言えない。何しろ私の村で生き永らえているのは、私だけなのだから。

 私だけが「鬼」達の手に掛からず、今日まで生きているのだから。


 **


 井戸の周りには、既に何人かが水汲みに集まっていた。

 空はうっすらと白みはじめ、星は少しずつ姿を消していく。寒さが石畳から這い上がり、裸足の足元から体の奥にじわりと滲み込む。もうすぐ本格的な寒期だ。

 早くなんでもいいからくつの代わりになるものを作らないと、この寒期を乗り切れない。でも、そんな暇も、足を覆う布片を買うお金もない。


 井戸の綱を引いている時、左手の中指がむずむずしたので、あ、来るな、と思ったら、案の定、ぱっくりとひび割れが裂け、血が滲んだ。


「ユニ、毎日ご苦労な事だねえ」


 家で使う水を汲みに来た、マイおばさんが声を掛けて来た。


「女将ってば、いいようにこき使っているね。こんな小枝みたいな娘っ子をさ」


 同情してくれるのは有り難い。でもひと月前に旦那を亡くした女将だって大変なのだ。


 私は半月前に人間市で叩き売りされていた所を、女将に買われた。十八歳にもなる叩き売りの女が宿屋の下女に収まるなんて、滅多にない幸運だと思う。

 だが、それを言葉に出来ない。私は少し笑って俯いた。


 おばさんは家族の飲み水を入れた天秤をひょいと担ぐと、微笑みながら私の肩を大きく叩いた。


「ま、頑張ってよ。あんた別嬪べっぴんだから、そのうち良い旦那見つかるって。ウチのみたいなさ」


 マイ、あんた結局それが言いたかったんだろ、と周りの女の人達に囃し立てられて、おばさんは笑いながら井戸を後にした。


 毛織物の着物に刺繍入りの帯、革製の深沓ブーツ姿のおばさんの旦那は、ここ、セ村の自警団員だ。

 私の育った村でもそうだったが、村民達から信頼され、多額の寄付で運営されている自警団の団員の稼ぎはいい。だから大抵、彼らの家族は身なりがいい。そして大抵、家長を尊敬し、自慢している。

 自警団がそれだけの扱いを受けるのには、それなりの理由がある。


 鬼が村を襲った場合、真っ先に盾となり、標的となるのが彼らだからだ。


 つまり、おばさんの革製の深沓は、旦那の命の危険と引き換えにあがなわれたものなのだ。


 **


 「鬼」は、昔からいた生き物ではない、らしい。

 だが、私のおばあちゃんが子供の頃には既に、鬼は人間達の生活を脅かす存在だった。


 奴らは地下にある巣から、いきなり湧いてくる。

 何かを生産して生活しているわけではないようだ。多くの場合は夕暮れ時から夜、人間の住む村に現れて、家を襲い、食料を奪い、人間を殺す。

 主に食べているのは人間と同じ食糧らしいが、殺した人間の肉を食べることもある。

 数頭単位で暴れることが多いが、まれに大勢の集団が組織的に特定の村や集落を襲う事がある。

 私の村は、その一団に蹂躙じゅうりんされた。


 鬼は、頭を覆う面をつけ、皮の着物の様なものをまとっているが、それらを外した外見は人間と非常に近い。

 だが体格が一般的な人間よりも二回り位大きく、顔立ちも違う。顔や体に点や線のような人工的な模様が入っている。そして言葉らしきものを発してはいるが、人間の言葉とは全く違う。

 その外見から、人間と同じ祖先をもつ特定の種が、人間とは異なる進化を遂げたのではないか、と語る人もいる。


 奴らの主な武器は鉄棒や剣、そして自らの腕力だ。

 力が強く、普通の人間一人ではとても太刀打ち出来ない。

 だが、日頃から鍛錬を重ね、武器を扱う人間が対抗すれば、撃退が可能だ。

 そこで鬼退治をする者として各所で白羽の矢が立ったのが、普段から村の見回りをしたり犯罪者を捕まえたりしていた、自警団なのだそうだ。


 **


 水汲みが終わると、休む間もなく朝食の仕込みが始まる。今日は大飯食い揃いの自警団員が五人泊まっているので、仕込みに手間がかかる。

 昨夜、ここの近くで鬼が出たらしいが、自警団員達が退治してくれた。彼らは鬼退治の後、疲労しているくせにうっかりここに立ち寄って飲み過ぎ、家に帰れなくなったそうだ。


 鬼をたおす自警団員は、私にとっては家族の仇を討ってくれる英雄のようなものだ。村が違うんだから私の仇とは無関係と言えば無関係なのだが、なんとなく思い入れが強くなってしまい、米を研ぐ手にも力が入ってしまう。

 そういえばセ村の自警団員の人を、間近で見たことがない。今泊まっている人達は夜中に宿に来たので、まだ会っていないのだ。

 どんな人達なのかなあ、などとぼんやり考えながら米の研ぎ汁を捨てている時、ふと自分の指先を見ると、ひび割れから結構な量の血が出ていた。

 ああ、ひび割れが米を研ぐ右手じゃなくてよかった。彼らには、丁寧に作った美味しい朝食を食べて欲しいもの。



「ユニ、それ終わったらこれ洗いに井戸へ行っとくれ」


 住み込みの先輩に大量の野菜を渡される。私は頷き、籠に野菜を放り込んで再び井戸へ向かった。


「あいつ真面目だけどとろいからさ、厨房にいない方が作業がはかどるんだよ」


 私の背後で先輩達が大声で話している。おーい、聞こえていますよ、と心の中で呟く。

 彼女達はいつもこんな感じだ。悪意はないようなのだが、遠慮がない。だが私は彼女達に口答えが出来ない。

 奥ゆかしいからではない。住んでいた村を鬼に襲われて以来、私は声を失っているからだ。


 **


 土の匂いのする野菜をわさわさと背負いながら、私は昨夜の夢を思い出す。

 夢の最後の部分は固く心の奥底に沈め、初めの方を何度も何度も心の中で想い返す。それだけで、心が真綿の様に柔らかく暖かくほぐれていく。

 突き刺す様な石畳の冷たさも忘れ、私は夢を想い返し、彼を想い、火照る頬にそっと触れた。


 **


 短く切り揃えた黒髪、澄んだすみれ色の瞳。端整な顔立ちに穏やかな佇まい。

 異国の服を纏った彼は、夢の中で恋人である私に、優しく微笑みかけてくれる。



 そう、私は彼に、ずっと恋をしているのだ。

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