第20話
十字路では、どの道を選択したのか。さらにその先、広くなった道の先にあった分かれ道では、どちらに進んだのか。また狭く、ひとり分の横幅しかない通路でいくつかスライド式の扉を見つけたはずだが、そこに入ったのか、入らなかったのか。
途中に階段を見つけ、咄嗟にそこを下りたのは確かである。箱の怪物は執念深く、また階段をほとんど無視して一気に飛び降りてきた時は肝を冷やした。
それからまたすぐに階段を上ったのは、湿気を帯びた独特の異臭を放つ地下通路を嫌ったから、というわけではない。箱の怪物は常に飛び跳ねているためか、階段を上るのも異様に素早く、珍妙であると同時に恐怖を増大させられた。
――左右に大きな溝のある広々とした通路に出たのは、その後のことだった。
ただし広いというのは空間だけの話であり、溝がある分だけ、人の通れる幅は狭かった。ふたりが辛うじてすれ違えるかどうか、という程度だろう。
相変わらず石造りだが、地下室と同じく湿気を帯び、苔のような臭いが漂っていた。実際に床には苔が生えているのではないかと思うほど、足元が頼りなく思えてしまうのは、あるいは単に疲弊のせいかもしれないが。
ともかくそうした通路を、キュルを先頭にして駆けていく。
「あ、あいつ、まだ追ってきてるんすか!?」
「ずっと、がたがた、鳴ってるだろうが……!」
辟易したような部下に、ジンは必死の思いで言葉を返した。息は上がり切っているし、足はふらふらだった。それでも足を止めないのは、背後から聞こえる恐怖の音のせいだ。
もはや周囲を正しく見回す力はなく、代わりとばかりに振り返ったのは最後尾のミネットである。彼女は煽り立てるように言ってきた。
「さっきから、ちらちら見えるわよ! もっと速く走りなさいよ!」
「もう疲れたっすよぉ」
「お、俺は、まだまだ、いける、ぞぉ……」
言葉と様子は正反対だったが、いずれにしても止まるわけにはいかなかった。
懸命に――特にジンは、人間を圧倒する身体能力を持つ獣人たちに遅れまいとしながら、足を前へと投げ出し、箱の怪物から逃れようとする。
ただし気持ちは強くとも、疲弊はどうしても身体に現れてしまうものでもある。ジンはすぐさま、それを痛感させられることになった。
思った以上に上がっていなかったらしい爪先が、何かに引っかかったことで、だ。
「のぉあ!?」
ただでさえ引きずるようだった足が、さらに何かに引っ張り込まれるような感覚に、ジンは短い悲鳴を上げ、盛大にバランスを崩した。
あるいはそれだけならば、最悪の事態ではなかったかもしれないが……
「ボス!」
転倒に真っ先に気付いたのは、ミネットだった。彼女は獣人らしい反射神経でもって、ジンが躓いた瞬間に声を上げていた。そしてすぐさま、助けようと手を伸ばしたのである。
自分も屈みこみながら、濃緑色をした服の襟首を掴み、助け起こそうとしたに違いない。
ただし彼女は身体能力こそ人間のそれを超越しているが、体重は人間の少女と同じほどだっただろう。それが咄嗟に、まして落下している、自分よりも重いものを持ち上げようとすれば……たいていの場合は自らもバランスを保てなくなるものだった。
こうしてふたりは、もつれ合うように転び――さらには一瞬なりとも上半身を持ち上げられたことで、床に付こうと伸ばしていたジンの腕は、目標を床から、眼前を走るキュルの背中へと変えさせられてしまった。
「はぎゃっ!?」
今度はキュルが悲鳴を上げて――
最終的には三人が重なり合うような形で、床の上を大きく転がることになった。
一つの珠となり、二度ほど前転しただろう。そして全員が身体に強い衝撃を感じたのは、溝に落ちたためだった。ぶちりぶちりと何かが切れる音がしたのは――正体不明だったが。
いずれにせよ、その直後。
三人は、今度は奇妙なことに落下感と……一瞬遅れてさらに激しい衝撃を味わわされた。
どだんっ! と、けたたましい音が耳に響く。「げぶぐっ!」と嘔吐でもするような声を上げたのはキュルだった。同時にジンとミネットも各々好き勝手な悲鳴を上げる。
「ぃ、たた……た……」
呻き声を上げながら、最初に起き上がったのはミネットだった。
彼女はひとまず自分の全身が動くことを確認すると、身体をさすりながら、きょろきょろと辺りを見回した。転がっているランプの火が、律儀に周囲をぼんやりと照らしている。
「ここ……どこ?」
通路ではない。一見すれば、円形をした部屋のようだった。しかし今までのように石を積み重ねて作られただけではなく、隙間が埋められた完全な密閉状態となっている。
端の一部分だけは切り込みが見えるものの、取っ手などはなく、開きそうにない。他に出口となる扉らしきものもなかった。
見上げれば、微かに横穴らしきものが見えた。ついでにそこから、金色に縁取りされた箱の端が見えて――それがくるりと向きを変えると、引き返していく。
「ひょっとして、あそこから落ちてきたわけ?」
横穴までの高さは、暗闇のせいもあろうが、身長の十倍近くあるように思えた。
少なくとも、獣人ですら容易には登れそうもない。ましてや壁に凹凸がなく、部屋自体も手足を突っ張れるほど狭くはない。三人が悠々と並んで立てる程度には広さがある。
ただしまだ、残るふたりは目を回していたのだが。
「ちょっと、いつまで寝てるのよ!」
ミネットは床の上に視線を向け、そこで折り重なって倒れているふたりに呼びかけた。もっとも、自分もほんの少し前まで、その上で倒れていたはずだが。
最初に手をかけ、揺り起こそうとしたのは、上にいるジンである。そして次に、下敷きになったキュルだ。無闇に頑丈な彼がリュックと合わせて、いつかと同じようにクッションの役目を果たしてくれたおかげで、自分たちは助かったのだろう。
ふたりが目を開けたのは、ほんの少しの間を置いてから。しかし呼びかけによるものというより、その頬に滴った冷たい液体のせいだったかもしれない。
「ぅ、ぐ……な、なんだ? 何が起きたんだ?」
よろよろとかぶりを振って、ジン。それに続いてキュルも、「どうなったんすか、おいらたち」と呻きながら身体を起こした。その拍子に、まだ乗ったままだったジンが床に転げ落ちることになったのだが――
それによってジンは、自分の背中でぴちゃんっと水が跳ねるのを感じ取った。床に手を付けて起き上がると、その手の平には薄っすらと、湿る程度だが水が張っていたのである。
「どうなってんだ? ここはどこなんだ?」
「たぶん落とし穴みたいな部屋というか、上にある横穴から落ちてきたんだろうけど……」
ジンの疑問に、答えたのはミネットである。しかし彼女は言葉を濁しながら、さらには怪訝な顔で、その横穴をじっと見上げていた。小さく指差しているそちらへ目を向けると。
そこには暗闇の奥に、さらに黒い口を開ける小さな穴と――ほんの細い一本線を引きながら、微かなランプの光を反射して煌く、薄い水の流れを見つけることができた。
「水?」
「さっきまではなかったわ。でもボスたちを起こそうとしてる間に……」
ミネットが困惑した様子で言う。
ジンの頬に当たっていたのは、そうした水滴が床を跳ねたためらしかった。
「さっきの溝には、水なんて流れてなかったっすよね?」
「俺は……見てないな」
周囲を見る余裕などなかったためだが、それは黙っておく。しかしいずれにせよ、ミネットも首を横に振った。水音を聞いた者もいなかった。
「じゃあ、どうして……?」
疑問を抱かされたまま、しかし解決は得られずに、ただ三人揃って漫然と、水の流れ出る横穴を見上げてしまう。ひょっとすれば、とてつもなく嫌な予感を抱いていたせいかもしれない。何かが起きる、どころかその出来事をも予想できてしまうような感覚である。
事実、三人は揃って硬直していたし、水の流れが少しずつ強く、大きくなってきた気がする時も、あえてそれを口にする者もいなかった。
ほとんど音もなく垂れていたものが、やがてちょろちょろと明確に水音を発し、床の上に幕を張り、靴裏を濡らし始める。三人の顔はそうした変化と共に強張っていった。
やがて、決定的なものは唐突に現れた。
ザーッと遠くで雨でも降るような音が聞こえ、それと共に何か奇妙な、細い長いものが何本が降ってきたかと思うと……次の瞬間。
濁流が、いつかの暴風のように横穴から一気に溢れ出したのだ。
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