第6話 杏さんは仕事です
「じゃ、私もう行くから。」
ベッドでまだ寝ていた智哉に声をかける。スーツに着替えた杏は髪も後ろで束ね、きりりとしていた。スーツ姿はますますクールに見えた。
「え?行っちゃうんですか?」
寂しそうな目に後ろ髪をひかれつつ、早口で伝言する。
「仕事いかなきゃ。今日はできるだけ早めに帰るわ。テーブルにおにぎりとお金を置いておいたから。何か必要だったら買ってね。」
そう言い残して慌ただしく家を出た。
もぞもぞと起き出した智哉は寝ぼけながら隣の部屋に行くとテーブルにおにぎりとお金が一万円置いてあった。それにスペアキーも。紙に「これでお昼を食べて。晩ご飯も間に合わないかもしれないから食べてていいわよ。杏。
鍵は使わない時は玄関のかごに入れておいて。」と書かれていた。
ソファに座りおにぎりを開けて口に入れる。
「あれ…。美味しくない…。」
おにぎりをテーブルに置いて、杏が出て行った玄関を寂し気にみつめる。玄関近くのハンガーラックに智哉のスーツがきれいにかけられていた。
杏は仕事に行っても家に残した智哉が気になっていた。体調がもういいことは朝、髪に触れた時におでこにも触れたから分かっていた。だから大丈夫なはず。今まで、付き合っていた頃だってこんなことなかったのに…。まぁあの子は特別、手がかかるからな。フッと笑うと事務の美優と目があった。
「杏さんがそんな風に笑うの初めて見ました。何かいいことありました?彼氏さんと、とうとう結婚ですか?」
美優は小さくて可愛らしい子だった。肩までのふわっとしたパーマがよく似合っている。悪気がないその質問も全く嫌味なく言えてしまうのは、きっと天性の才能なのだろう。私はそういうもの持ち合わせてないな。髪を巻いたところで可愛くはならないし。と冷静に分析して口を開く。
「いや。別に。彼とは別れたわ。」
そういえば別れたんだった。そんなこと考えている暇がないほどに忙しかったからなぁ。また柔らかい顔をした杏に美優は納得できなさそうに質問する。
「じゃ何か他にいいことでもあったんですか~?」
天使が今、家にいるって言ったら、頭がおかしくなったんだと思うだろうな。
またフフッと笑う杏が珍しくて余計に気になるようだ。ますます詰め寄ってくる。
「なんですか~!杏さん!」
「あぁ。ごめん。…犬を…犬をね。ちょっと預かってるのよ。」
苦し紛れにそう言った杏にがっかりした声をあげる。
「な~んだ。犬かぁ。ダメですよ。杏さん!間違っても本当に飼っちゃ!結婚できなくなっちゃうって言いますからね。私はすぐにでも結婚したいです。」
そう力説して去っていく美優の背中を見送る。あぁやって「結婚相手を探してます。結婚したいです。」って可愛く言えちゃうのうらやましいなぁ。そんなことを思っていた。
五時になるとやらないといけない仕事はあるのに、あの子はちゃんとお昼は食べれたのだろうか、晩ご飯は大丈夫だろうかと気になって仕方がなかった。時計ばかりを気にしている杏を見た同僚の春人が声をかける。
「珍しいな。杏が仕事に集中してないなんて。何か用事でもあるのか?」
春人は入社した時からの気心が知れた同期だ。杏よりも背が高い数少ない同期で、だからこそなのか男同士のような気を遣わないで済む戦友という言葉がふさわしい男だった。いい奴で顔だってかっこいいのに浮いた話を聞いたことはなかった。今は仕事が楽しい時期なのかもしれない。その気持ちは杏にもよく分かる。
春人に声をかけられてドキッとすると言いにくそうに目をふせた。
「用事っていうわけでもないんだけど…。」
杏の会社は男女、年齢関係なく下の名前で呼ぶことが通例だ。フランクでサバサバした職場は女だからということで仕事や役職は左右されなかった。そんな職場で杏はやりがいを感じていた。
それなのに今日は早く帰りたいと思っている自分に罪悪感を感じる。
「帰りたいんだろ?その仕事、俺が代わってやるよ。」
「本当に?悪い!何か今度、埋め合わせするから。」
頭を下げ頭の前にあわせた手で拝み倒す。
「じゃ今度、食事に付き合って。」
あわせた手をパシッと軽くたたくと、にこやかに笑う。
「分かったわ。おごるから!ごめん。ありがとう。」
お礼だけ言って足早に去っていく杏の背中を見送る。「損な役回りだったかなぁ。」と春人はつぶやいた。
そんな二人を近くの席で見ていた美優が春人に報告するように口を開いた。
「杏さん。最近別れたらしいですよ。」
突然の声に少し驚いた声を出す。
「あぁ。美優ちゃん。いたのか。でも杏、珍しく早く帰りたそうにしてただろ?」
美優の言葉を信じる様子もなく仕事に取り掛かろうとしていた。
いたのって…杏さんのことしか見てないんだから。
「それはワンちゃんを預かっているそうで…。」
「なんだ。犬か。」
仕事の手を止めて安堵する春人に美優は呆れ顔だ。
「春人さんもめげないですね。杏さんただの同僚としか思ってないですよ。」
「分かってるよ。だから食事に誘ったんだろ?」
改めて仕事に取り掛かろうとする春人の背中に意地悪く言葉を投げる。
「お近づきになれるといいですね。」
美優はふてくされて自分も帰ろうと席を立って歩き始めた。
「杏さん。モテるのに気付いてないんだから。」
ブツブツそう言いながら帰っていった。
「あぁ。もう。仕事をほったらかしにして帰るなんてあり得ないわ…。でもあの子、ちゃんとご飯食べれたのかな。」
心配から自然と早足になる。アパートの階段のところで大家さんに会った。まずい…。あの子のことで何か言われるかも…。
大家さんはきちんとしていれば優しい人だ。ただルールを守らない人や秩序を乱す人には厳しい。そしてアパートであった出来事の情報はいち早く大家さんの耳に入った。
「あら。杏さん。今日はお仕事早いんですね。」
「えぇ。はい。」
やばい。ここからだ。なんて言い逃れよう。
「最近、物騒でしょう?夜に男の人がアパートの廊下にずっと居座ってたっていうじゃない?」
あぁ。やっぱりばれてる。どうしよう。もう謝っちゃった方がいいのかな。でもどうやって?大家さんには、犬とは言えない。このアパートはペット禁止だ。いや。そもそも男の人が廊下でって、ばれている。どうしよう。
「でもその人、杏さんの部屋に入っていったって言うじゃない?」
あぁ…。もう言い逃れできない。でも家に天使がいるんですって言えばいいのかな。あぁそうか無理矢理に勧誘されてるって言えば追い払ってくれるかも?…でも、そう…。まだ病み上がりだし…ね。
「それにしてもよくできた弟さんね。弟さんに免じて今回は見なかったことにするわ。でも喧嘩はほどほどにね。」
弟…。あの子のことね…。
「…はあ。すみません。ご心配をおかけしました。」
かろうじてそれだけを絞り出して言った。大家さんは会釈して去っていった。
なるほど。あの子もなかなかやるわね。弟ね。そっか。そうやって言えば良かったんだわ。私は美優ちゃんに犬って…。だって犬っぽかったんだもん。でも喧嘩ってことで一晩ドアの前に居座ったことも問題なくクリアしてるし。良かった。
そう胸をなでおろすと見上げたアパートの上に見える空が赤く染まっていた。夕焼けが見られる時間に帰られたのって何日…いや何年ぶりだろう。きれいな夕焼け空に幸せな気分になりながらドアを開けた。
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