第一章 1 記憶がない

 第一章 起



 目が覚めると、僕は壁ちゃんに背をつけて座り込んでいる状態だった。

 ここは、一体どこだろうか。目覚めてすぐの頭を動かし、周りを見てみた。

 壁。配管。室外機。ゴミ。その他。

 見えたものから察するに、ここは建物と建物の間の、いわゆる路地裏と呼ばれるところのようだった。……路地裏には、良くないイメージしかない。漫画では、よく不良がカツアゲをしているシーンに、路地裏が使われていたりするから。

 体に力を込めて、背後の壁さんに手伝ってもらいながら立ち上がる。

 ……あれ? ……?

 立ち上がった瞬間、とんでもない事態に気がつく。

「何も、思い出せない……」

 声に出てしまうほどに、その事態は異常だった。

 そうなのだ。

 記憶が。記憶が、なかったのである。

 なぜここにいるのか。どうして座り込んで眠っていたのか。そこまでに繋がる記憶が一切、欠片も微塵も存在しないのだ。こんなこと、今まで一度もなかったのに。

「……あ、れ?」

 ………………。……ちょっと待って。おかしい。おかしいよ。

 記憶が、ない。

 いやいや、さっきもそう言ったけど。そうじゃないの。そうではなくて。

「僕って、何だったっけ……?」

 ここに至る前までの、貧乳みたいな、そんな小規模な記憶なんかではなく。

 僕が何者だったのか、という記憶が、全てないのだ。

 僕はどこで生まれて、どこの小学校に入学し、誰と遊んで、どこの中学校に進学し、誰に恋をして、どこの高校に行き、どのテストで何点を取って、そして今何をしているのか。

 その過去の全ての記憶が、脳細胞ちゃんのどこにも納められていないのだ。

 そもそも僕が今何歳か、それすらも覚えていない。

 もしかしたら、僕はまだ中学生かもしれない。逆に、社会人になったばかりかもしれない。

 しかし記憶がなくても、僕が男だということだけは分かった。股の間に立派なモノがついていたからね。それだけは、少しだけ安心できた。

 とはいえ、僕を構成する記憶は、何一つ覚えていなかった。

「僕の名前は……。僕の名前は……、といいます」

 それは、一番大事な名前も例外ではなくて。

 自己紹介ふうに思い出そうとしてみたけど、結局ダメだった。普通ならワンセットでスラスラと出てくるはずなのに。でも、出てこなかった。

 結局のところ、分かったことは、僕に関する記憶が全てないということ。

 でも逆に、その他の記憶は全て残っていた。

 例えば、リンゴは赤くて美味しい果物だとか、赤信号では止まれだとか、女の子のスカートをめくってはいけないだとか、そういう記憶はちゃんと残っていた。

 計算もできるし、これならばとりあえず大丈夫だろう。事故は怖いもんね。

「……とりあえず、ここを出よう」

 脳みそ殿とのマンツーマンはお開きにして、僕はこの路地裏を出ることにした。

 何をすればいいのかも分からないまま、路地裏を出る。


 大きな通りに出た僕は、そこでクリスマスとお正月が同時に来たかのような衝撃を受けた。

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