磁界をくぐり抜けて
俺と柚希の家の方向が全くの逆方向だから、なかなか校舎から出られない。
「そう言えば、引っ越しの準備は進んでるのか」
俺は精一杯やって志望していた地元の大学にやっと手が届いた。柚希はこの街を離れた都市圏の大学に合格したので一人暮らしの準備を始めなければならない。
「片付けと荷造りを進めるのが大変……。でも今日くらい大丈夫よ、部屋はもう決めたし」
「そうか。一人暮らし……羨ましいな」
なんせ俺は、自宅からでも十分通える距離だから。近いうちに車の免許を取ることを考えている。
「ふふ、いいでしょう」
誰もいない教室で、他愛無い雑談。これからはこんな風にして話せる機会はそう多くは持てなくなる。それなのに、特別なことなんて何一つ出来ていない。ずっとこのまま話していたい。ずっとこの街で、柚希がいる街で過ごしていたい。
柚希がいない日常を、今は考えたくなかった。
「卒業なんて、ちょっとまだ実感湧かねえな」
実感というものが過去を拾い上げて得られ語られるものだということを知る。
「うん……でもやっぱり少し、寂しいね」
頷くことで同意を示す。寂しい、その言葉を聞くと、途端に口が重くなる。
『お別れの挨拶は済みましたか?』
駒浦が、こんなことを言ったから。柚希の寂しさは少しでも薄れるような言葉をつい、探してしまう。
「自然はいつも平衡を求めるもの。集まりすぎた粒子も、特別な力も、いつかは離れてしまうものなのかもしれない」
沈黙を破ったのは、柚希だった。
「反発する磁石のように、同じ性質を持った者同士はずっと近づいてはいられない。近づきすぎたら、離れなさいって言われるの……」
はっとさせられたのは、この言葉よりもむしろ彼女の表情だった。
「冷めきってしまえば、何か変われるのかな? 超電導状態になって磁場に歯向かうように、まとわりつく世界をなかったことにしてしまえたら……そうしてから、あなたに会えれば良かったのに」
何を、どうしてそんなに寂しそうに語るんだ。
「でもね……はいっ!」
俺の方に伸ばされた片腕、開いた手の平は親指を上にして俺の反応を待っている。
……ああ、そういうこと。
「ほらよ」
指は交互にならないし、隣り合う手が繋がっている訳でもない。力強く向かい合う「握手」は、今までと違う意味をもって離しがたいものだった。
「
柚希の握力の小ささを感じる。俺は彼女の手の平を強く握り留めた。
一年遅れをとってたことは、私が何を言わなくたっていつかみんな知る――それは時間の問題だっていうのは分かってた。そしてみんなはいろいろな想像をしてたと思う。根も葉もない噂をたまに聞くたびに、真実を深いところに隠してた。でも私は、その噂を勝手なものだとは思わなかった。異質なもの、『ふつう』から外れたものを見れば誰だってその生じた経緯を知りたいと思うもの。そうして想像することから始めるじゃない? 物理学だってそう、想像は人類の発展に不可欠なものだったでしょう。想像は、人間の当然の思考回路であり、知りたいという欲求そのものなのよ。
勝手だとは思わない。でも、辛くはあった。望道に会わなければ、真実も私の中身も、全て私の中の私でも開けられないところにしまわれたままだったんだろうな。
なかったことになんて出来ないよ、それらは全て事実だから。でも今の私、結構好きなの。今と昔との違いで一番大きいものって何かなって考えたら、簡単に見つかった。それはね――。
言葉を止めて俺を強く見つめ返す。今まで見てきた様々な表情の中で、俺が一番好きな顔。
「望道と、出会えたこと」
胸がキュッと締め付けられた。こんなにも長い間一緒にいた柚希の顔を、未だに直視できない俺がいる。
「過去があって今の私がある。そして今の私をこんなにも大切に思ってくれる人に出会えた。磁界に進路を歪められながらも地球に落ちてきた粒子のように、あらゆる条件の中をくぐり抜けてあなたに会えた、それは確かな事実」
ぎゅっと強く握り返し、心の中で問いかける。お前が俺を選んでくれた不安が自信に変わったのは、いつのことだっただろう? もっとお前の側にいたいと思って前を向いて歩くこともできた。お前がいなきゃ今の俺はいなかった。いつだってお前の隣にいたくて、それが叶うようにと、それだけのために生きて、頑張れたんだ。
「握手は、初めて話したとき以来かな? ふふ、懐かし」
なあ、柚希――俺は目の前で無邪気に笑う彼女に、心の中で問いかける。
俺はまだ、お前の側にいても、いいんだよな?
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