第27話

 訓練をしている時、しょっちゅう叫ばれるのが『何のために訓練をしているのか』という言葉だった。

 それは新兵から、部隊に配属されてからも言われ続ける。問われ続ける、投げかけられ続ける言葉だ。けれども、その言葉の意味は、重い。

 自衛隊とは第二次世界大戦の結果軍隊を持てなくなった日本が、騙し騙し保有する”防衛のための戦力”だ。故に、憲法に違反しているだの、存在する事で戦乱を招くだのと風当たりは宜しくない。故に隊員は若かろうと年配だろうと言われ続けるのだ、学んだことは何の為に使われるものなのか――と。

 自分は自衛隊員としての誇りを抱くとともに、その言葉を”自分のために”戒める物として抱きしめ続けてきたが、盲目的な自衛隊崇拝者でもなければ、万歳主義でもない。残念な事に、学び、培ってきた物で犯罪を犯してしまう人は少なからず居るのだ。現役であれ、元であれ。

 力なき正義は無力で、正義なき力は暴力だともいわれ続けて来た。だから一般の人より”戦闘として”優れようとも、それに物を言わせて何かを使用とは思ったりはしなかった。とはいえ、家族に――親の顔に泥を塗るような行為をしたくないという想いもあったのだが。


 それでも、俺はここまで精神的に弱かっただろうかと今では頭を抱えている。場所は学園内、あの後どういう風に物事が流れてここにまでたどり着いたのか記憶があやふやなのだ。

 カティアとアリアはミラノと一緒にアリアの部屋に居て、今日一日の出来事を全て順序だてて説明してくれている。そして俺はと言うとミラノの部屋――と言うより、”俺も寝泊りしている部屋”に居て、ベッドに腰掛けて俯いてばかりいた。悩んでいるわけでもなく、考え込んでいるわけでもなく。心神喪失状態にも近い感じで、ただ時間を浪費していた。


「――あれは、本当にクロエだったか?」


 路地裏での出来事が信じられなくなってくる。けれども、俺の服に跳ねた血の跡は、紛う事無くあそこでの出来事が現実だと示してくれている。じゃああの時俺がちらりと見た人物がクロエだった確証はどこから求めれば良いのか?

 冷静になっている筈で、落ち着いている筈なのに思い出そうとすればするほどに記憶が曖昧になっていく。あの時見た人物が誰だったのか分からなくなり、自分があのあと何をしたのか思い出せなくなってしまったのだ。

 けれども、アリアとカティアは無事に学園にまでたどり着けている。買い物での荷物だって部屋の片隅に置かれているし、剣だってゲヴォルグさんの家で購入した一振りも追加されているので今日の出来事が偽りだったと言うことも、外出してからある程度の時間帯までは俺の記憶が保障されているということも分かっていた。

 それでも、曖昧な記憶をそのまま事実だと言うのなら――流れは理解している。


 クロエが人を力のみで引き裂き、浴びるようにしてその血を啜っていた。それを見た俺は何も反応できず、逃げるべきか声をかけるべきか迷ってしまった。そんな俺とは別に一人の人物が反対側の道から現れ、クロエに近寄った。

 どうやらその人物はクロエとは友好的では無かったらしく、煌く白銀の光が動作と一致していることから――攻撃をしたのだろう。しかし、その素早い攻撃をクロエは”その人物ごと飛び越えて”回避した。そして路地裏を破壊するような戦闘が始まったのだ。

 退治する人物は――仏さんには申し訳ないが――千切られた死体の部品ですら投擲に使い、何かしらの光を反射する得物を使って攻防を繰り広げていた。

 それで、俺は――それを見ていて、冷や汗が出て、手の甲であごを拭い、付着していた血に気づき――


 舐めたのだ。


 そこから先の記憶は更に曖昧だが、無理にでも列挙するのならこうなる。その後、何を考えたのか俺は八九式を捨て置き、拳銃とナイフのみで突撃して行った。そして三つ巴のようになったその戦いで顔を――クソっ――顔を見ているはずなんだ。けれども、拳銃で魔力弾を吐き散らかし、ナイフで接近戦を仕掛けていった俺は首筋を何かで斬られ、クロエ……らしい女性にわき腹を”裂かれた”。そして、血が足りなくなって、意識が飛んで――気がついたら学園に居た。

 そう、馬鹿げた妄想だ。斬られた首筋も、裂かれたわき腹も……何ともない。実際、カティアとアリアの言い分は「曲がり角から飛び出していったと思ったら一人で倒れていた」と言うもので。死んだ訳でも無いらしく、カティアは倒れた事のみ心配していた。


「……疲れてるのかな」


 血のついた上着を脱いで確認するけれどもわき腹を裂かれたような跡は無い、何だったのだろうと思いながらも魔法で洗濯と乾燥を済ませる。こんな夜遅くにただの部屋干しじゃ不安だし、何よりもミラノが好かないだろう。ある程度乾かせたのを確認した俺はベッドの隅に引っ掛け、久しぶりにウォークマンで音楽を聴くことにした。

 最後に聞いた曲は何だったかなと考えながら、画面を見る事無くヘッドセットをつけてベッドでうつ伏せに、脱力とも死に体とも言える様子で突っ伏した。目蓋を閉じて疲労や疲弊とも、心神喪失とも言えるようなたゆたう感じで無心になる。

 周囲の音を遮断し、聞こえてくる曲は自分の好きな曲だった。とあるゲームで流れてくる、イースターエッグと言われる”隠し要素”と言う奴だ。条件を満たさなければ聞くことの出来ない物で、今となってはゲーム自体がプレイ不可能なのでここでしか聞けないとも言えるが。


「――心の隙間を埋めるかのように自分に同化して欲しいのか、あるいは煩わしい全てから解放を願って殺してもらうか」


 I've waiting for someone to find me and become a part of me...

 I've waiting for you to come here and kill me and set me free …


 そのどちらも、我が強すぎる願望だ。自分の一部となってくれとも、殺して自由にしてくれと言うもの。けれども俺には理解が出来る、勇気の無い臆病な自分だからよく分かる。どうして良いか分からないから、倒れそうな自分を補強する何かを他人に求める。あるいは自分から倒れる勇気も無いからいっそ倒してくれと求める。

 自分の事は何も出来ない、最低の卑怯者だ。だから他人を利用した言い訳で、今日もまた甘い生き方をする。ミラノからも先に休んで良いと言われたのを言質として、音楽を聴いたままに眠りにつく。風邪引くかなとか考えず、倦怠感に身を任せてそのまま眠ることにした。ベッドの上に突っ伏し、音楽を聴いたままに眠る。なんか、昔みたいだと思った。

 眠りにつきながらも、昔の癖で誰かに名前を呼ばれたり触れられたり近くに来られたりする等で意識が覚醒してしまう。それでも怠慢と倦怠でダブついた意識が覚醒しきることは無く、誰かが俺に触れているのだけは覚えている。夜中に一度だけぼんやりと目を醒ましたときの俺は、ベッドの中で大人しく眠っていた。誰かが俺をベッドに寝かしつけたのだろうなと思い、灯りの消えた部屋の中でもう一つのベッドを見る。この部屋の主人であり、自分の主人であるミラノもどうやら眠っているようであった。色の違う片目が、夜であっても幾らか世界を明るく見せてくれる。ミラノがこちらを向いて無垢に寝ているのを見て、俺は再び目蓋を閉じた。






 ――☆――


 普段通りの時間に目を醒ました俺だが、ミラノの身支度を手伝った直後に「今日は大人しくしてなさい」と言われてしまった。アリアやカティアが良い方向へと話を持っていってくれたのだろう。カティアが朝食を届けてくれたので、感謝しながら食事を終えた俺はミラノを見送り、カティアを送り出して先日の妄想とも空想ともつかない出来事を思い返しながら、そのままベッドで二度寝をした。

 睡眠中にも女神の世界に行けるとは聞いたものの、夜じゃないからかただただ眠るだけだった。たぶん気まぐれで呼び出されるタイプなのだろうとアタリをつける。あるいは、強く願うか意識した状態で眠れば行けるのかも知れないが。

 ミラノ達の居ない、休息を”指示”された事で気兼ねする事のない時間なんて初めてかもしれない。例えるなら、部隊配属をされ、常に上官や先輩の様子を伺って配膳だのゴミ集めだの、酒を注いで挨拶回りをしたりと言ったような、常に気を張った状態じゃなくて済むということだ。ミラノが居れば護衛対象や主人として身の回りのことや、時間を見てお茶出しをしなければならない。アリアが居ればその妹として同じ事をしなければならない。カティアが居たら居たで、自分のお付としてやるべき事があれば新たに指示しなければならないし、変更があれば明確にしておかなければならない。

 そういった全てから解放されて休むのは――これが初めてだろうか。だから深い眠りの傍らで幾らか気を紛らわす為に置いたヘッドセットから聞こえてくる音楽で自分の中へと閉じこもり、深く眠りこけていた。だからこそ、時間の経過による変化に気づくのが遅れたのだ。


「――……、」

「ん――」


 ボンヤリと意識が覚醒してきて、天井を真っ先に見るのは普段どおりだった。そして長い時間眠りについていた事で視界がボヤケていて、焦点が合うのに時間が幾らかかかる。


「ミラノ……?」


 霞んでいる視界の中で、見慣れた髪の色を見た。まるで俺を看病していたかのような、あるいは見下ろして様子を見ていたようにも見える。腕時計を見るともう昼に近く、だいぶ寝たのだなと欠伸を漏らした。

 欠伸とともに涙が溢れ、その涙が目と言うレンズに潤いを与えて焦点を合わせてくれる。それから腕時計から視線を外してミラノを見て――


「う……うわぁぁあああッ!?」


 そこに居たのは、髪の色が似ているだけの――おっさんだった。そもそもちゃんと見れば髪形や長さも違うし、それ以前に服装が違う。不審者が部屋に居たことで驚き、普段傍においてある武器を取ろうとしてそこに無かったがためにベッドから転げ落ちた。

 頭頂部からカーペットが敷かれてるとはいえ石材で出来た床の上に落下し、そこからビタンと背中や足まで叩きつけられる。当然一番痛むのは頭で、それから踵が痛む。背中は受身のように衝撃は拡散されたが、遠心力の都合で足は強く打ち付けていた。


「いてててて……」

「あぁ、済まぬな。驚かせたようだ。立てるか?」


 そう言って相手はこちらへと近寄り、その手を差し伸べた。俺はその手を握る事無く、大丈夫だと会釈で返し、自分の力で立った。服を叩き、痛む頭を撫で、数度の瞬きで涙を目から追いやる。それから自分の持ち物――武器や装備を確認する。

 自分で装備だの身につけているものをどうこうした記憶は無い、その上普段物を置いている場所とは違う位置にそれぞれ物が置かれている。弾帯は暖炉前の椅子の背もたれにぶら下がっている、つまりナイフや携帯エンピ――水筒はそちらだ。可変銃のグリップも机の上に置かれているし、89小銃もミラノの衣装箪笥の傍で立てかけられていた。つまり、丸腰状態な上に咄嗟に武器を入手するのは難しい状況にあった。

 頼れるのは自分の肉体と魔法ぐらいだろうと考えていると、そのおっさん口角を少しばかり上げて笑みを浮かべる。


「驚かせるつもりは無かった。ただ――娘に会いに来てね。部屋まで来たものの娘は不在で、君だけが居たと言う訳だ」

「娘――と言うと、ミラノ……様の、父上、ですか」


 相手が誰なのか直ぐに思い当たり、無理やりではあったが言葉を正していく。けれども寝ているところを無用心に曝け出し、寝起きに髪の色だけでミラノと思い込んで呼び捨てた失態をやらかしている。今更取り繕っても無駄だろうと思っていると、その通りだと言わんばかりに口元を抑えて笑われてしまった。


「ふふ……。普段君が話をしているようにしてくれて構わない。

 今はお忍びだ、この場には私と君しか居ない。この意味を理解してくれるかい?」

「あぁ、えっと。分かりました。ただ、ミラノやアリアに対してしているような口調だけは、避けさせて下さい」

「ふむ、なぜかね?」

「最低限礼を尽くしていると言い訳が出来るからです」

「ふふ。娘たちに余程厳しく言いつけられているらしい。だが、先ほども言ったように私と君しか居ない。――君を見定めに来た、と言ったほうが伝わりやすいかな?」


 そう言われ、俺は勘違いしていたと知る。二人きりだから遠慮しなくても良いという意味で捉えたのだが、実際は「お前はどういう人物なのか図りに来た」と言う意味らしかった。絶句し、なんと言えば良いのかを考え、結果ため息を吐くことしか出来なかった。頭の痛みが別の頭の痛みへとすり替わっていく。

 眉間を抑え、何とか――何とか上手くやれないかと考える。しかし、今となっては若干の交友関係があることだし、確約ではないけれどもグリムやアルバートが将来家に来ないかみたいなことを言っていたのを思い出す。最悪ミラノ達の父親から駄目出しされて追い出されても、そちらに行ければ良いかなと言う、希望的観測を立てた。


「――自己紹介をすると、ヤクモって言います。一月近く前にミラノに召喚されて、噂されている街での騒乱で一度だけ命を落としました。けど、神の寵愛と言うか、間違いと言うかで――使い魔と言う繋がりは失って、代わりに貴族の末端に所属した――って所までは、たぶん知ってるんじゃないかなと」

「そうだね。ミラノやアリア、それに可愛いお嬢ちゃんとかから聞いている話と一致するね」


 一致する、という言葉が苦笑と脂汗を滲ませてくれる。引きつった表情と共に、MPに尋問されているのではないかと苦い思い出が蘇ってきた。屋上で大麻を育てていた事件で、駐屯地の全部隊が捜査された。その時に、尿での検査だの何だのと色々やられたのだ。しかも分刻みで自分が何月何日何曜日、0000から2359までの間で全ての事柄を一週間規模で手書き記入しまくった事も嫌な記憶だ。

 俺が間者や不審者じゃないかと言うことを、ミラノ達の父親から直に調べられているのだ。下手すれば手打ちなんて可能性もある。何かしらの理由をつけて連れ出され、人目の無い所で消されるか拷問されるか……。


「もしかして、自分は消されるんですかね……」

「ふむ、なぜそう思う?」

「いや、その。だって、貴方からしてみたら不自然でしょう? えっと、公爵家の娘の所に? しかも王家と割と交流がある家の所に? 都合良く何も分からないとか言っていて? しかも文句を言いながらも特に何かを要求するでもなく尽くしてくれている?

 疑って当然じゃないかなって」

「その通りだね。娘達は君を信じているようだ。事実、君は――娘達を助けてくれた。信じてもらうに必要な対価は払っているみたいだがね」

「しかし、彼女達と違って貴方は現当主だから疑惑や懸念には当たらなければならない。

 貴方の次に家を――血を継ぐのは彼女達だから。何かあってからでは遅い、でしょう?」


 推測、憶測、自分だったらどう考えるかを全てバラバラに分解して考える。間者だの隠密だのと言う可能性は、何も対外的に存在するわけじゃない。言ってしまえば派閥や貴族間でのパワーバランスゲームと言う対内的な要因にだって用いられる。不祥事を作り出させる、悪に染めさせる、醜聞を流す――色々有るだろう。

 しかし、俺が色々と語った所で公爵の眉が少しばかり動いた。その意味が凶と出るか吉と出るかは分からないが、場を持たせようと俺は普段から使っている簡易紅茶セットを使ってお茶を作ることにした。詰問に近い事をされては居るが、拘束力の無いやり取りだ。だからこそ、真摯でありながらも幾らか余裕を自他共に作り出して見せなければならない。


「君は、随分と自分がどう見られているかを明け透けに語るのだね。この場で否定しなければ立場が悪くなるのは君だろう?」

「ええ。けど、だからと言って嘘を吐き出すかのように必死になっても仕方ないじゃないですか。

 それに、先ほども言ったけれども一月に近い日数しか居なかったからこそ、誰が調べても辿り着ける場所に真実が転がってる。記憶が無いと言うのが嘘だったとしても、アルバート……ヴァレリオ家の三男と私闘をしたということ、ヴァレリオ家を代々守り続けてきたヴォルフェンシュタインの子に横槍を入れられて敗北したということ、その結果ヴァレリオ家の子息の態度が軟化して友好的になったということ。

 他にも――その時の活躍があって戦い方を教授する立場になったという事や、国王と縁のあるミナセとも親しくしているとか――。隠す必要の無い、自分にとってそれが全てですといえる材料が、分かりやすいく転がってる」

「そして、この前のモンスターの襲撃では活躍した。その結果一度は命を落とした――と。

 自分の事を、よくもまあ素直に語るものだね。手の内を曝け出すというか、晒すような……」

「暴挙ですか」

「そう、暴挙に近い事をしている」


 そう言われ、俺はなんて返事をしようか幾らか悩んだ。なんて言おうか考えている間にも湯が出来上がり、それをそれらしく茶にして見せた。熱過ぎないだろうかと心配しては見たものの、飲まない可能性が高いだろう。それでも形式的に自分の分と相手の分を用意し、ミラノが保有している誰が部屋を訪ねても良い様にと用意している高そうなカップを用意した。

 そしてずっとお互い立ったまま会話していたが、弾帯だの銃だのをどかして茶を並べると席を勧めた。俺はその時椅子を引いて座るのを待ったが、自分で座るから良いと拒否される。当たり前か、背中を向けて腰掛けた瞬間に暗殺! なんて事だってありうるのだから。

 俺も同じように席に着き、公爵のカップと自分のカップを茶で満たしてゆく。そして自分で用意しておきながらそのお茶の葉の匂いが良いものだなと、状況にそぐわない感想を抱く。そして毒見ではないが、害は無いことを証明するために自分から先に飲んで見せた。それでも猫舌だから直ぐには飲めず、一口目で火傷し掛けた舌先を庇う様に二口目で幾らか飲む。

 これで口にしても良いものだと理解してもらえただろうかと公爵を見ると、何やら和やかな表情で香りを楽しんでいるようであった。


「君は、この茶の葉がどういうものか知ってるかな?」

「いえ。ミラノとアリアが好きなものだと言うことしか」

「その情報には、ひとつ誤りがある。既に知っていると思うが、二人の兄にあたるクラインも好んでいた葉だ。乳を足せば優しい味わいになり、そのままでも薬味の少ない味が楽しめる。砂糖を足せば舌あたりは良い――

 ミラノ……いや、二人ともお茶が昔は嫌いだったのだよ。しかし、お茶を飲む習慣がある故に幼くとも覚えてもらわなければならなかった。そんな私の悩みを解決してくれたのがクラインだった。

 二人の口に合うように苦心してくれたのだよ」

「――……、」

「君は、あまりにも似すぎている。人は違うのだろう、まったく別の場所から来たのだろう。

 けれども、君と息子は……あまりにも、言う事やる事が似すぎているのだ。

 自分の事を、包み隠さない。私が礼を失しても構わないと言っても、言い訳が出来る程度には礼を尽くそうと妥協点を模索した。それに――ベッドから落ちた時も、昔を思い出すようであったよ」


 そう言われて、俺は胸が苦しくなった。別にこの公爵が俺をまるで実の息子のように語ったからではない。俺の存在が、クラインと言う人物に侵食されたように感じたからだ。俺が、俺じゃなく”される”と言う事実に、苦いものがこみ上げる。


「だから、二人が君を信じ過ぎてしまう理由も分からないでもない。私も昔を――息子を思い出してしまうくらいに」

「――……、」

「ああ、失礼。昔語りをしてしまうほど、私も老いたという事だな。

 ――正直に言うと、私が本当に分からないのは、何故君が召喚されたとは言え娘たちとヴァレリオ家の子息を救い、国王が気にかけている人物を救い、一度は死んだかだ。

 息を吹き返したとはいえ君は特に何かを要求するでもなく、与えられた騎士と言う爵位と僅かではあるが報奨金を受け取っただけ。しかもその金を利用するでもなく、立場が変わったことで余計に負担は増えただろうに反発する訳でもない。

 娘が言うから恩人を――騎士階級に叙任した若者を付き人にしたいと珍しく我儘を言うものだから何も聞かずに認めたが」


 公爵の言うことは正しいけれども、一つだけ俺には何の疑念も抱かずに言える”武器”があった。


「――恩が有ります」

「それはどういったものか」

「言葉しか通じず。常識を知らず、魔法を知らず、文字を知らず、歴史を知らず、国を知らず、人を知らず、金を知らず、世界の有り方を知らずに居た自分を放り出さずに居てくれたと言う恩です。

 今でこそ多少物事を考えられる、魔法がどういうものかを知って扱える、文字も多少は読める、歴史と宗教のつながりも分かる、国に関しても触り程度で理解してる、人は良く分からないけれども、金が分かる。

 少なくとも、”生きるために必要な事柄”を教えることを厭わず、身分相応ではあったけれども生活を保障してくれた。貴方が言う可愛いお嬢さん――自分の、使い魔もひっくるめて」

「ほう」

「自分は、”親に”言われてきた事があります。恩には報いろ、困った人は助けろ。助けた人は自分を裏切るかもしれない、けれども助けたという行為と事実は自分を裏切らないと。

 確かに自分は死ぬのは嫌で、痛いのも嫌で、出来るのなら楽しく、ノンビリと、幾らかのお茶と酒を嗜みながら暮らせればそれで良いかなって思ってます。けれども、助けられる人を助けないで見捨てるような教えは受けてないので」


 その思考は何時からの物なのかも思い出せない。けれども疑問を抱かずに大事にしてきたのだから、それが古いものなのか最近のものなのかなんて関係ない。もしかしたら父親が影響しているかもしれない、幼い頃に目にしたアニメや絵本の影響かもしれない、小学生以降に読んだ本や漫画の影響かもしれない、高校生以降に――日本に来てから遊んだゲームや成人ゲームの影響かもしれない、あるいは自衛隊に入ってから自然と備わったものなのかもしれない。


「父親は、良い教育をしたのだな」

「――さあ、どうですかね。父親は忙しくて家に居なくて、けれども何をしてくれて何を言ったかだけは鮮明に覚えてる。母親はずっと家に居てくれたけど、優しかった事くらいしか思い出せない……。ずっと、飢えていた記憶はある」

「飢えて……。食べ物か?」

「いえ、父親が居ない寂しさと、母親があまり関わってくれない寂しさに。

 けれども――父親は国に関わる大事な仕事をしていた、それを自分如きが邪魔できるはずが無かった。優秀であれとは言われなかったけれども、迷惑をかけるような低俗な輩になってくれとも言われなかった。自分が何かすれば迷惑がかかる、迷惑はかけたくない――それよりも、誇ってもらえるようになりたかった」


 ただ、それだけ。公務員として、外交を取り仕切る父親はどこに行っても転勤だの赴任だので、家に居ること自体がそう多くは無かった。母親は――自分が日本人ではないことで育児に消極的だった。父親の家系に、家族に「外人だから上手く育てられないのだ」と言われることを極端に恐れていた。だから優しく佇んでいた、間違ったことは流石に叱ったが、それ以上の事は何も言ったりはしなかった。

 日本に来て父親は暫く一緒に暮らせるようになった、家族もろとも国を渡る事もこれが最後だと言われて母親も幾らか落ち着いたようだ。しかし、産まれてからその半分も関われなかった自分の子供と関わっている内に――父親は自分の子供のことを把握したのだろう。アメリカ同時多発テロやチャベス就任によるデモやストライキの連発、個人的に言うのであれば通学バスのコロンビア革命軍による襲撃等で母親も不安だったのだろう、宗教の色が濃かった時期もある。

 平和や愛を問いた母親に、どんな顔をして”大勢の人の為に人を殺す手段と技術、知識を学んできました”と言えるのだろうか。いや、そんなものは一面でしかない。結果的に人を救っているのだから、帳消しとはいかずとも――誇れる物にはなっていた筈だ。

 そうやって考え込んでいると、公爵は柔和な笑みを浮かべた。その目には、もうはや警戒の色は見て取れなかった。


「君は、やはり似ている。生き方がどうであれ、親がどうであれ――我が子に似ているよ」

「いや、やめて下さい。そうやって面影を重ねていると、ズレていくことで軋轢が深まる。

 だったら、最初から期待されないほうが良い、諦められた方が良い。

 自分は、クラインとは別人なのですから」


 似ている、けれども別人でしかない。その二つがぶつかり合えば、結果的に俺と言う存在が磨り減っていく。クラインを演じるつもりは一切無いが、それでも要所要所で必要だからと真似てしまう――演じてしまう事が無いとはいえなかった。そうやって居る内に、演じていることが当たり前になって、俺ではなくクラインと言う人物に成り果ててしまう事だろう。俺の思考や行動ではなく、クラインと言う軌跡を追った思考や行動しか出来なくなる。その内、理由が付けられなければ銃すら扱えなくなり、剣と魔法を使う貴族様に成り果ててしまうに違いなかった。


「なら、君が彼になれば良い」

「……え?」

「その道は易き道のりでは無いだろう。記憶が無いとは言え、そぐわない言動は全て抑えられ、我が息子を演じて貰う。

 君の身分はそのまま彼の後釜に納まる。即ち、いつかはデルブルグ家を継ぐであろう人物に。

 領地が有る、未来がある、そして恩ならそれから娘達に返していけば良い。

 ――どうだ」


 その誘いは想定外だった。俺が、クラインになる。未来は保障される、身分も最下層から二位にまで引き上げられる、ミラノの付き人ではなくなり自由になれる、やるべき事は多いだろうとしても――地位的な苦労からは遠くなり、肉体的労働ではなく頭脳的労働のほうが多くなる。

 食事は良い物が食べられるようになり、生活環境の改善は素晴らしい事になりそうだ。雑事は全て執事やメイドがしてくれる事だろう、どうやって周囲を誤魔化しクライン(息子)が帰ってきたと説明する気なのかは知らないが、それを言うのだから自信はあるのだろう。だが――


「断らせていただきます」

「ふむ、なぜかね?」

「何も分からなかったとは言え、自分には自分の歩んできた道が、歴史があります。

 親が居て、弟や妹が居て、幼い頃から今と言う今まで何をしてきて、何を思い、どう生きてきたかがあります。

 俺に、もう一度両親を殺せって言うんですか?」


 そう、俺がクラインになると必然的に俺を構成してきた大半を脚色し直さなければならなくなる。似通った事柄は別に問題ないだろう。しかし、実親や出自はどう足掻いても塗りつぶさなければならなくなる。南米出身のハーフだと言うことも、父親が日本人で母親が南米人であるということも、今まで両親に何を言われ、どのように接され、その結果どう思ったのかと言う事柄――すべてが。


「それは、ちと、酷過ぎませんか? 親が死んで、未だ向き合うことも出来ていないのに。

 親を自分の親だと言えない、多くの人が記憶から忘却していく中で自分だけが覚えているのに――何故、自分の利益の為だけに、大切な父と母の名も口に出来ない境遇になりたいと思いますか」

「むぅ……」

「俺の親は、二人です。それは、公爵であっても踏み入ることの出来ないことです」

「それは、私が”命令”してもかね?」

「命令であってもです。命令に抗った罪で殺されるのだとしても、偽った自分ではなく自分のままで死ねる――。親は喜ばないでしょう、けれども顔向け出来る」


 今でも、家族の顔を思い出せる。幼い頃に見た若い顔から、自衛隊に入る直前に見た最後の老いた顔まで。それらを思い出しているうちに涙が出てきた、堪えられずに鼻水まで出てくる。みっともないと理解してはいるが、ハンカチで拭っても拭ってもあふれ出る。

 久しぶりに思い出した親の顔、その様々な表情を思い浮かべていく度に涙が溢れて止まらなかった。どれだけ求めても、追い縋ろうとも二度と会えないのだ。成人して、一緒に酒を飲もうと言う父親の願いも叶えられなかった。立派になってくれればそれで良いと言ってくれた母親にも、立派になった自分を見せてやることが出来なかった。弟と、もっと趣味の事で色々と語りたかった。妹の産んだ赤ん坊の成長だって――楽しみだったんだ。

 けれども、全ては手の届かない場所に行ってしまった。もう、二度と目にすることも叶わない。


「俺の家族を、奪わないでください……」


 今の自分を構成する、英雄と呼ばれるようになった出来事を乗り切れたのは自衛隊で散々訓練してきたからだ。けれども、自衛隊に入るきっかけですら正義感や善意からではなく認められたかったと言う願望からだ。

 親が奪われれば、必然的に失われるのは”想い”だ。夢は無く、理想も抱いたりしていない。ただただそれだけに突き動かされてきた俺から想いを取ってしまえば、本当に何も無くなる。

 だが、俺が過去に溺れている所で公爵は痛ましい表情をしていた。そして、なぜか相手もうろたえている。


「俺は、お前を……」

「――……、」

「い、いや。失礼。――君を、試して悪かった。

 もしここで飛びつくような者を信用するのは難しかっただろう。

 だが、今は話をするのは難しそうだ。私はお茶を楽しませてもらおう、独り言を言うかもしれないが……忘れて欲しい」

「はい……」


 公爵は最初は警戒していただろうが、今度はなんの躊躇いも無しにお茶を飲み、御代わりをする。俺は自分を落ち着けるのに精一杯で、掌に水を出して顔を洗う事で誤魔化し、少しでも早く見るに耐え得る状態へと戻ろうとした。


「――クラインは、優しい子だった。常に家のため、親である私達のため、何時かは国の為になれるようにと頑張っていた。私はその努力の為に、協力は惜しまなかった。

 しかし、それはまだ若かったあの子の自由を奪った。成長すればするほどに、私と言う存在を重く感じていた。人望、政務、戦闘、魔法、そして――功績と家柄。今となっては後悔しか出来ぬが、私の存在と期待が重く圧し掛かったのだろう。

 ミラノが拐かされ、助けに行ったっきり言葉を交わす機会も失われた。私は、公爵である前に一人の親だ。まだ四十で、クラインが跡を継ぐにしてもまだ時間が有った。たとえ未熟であったとしても、頑張っているそのあり方だけで十分だったと言うのにな」


 そう言って、公爵はため息を吐いた。そして、若干変な関係だなと思う。クラインも――あんまり言いたくはないが――俺と似て、親の期待に応えようと必死だったのだろう。それこそ”優しい”と親が言ってしまうほどに、人生と言う道で走り続けてきたのだろう。親を失った俺と、息子を失った親。公爵からしてみれば似すぎている他人で、俺からしてみれば何の繋がりも無い他人。それでも、俺は――そう思っていて貰えたらなと、やはり親を思い出してしまう。

 思考をする事で思い出してしまった両親の事を隅へと追いやる、情報の整理や理解と言う事をしている間に涙も鼻水も徐々に引っ込んでいった。新たに顔を水で洗い直し、涙の跡も鼻水の跡も消した。


「――もし君が今流した涙も、親への想いも偽りだとしたら。演者となった方が良い。

 けれども私は、信じよう。なに、形だけとは言え誰かが君を疑わなければいけなかった。

 ただの怪しい者が、本当に死んでまで何かをしようとはしないだろうからね」


 まったくだ。と言うか、本当に死んだんだぞ。神の加護と言ってはいるものの、ただ単に蘇生してもらっただけであって――それが無ければ、あそこで俺の物語は終わっていたんだ。けれども、結果はどうであれ死は死だ。あそこで一度命を散らしたのが、信用への後押しへとなったようだ。


「――今度娘たちが帰省すると聞いている。もし出来るのなら、一度だけで良い、息子を演じてはくれないだろうか」

「それは、何故ですか」

「私の妻の元気を出すためだ。ずっととは言わない、滞在しているときだけでも良い。

 ……頼めないだろうか」


 まあ、それくらいなら良いだろうと思い、二つ返事で「一度だけなら」と返した。すると公爵は喜び手を叩いた。それから自分の行動に気づき、咳払いをしながら手を戻す。


「おほん! なるべく負担は掛けないようにする、娘達にも今の話はしておく。

 後日服を送る、屋敷に入る前に闇の魔法が得意な者も待機させておく。

 髪の色や目の色も誤魔化せるから、後は君がそれらしく振舞ってくれれば良い」

「あぁ、えっと。だいぶ本格的、ですね?」

「その時は実の息子のように扱うから楽しみにしていると良い。

 さて、長居をしすぎたようだ。不本意ながら君を泣かせてしまったからね、こんな所を娘達に見られたら大変だ」

「会って行かないんですか?」

「なに、慌てずとも逗留していれば機会は幾らでも有る。あれもこれもと欲張って生きるには人生は短くは無い。それでは、また」


 カップの茶を飲み干した公爵は、ゆっくりと席を立ち上がるとそのまま本当に立ち去っていった。俺は馬鹿みたいに泣いたショックが抜け切っておらず、何かを直ぐにするつもりにはなれなかった。

仕方が無く落ち着くようにポットのお茶の残りを一人で落ち着くように飲み、無心のまま窓の外を見た。

 

 それからあまり時間の経たぬ内にミラノ達が部屋に来て、泣き腫らしたかのように目が赤い事やらミラノ達の父親が来た事やらで落ち着くことは無かった。カティアは俺が拷問でもされたのじゃないかとまだ見ぬ公爵に悪感情を抱き、ミラノですら腕を組んで悩み、アリアは苦笑して何も言えないようであった。

 ……自分の娘にすら擁護してもらえないって、それはそれでどうなんだろうな。


「父さまは躊躇いが無さ過ぎるのよ」


 そう言われたのは、寝かしつけられるような三度寝からのティータイムのときだ。流石に寝すぎたというか、寝飽きたが為に俺もモゾモゾトベッドを這い出し、お茶の準備をする。カティアはまた心配性モードに突入したのか、俺の視界に入る位置に居るようになった。そして何も言わずに簡易紅茶セットやカップなども出してくれた、そんな彼女に俺は頭を撫でることでしか応じることが出来ないが――耳や尻尾で喜んでくれていることが分かる。ただ、もうちょっと普段から手助けしてくれたらなと思わないでもない。

 お茶の準備が済み、ミラノに差し出すと俺も座るようにと言われたので黙って座る。それを見たミラノがなぜか満足そうに頷き、話を続けた。


「私たちがこの学園に来たのだって、半分は父さまが推し進めた事なのよ。

 昨日姫様との会話で出たオルバは九歳だけど、私たちも十でここに来てるのよ」

「――それ、十分に優秀じゃん」

「安全な場所に押し込んだとも言えるけどね。アンタはまだ私とかが居たから良いだろうけど、私たちは姉妹で支えあうしか無かったんだからね」


 感謝して欲しいって事なのだろうか? 苦笑しながら「ありがとう」と言うと「分かればいいのよ、分かれば」と言われてしまった。どうやら正解ではあったようだが、ミラノってこんなに物腰柔らかかったかなと違和感を覚えた。むしろ俺が使い魔であった頃のような口調と言うか、キツさが抜けたような感じだ。


「あらミラノ様。よく姫様との会話をご存知ですこと」

「アリアに聞いたのよ。また何か厄介な事になるんじゃないかと今から頭が痛いけど……」

「ふ~ん?」

「カティア、変な茶々を入れるな……」


 既にいくつか厄介事を抱えかけている。まず路地での出来事、クロエらしい人物の惨殺事件。街中での出来事、ヴィトリーによるお付の人への推薦。学園内、ミラノ達の父親から帰省の際には兄を演じるようにと言われてそれを承諾したこと。この三点ぐらいだろうか。

 少なくとも帰省してしまえば街中とは無縁になるので殺人事件とは縁が無くなるだろう、別に俺が率先して首を突っ込む必要は無い。姫様の件だって、ああは言ってはいたけれども側近やら大臣やら――当事者であるオルバが諌めてくれるだろうし、そもそも手出し出来る地位でも関係でもないのでどうしようもないと言うのが現状だ。ミラノやアリアから父親経由で何とかしてもらうしかないだろうなと諦めるしかない。

 となると最重要案件として対処しなければならないのは、クラインを――ミラノ達の兄であり公爵の息子を演じなければならないと言う点だ。その難しさを語った所で、ミラノはなぜか満面の笑みを浮かべた。


「まあ、アンタが兄さまを演じるって言うのなら出来るだけ多くの事を詰め込まないといけないわね。

 となると、帰省までの一日の行動スケジュールを全部見直さないといけないって事になるわ」

「ちっ、ちなみにですよ? どんな風になるんでしょうかね」

「そうね、半日は使うわ」


 はい、ほぼ死刑宣告みたいなのがきました。半日と言うのが午前であれ午後であれ、ここ暫くは自由に行動や活動できていたのがゴッソリと出来なくなる訳だ。アルバートとの指揮練習試合も延期になる可能性もあるなと眉間を抑えた。となると、自己鍛錬も勉強も費やされる時間と被らない様に調整しなければならない。下手すると削らなきゃならない事象も有るだろう、例えば独学の魔法の勉強や読書を通しての文字の読み書きだ。


「というか、何年も顔を見せていない息子が突如現れて家に仕える人や母親は疑問を抱かないのか?」

「兄さまは表向き昏睡していて、明かせぬ場所で治療していると言うことになってるから。

 領主がそう言っているんだもの、裏でどう思おうがそれが事実よ」

「乱心や執着してる訳じゃなきゃ、諌める意味でも態々言ったりはしないだろうからなぁ……」


 そして会話をしていて、なんか自分の言葉に違和感を抱く。そういえば柔らかい口調じゃなくて、兵士状態の自分になっている。別に戦いでも何でも無いと言うのに何故だろうかと考えてみたが、やはり困難や苦難だと分かっていることに対応しようとしているから余裕の有るノンビリボンヤリした自分じゃいられないからだろう。

 あるいは、ミラノの雰囲気が柔らかくなった事で油断しているのかもしれないが。


「数日準備させて」

「準備って、なんの?」

「もちろん、兄さまになりきって貰うために色々な情報を纏めるためよ。

 細かい所や些細な間違い程度なら、昏睡していた事を言い訳に出来るけど、出来るなら使いたくないかしら。

 ふふん、まあ見ていなさい。母さまを元気にして見せるんだから!」


 そう言ってミラノは手を握り締めて見せた。掴むとか、勝利するとか、そういう意味合いでやったのかも知れないが何ともまあ勇ましいことで。けれども、ただなよなよされているよりかはこちらの方が俺にとって好ましい。別に弱々しいのが嫌いではないけれども、勇ましいほうが好ましいと言うだけで他意はない。

 ただ、今まで半ば放置気味だったこともあって――やはり幾らか嬉しい所はある。だから笑みを浮かべて茶を飲むことで浮かべてしまった表情を隠そうとした。


「姉さん、帰省準備の方が殆ど終わったよ」

「お疲れ様、アリア」

「……?」


 なんか、アリアのミラノへの態度に違和感を覚えた。けれども彼女は普段から姉妹二人きりの会話では砕けているし、別に態度がおかしいわけでも無いのだけれども。何だろう、昨日一緒だった時は取っ付き易かったのに、今じゃ何か……”冷めてるIce Cube”。

 

「あとは国王様の視察が終わるくらいの頃に帰れるかなって、準備は進んでるかな。

 ――ヤクモさん、もう起きて大丈夫なんですか?」

「あ、うん。大丈夫。むしろ寝疲れと降って沸いた問題で少し困ってる」

「どういう事ですか?」

「帰省のときに母さまを元気付ける為に兄さまを演じるって話は知ってるわよね?

 その為に出来るだけ早いうちに、出来るだけ多くの事を教えないと、って」

「あぁ、そういうことでしたか。大丈夫ですよヤクモさん、姉さんと私が頑張って教えますから」


 そう言って、アリアの柔らかな笑みを見た瞬間、先ほど抱いた疑念は氷解する。なんだ、別に普段と変わらなかった。色々あって疑心暗鬼と言うか、神経質になっているのかもしれない。お茶を一度飲み干し、新たに注いでその熱さで舌先を幾らか焼いた。


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