トーリス、勝利

 その日、太陽が山や海、地平線のかなたに沈んでいく時まで、世界中の人々は底知れぬ不安や恐怖に包まれていた。戦う力も勇気も全く残されておらず、自分たちとは異なる力を持つ者たちこの世界の命運を託す事しか出来なかった人間たちは、ただ勝利を願って祈るしかなかった。だが、その祈りにはその力を持つ存在を完全に信じ、自分たちの未来の全てを賭けるという思いのみならず、ここであの存在が敗れ去った場合、自分たちはどうすれば良いのか、と言う将来を絶望視する心も含まれていた。人間たちの多くは、その力を持つ存在――ビキニ衣装の女勇者レイン・シュドーと同じ姿形を持ち、魔物の脅威から人々を守ってくれているはずだった存在・ダミーレインを、さらに力を高めた魔物によって敗北を重ねたことを理由に見放しかけていたからである。


 ダミーたちは今、最強の軍師である老婆ゴンノーと共に、恐ろしい魔物とそれを従える最強最悪の存在・魔王と決死の戦いを繰り広げている。人間たちが手も足も出ず、あの勇者たちでもレイン・シュドーと言う尊い犠牲が無ければ一時的に動きを封じる事も叶わず、さらに勇者や人間たちの思いを踏みにじるかの如く、途轍もなく強くなった魔物を率いて復活を果たした、世界そのものを揺るがしかねない脅威である。

 確かにゴンノーの言う事にほとんど間違いは存在しないし、2人のいう事を信じていれば魔物に襲われる事なく平和な日々を満喫する事が出来た。だが、日を追うごとに強くなる魔物や魔王を相手に、本当に勝つことが出来るのか、と言う不安が、人々の中からどうしても消えなかった。しかも、現在その戦いに向かっているダミーレインは、これまで人間たちの世界の元にいたダミー全員、文字通りの総力戦である。ここで負けでもしたら、完全に人間たちの前から未来は消え去ってしまうのだ。


 絶対に勝って欲しい、いや勝ってくれないと本当にお先真っ暗だ、その時の責任はどう取ってくれるのか、自分たちの将来はどうなってしまうのか。

 都合の良い思いや願望を託しながら、人々はただ祈り続けた。その意味が分からない子供たちもまた、不安にさいなまれるかのように家の中をうろつき回り、誰一人として外に出歩いて遊ぶ人も買い物に行く人もいなかった。まさにその1日、世界の時間は止まっていたのである。


 そして、その時間を再び動かすきっかけをもたらしたのは――。


『……聞こえますか……世界中の皆様、聞こえますか……?』



 ――突然人々の心の中に響いた、家族とも知り合いとも違う、老婆を思わせる不思議な声だった。全く予兆なく聞こえた謎の声に、多くの人々は怯え、中には泣き出しかける人も現れるほどだった。当然だろう、この世界に住むほとんどの人々は、このように耳ではなくの中に直接感情を訴えるような魔術を習得していないのだから。

 ただし、僅かながらそのような人々を鎮める存在がいる町や村が存在した。


「皆さん、落ち着いてください。この声は、軍師ゴンノーのものです!」


 ゴンノーに最も近い存在であり、魔術の勇者キリカ・シューダリア亡き後、この世界に残された最後の勇者であるトーリス・キルメンが、ゴンノーからの要請によりダミーレイン供出のための説得に向かった町もその1つだった。

 あの軍師ゴンノーと共に世界中の人々の希望の象徴となっていた彼の言葉を、そこに住む人々はほぼ無条件で受け入れていた。一時は何度も勇者が負け続けるという現実の前に見放しかけた住民たちであったが、ダミーレインと言う頼もしく麗しく、そして色々な意味で美しい存在をもたらした功績は、この負の側面を打ち消すほどのものだったのだ。

 やがて人々が落ち着き、安心したような表情を見せた所で彼は大声を上げ、どこかにいるであろうゴンノーに返答した。こちらでもしっかりその声が届いている、と。そして、それは良かった、と言う安心したような声と共に、ゴンノーははっきりと告げた。もう間もなく、ダミーたちが戻ってくる、と。


 それが意味する事は何なのか、飲み込みが遅い世界中の人々が理解するのに若干の時間が必要であったが、その答えに気づいた途端、人々は次々に各地の建物から飛び出し、夕日が照り始めている外へと駆けだした。勿論トーリスたちも同様に、喜びの表情に包まれ始めた町の代表者や住民たちと共に扉を乱暴に開き、やがて訪れるだろう来客を今か今かと待つこととなった。


 そして少し経った頃、赤く染まり始めていたはずの空に、点々と何かがこちらに向かってくるのが見え始めた。鳥にしては大きいし、雲にしては小さすぎる。だが、時間を経るごとにその何かは次第にその数を増し始め、まるで太陽を空の主役から無理やり蹴落とすかのように人々の視界を覆いつくし始めたのである。やがて赤色の空は、全く異なる色で埋め尽くされていった。それは世界中の人々の心に、失いかけていた希望、安心、そして欲望を再び燃え滾らせるような色だった。

 

「あ、あれは……!!」

「トーリス殿、まさか……!!」

「ええ、間違いありません!あれは……」


 魔王と魔物と言う脅威をついに打ち砕くことが出来た、ダミーレインの帰還である――トーリスが興奮したような大声を発した瞬間、空から一斉に温和な笑顔と共に優しい声が大音響で地上の人々を包み始めた。


「ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」ただいま戻りました」…


 1つに結った長い黒髪、背中に背負った名も無き剣、健康的な肌色を露出させる純白のビキニ衣装、そしてそこから覗かせるひと際豊かに実った胸――どの存在も皆、かつて魔王を一時的とはいえ自らの身を犠牲に倒す事が出来た最強の女勇者、レイン・シュドーと同じ体、そして同じ心を有していた。地上に改めて降り立ち、各地の町や村へと戻って来た無数の彼女たちを出迎えたのは、まさに本物のレインが戻って来たかのように喜ぶ世界中の人々だった。


「魔王が、魔王が倒されたぞー!」

「レイン万歳!!勇者様万歳!!」

「もっともっと帰ってきてくださいー!」

「私達信じてましたよ!!この勝利を!!!」


 緊張の糸が切れたかのように、人々は自らの思いを次々にダミーレイン――いや、新たに生まれ変わったであろうレイン・シュドーにぶつけた。勿論どの人々も抱く思いは1つ、魔王をよく倒し、この世界の平和を守ってくれたと言う歓喜だった。誰一人として、あの時ダミーレインを散々こき使い、人間たちの生活のほとんどを肩代わりさせた挙句役立たずだと卑下し、町や村から追い出すという暴挙にまで及んだことに対する反省の念を抱く者はいなかった。

  

 そしてそれは、人々にあの魔王征伐の真相を未だに語らないままのトーリス・キルメンも同様だった。誰一人ばれる事なく誠実な存在と言う仮面をかぶり続けたまま、彼は大量のレインの感触を思う存分確かめ、『勇者』と言う自分の地位が今後も揺らぐ事なく維持されていくという喜びを味わったのである。


「良かった……レイン、君たちが生きていたなんて……」

「ありがとうございます、トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」トーリス様」…


 そんな彼の『礼』を拒否する心を与えられていないダミーたちは、様々な裏心を秘めたその声を純粋に受け入れるかのように、純白のビキニ衣装に包まれた胸を押し付けながら彼を素直に歓迎した。まさに何もかもが、ゴンノーとトーリスの思い通りに進み、そして2人にとって最高の結末に辿り着いたのである。


 当然、その夜はほとんどの町や村も大量のダミーレインを交えての大宴会が開かれていた。人々はそれまで溜めていた不安や恐怖を晴らすかのように大量の食べ物や飲み物に溺れた。そして――。


「あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」あぁん……♪」あはは……♪」…


 ――世界を救った真の功労者のはずのレインが、このような恥ずかしさを含んだ声を出させるような事態も、各地で多発していた。一応それらのような行為を行った人間たちは、こうやって世界を救った勇者を祝福しているという思いを抱いていたものの、それらは全て純白のビキニ衣装のみを纏った美女に対する欲望を満たすための言い訳に等しかった。

 そして、その言い訳を心の中で行っている存在の中に、あのトーリス・キルメンも含まれていたのは言うまでもないだろう。今や彼は、まだ姿を見せていない軍師ゴンノーと共に、全てのレイン・シュドーを意のままに操る事が出来る存在となった。全ての人間、全ての力が、軍師と勇者の元に集ったのだ。


「あはははは!いやぁレイン、君たちも一緒に笑おう!これほどうれしい時はないじゃないか!」

「……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」……あはははは♪」…


 

 だがこの時、目の前の快楽に夢中になり続けているゴンノーは全く知らなかった。いや、過去の栄光の身に寄り縋り続ける彼に、その『事実』を知る事は不可能だった。

 確かにその夕暮れ時に、世界中のほとんどの空は栄光の帰還を果たしたダミーレインによって覆われ、空を黒、白、肌色へと変えていた。だが、それと同じ時に、ごく一部の町や村だけは、何故かそのまま美しい夕焼け空を臨んだまま、一日を終えてしまったのである。当然ダミーレインは一切帰還せず、勝利を報告するゴンノーの声も、その場所には届かなかった。


 何故このような格差が生じてしまったのか、その理由を知る者は――。



「……♪」


 ――

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