試験の鬼Ⅷ

「それで、先輩ってわけか」

「そうだ。だから忠告しておこうと思ってな」

 眉根を寄せた竜也に不敵に笑ってシェイドは続ける。

「あまり気に入られすぎるとこうしてここに縛り付けられるぞ」

「それは……」

 もう一度目の審理延長は受理されているはずだ。竜也はまだここに残るか決めかねている。そもそもの決定権はタナシアが持っているとはいえ、自分の気持ちに整理をつけられないでいる。帰りたいのならば、少なくとも彼女にはそれを伝えなくてはならない。

「私は今の生活にもそれなりに満足はしているが、昔が恋しくなることもなくはないぞ」

 そう言ってシェイドは部屋の天井を見上げた。

 自分の住んでいた部屋に似せて造ってあるとフィニーが言っていた。特別気にした様子もなくここでの生活を楽しんでいるように見えていたが、実のところは満たされているわけではないらしい。

 元の生活か、と竜也はシェイドに倣って天井を見上げてみる。中流家庭に育った竜也にはこの部屋はあまりにも生活レベルが違いすぎるが、よくよく見るとタナシアやフィニーの部屋と比べてリアリティがあった。

 例えば枕元にある小物が置ける小さなスタンド付きテーブル、何も入っていない空っぽのゴミ箱、趣を壊さないように隠されたコンセント。

 どれもきっとこの世界では使われることのない代物だが、それを配置しているのはシェイド自身が人間の生活から離れられていないということでもある。

 あの二人の部屋は人間のものを模しただけであるのに対して、この部屋だけはそのまま住めと言われても違和感なく入り込めるくらいの安心感がある。人間が住んでいる部屋なのだ。

「人間の生活、か」

「どうした、少しは恋しくなったか?」

「いや、なんだか余計にわからなくなったよ」

 タナシアに、誰かに勉強を教えるなんて生きていた頃には何度か考えたことはあっても実際にやったことはなかった。こうして誰かの部屋に遊びに行って何か助言を受けることもなかった。こちらに来てからの方がよっぽど人間のような、竜也が思い描いていた人間のような生活をしていると思える。

 だが、それはあくまでような・・・生活なのだ。周りにいるのは死神で、今いる場所も人の世にはない何かで形成されている。人形遊びのように、あるいは演劇のように人の真似をして過ごしているだけだ。

「私は帰ることができなかったからな。お前は後悔するなよ」

「まだ、帰れるかもしれないだろ」

 諦めたような口調のシェイドをいさめるようにこぼす。シェイドの体はまだ人間界で治療を受け続けている。それならばタナシアの言葉一つで戻ることも出来るはずだ。

「そうだ、そうに決まってる」

 そう思っていないと竜也自身が折れてしまいそうで、もう一度呟く。

 その言葉をシェイドは聞いていなかったように答えない。

「それじゃ、私の思い出話はここまでだ。少しは参考になったか?」

「あぁ、そうだな」

 大きく息を吐いて、竜也は深く体を沈めていたソファから立ち上がる。振り返って出て行こうとする竜也の背をシェイドは無言で見送った。

 中庭に戻ってきて竜也は倒れこむようにベッドに沈み込んだ。もうこの柔らかさにも慣れてきて、自分が生きていた頃のベッドと同じくらいに落ち着ける。

「元の世界に、か」

 シェイドの言葉を聞いてまだ、竜也は答えを出せないでいる。


「ねぇ、ここわかんないんだけど」

 視界に差し出された英語の短文をぼんやりと見つめたまま、竜也は昨日のことを考え続けていた。教科書がテーブルに叩きつけられる音がだんだんと強くなっていく。何度目かわからない大きな音で竜也はようやくはっとした。

「どうしたの? 昨日までは立場逆転とばかりに偉そうだったじゃない」

「そんなことないだろ」

「どうかしらね」

 タナシアの嫌味にもいい返しが浮かばない。真正面に座って教科書をこちらに向けたタナシアの姿を真っ直ぐに見てみるが、だからといって何が変わるわけでもなくただ不思議そうにこちらに首を傾げる少女の姿があるだけだ。

「私のことが怖くなった?」

 タナシアの問いかけに竜也はないはずの体を強張らせる。その小さな反応もタナシアの目にはしっかりと映ったようだった。

「ふーん、それで急に威勢がなくなったってわけ。わかりやすいわね」

「だからそんなことないって言ってるだろ」

 強がって見せた竜也の言葉など聞こえないというようにタナシアはわざとらしく首を振る。ここ数日厳しくしすぎたか、と後悔したところで竜也にできることはない。

「そうね、別に私はずっとアンタをここに縛り付けててもいいんだけど」

 にやりと何かを思いついたようにタナシアが顔を歪める。

「次の試験でちょっと私の手伝いをしてくれるっていうなら考えてあげなくもないわよ」

 人の命を天秤の片側に乗せておいて反対側に乗せるものはあまりにも軽い。カンニング一つで命が助かるというのなら普通の人間なら喜んで飛びつくことだろう。

「別に命が惜しくて悩んでるわけじゃない」

「へぇ、強がりね」

「それと、ここの問題。昨日やったやつと同じ構文だぞ。いい加減覚えろよ」

「何よ、急に。意外と元気じゃない。心配して損したわ」

 嘘をつけ、と悪態をつきたくなるのを堪えて竜也はまたノートに視線を落としたタナシアを見た。竜也の反応が思った以上に冷静だったせいか、からかいにとっくに飽きてまた問題とにらめっこしたまま手を止めている。

 その態度に竜也はぞっとした。

 彼女にとって人間の命なんてその程度のものなのだ、という考えが脳裏に浮かぶ。

 カンニングの対価として差し出してやれるようなもの。それは竜也の感覚からすればあまりにも軽い。

「もう本当になんなの? 調子狂うじゃない」

「なんでもない。お前がバカだなって思ってただけだ」

「まともに教えることも出来ないくせに言うだけ言わないでよ。この鬼、悪魔!」

「死神がそんなこと言えるか」

 投げつけられた消しゴムを顔で受けながら竜也は口喧嘩をやめようとはしない。自分の選択は未だに決まらないままでも、この関係、この瞬間は嫌いではないと思えた。

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