試験の鬼Ⅲ
一言で言い表すと、タナシアの学力は英語が壊滅的だった。竜也はタナシアから手渡された教科書に載っている例題を解かせながら、遅々として進まないシャープペンシルの先を眺めている。
「どうした。止まってるぞ」
「わかってるわよ。考えてるの」
そうタナシアは頬を膨らませるが、まだ一問目だというのに既に始めてから一〇分はゆうに越えている。教える側の竜也としてはそろそろ文句も言いたくなる頃合いだ。
「それで、いい考えは浮かんだか?」
「まだ、もうちょっと」
この調子だ。今やすっかり竜也のものになった中庭の白いテーブルセットに座っていたタナシアはその体を豪快に投げ出してテーブルに伏せた。こうなると簡単には起き上がらない。
「おい、まだそんなに時間も経ってないぞ」
「そんなこと言われたってわかんないものはわかんないわよ」
やっぱりわかってなかったのか、と竜也は頬を掻いた。
数学や理科系科目は知的生命体なら共通の認識になりうると言われるだけあって、死神も人間も対して知識に違いはない。地理や歴史はわからないようだが、暗記でなんとかごまかしは利きそうだった。
「そういえばみんな日本語で話してるんだよな」
竜也は改めて自分が違和感なくタナシアたちと話していたことに気がつく。人類の中でも決してメジャーとは言えない日本語をわざわざ死神たちが採用している理由がわからない。
「私たちは担当している人間の地区で使われてる言葉で話すから。アンタたちと話すのに無駄な労力使わなくて済むでしょ?」
「だったら英語で話す死神もいるんじゃないか?」
人間はみな等しく死を迎える。それは少なくとも人間の世界では常識だ。それならばこの死神たちの世界にも英語を話す人間を相手にしている者もいるはずだが。
「私、ここから出ることなんてないし」
「ひきこもりめ……」
シェイドの話によれば、少なくともタナシアは三年以上仕事を放棄したままひきこもり同然の生活をしていたはずだ。その間にまともに話す相手といえばフィニーとシェイド、あとはキスター様とイグニスくらいなものというわけだ。英語なんて対岸、いや昔の人間と同じように遠い海の向こうの言葉というくらいには離れたところにあるものだったのだ。
「とりあえずどこがわからないんだ?」
「だいたいなんで順番が決まってるのよ。ちょっとくらい入れ替えても意味わかるでしょ?」
「日本語とは違うんだから簡単にはいかねぇよ」
助詞を使う日本語と順序で文章の成分を分類する英語ではタナシアの言う通りにはいかない。教科書を読んで一つずつ理解してもらう以外に勉強に近道はない。
突っ伏したままのタナシアを見下ろしながら竜也はこれをどう教えてやったものか、と頭を捻る。そもそもそれなりの進学校に通う竜也にとっては基礎中の基礎の問題なのだから教えようにもわかって当然という感覚だ。
「ちょっと休憩」
まだ少しも進んでいないというのに、タナシアは微動だにせずそう呟いた。昔は優秀だったとフィニーから聞いていたが、どう見ても根っからの面倒臭がりにしか思えない。もしかすると、フィニーの中でタナシアの存在が美化されていないかとすら竜也には思えた。
「何で高一の試験受けようなんて思ったんだ?」
「え? 別に私の勝手でしょ」
「それはそうなんだが」
予想していた以上に強く言い返されて、竜也は言葉に詰まった。そこまで怒ることじゃないだろうと思いながらも頭の隅に考えていたことがタナシアに透けて見えたかと視線を泳がせる。
タナシアの見た目は
学力についてもそうだ。英語が壊滅的とはいえ他の教科が出来る以上、外見相応の中学レベルの試験なら優に合格することもできるだろうに。竜也自身は合格ラインを知らないとはいえ、人間界の基準に照らし合わせてみれば明確だった。
それをわざわざ失敗のリスクを冒してまで挑戦する意味が竜也にはわからない。そもそも合格しないようにと考えているなら、今までそうだったのように試験を受けないままでいればいいだけの話だ。
「もう休憩終わり。とりあえずここ教えて」
「急だな、おい」
むっとした表情は間違いなく竜也の考えを読み取っているようで、言い返す言葉もない。仕方なく竜也は結局少しも進まなかった例文の解説を始めた。
タナシアの相手を終えて、お礼の一つもないまま立ち去ったのを見送ってから竜也はさっきまでタナシアがそうしていたように白いテーブルに突っ伏した。疲れた。久しぶりに教科書なんてものを持ったような気がする。実際のところ時間としては数日くらいのものだが、まるで違う世界に連れてこられていたせいですっかり自分が学生だったということも吹き飛んでいた。
「こんなところにまで来ても勉強ってのはいるもんなんだな」
空想の世界なら異世界に来た人間はだいたい元の世界ではありえないような冒険に出たり、変な役職につけられたりするものだが、自分に与えられたのは死刑宣告を待つ身と、わがままな死神お嬢様の家庭教師だ。
「お疲れ様でした。タナちゃんの相手、大変でしたでしょう?」
だらりと体を預けていたテーブルの先でふわりと声がした。
「フィニーさん」
「コーヒー、飲まれますか?」
いただきます、と答えて竜也が体を起こすと、その先に湯気の立つカップが置かれる。その向かいに紅茶が置かれ、フィニーが腰を落ち着けた。同じ位置に同じ椅子に座っているはずなのに、タナシアと比べるとその物腰の柔らかさが全く違って、このおしとやかさの少しでもタナシアに備わっていれば、と思ってしまう。
「はい、お菓子もたくさん持ってきてますから。疲れたときには甘いもの!」
相変わらずどこから取り出したのかわからない山のようなお菓子がテーブルの上に投げ出される。そうだった。この人もまた、見かけによらず結構自由で不思議なのだ。
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