Ⅲ
「聞こえてますか? もしかして私、無視されてますか?」
震える声に振り返る。竜也の頬をつついていた指が深く刺さった。
その痛みもさほど気にならない。少し潤んだ目で竜也を見つめる顔を見てこちらが悪かったのだと反省するほどだ。
「えっと、なんでしょう?」
いきなり突きつけられた理解不能の状況と去っていく二人に気を取られてすっかりシェイドの後ろで震えていた彼女のことを忘れてしまっていた。
改めて彼女の姿を真っ直ぐ見る。ようやく気付いたが、彼女もまたシェイドと同じくメイドの格好で長い丈のスカートが汚れるのも気にせず石畳の床に膝をついている。彼女もまたあのタナシアの侍従をしているんだろうか?
「さきほどから何か独り言を呟いているみたいですが、大丈夫ですか?」
「あぁ、わかってます。少し混乱していて」
「そうですよね。人間は私たちのことを知らないですし、こんな不可思議なところに来たこともないでしょうし」
彼女の言う混乱と竜也の言う混乱の原因は全く違うのだが、お互いにそれとは気付かない。竜也は自分が床に座ったままだと気付いて立ち上がる。その姿に安心したように黒髪のメイドも立ち上がった。
「私はさっきの金髪の女の子、タナちゃん、じゃなかった。タナシアの補佐役をしています、フィニーというものです」
立ち上がったスカートの裾を両手で払い、丁寧に竜也にお辞儀をする。ゲームでは何度か見た光景だが、本物らしいメイドにこうして目前で礼を受けるのは初めてだった。美しい黒髪を少し乱しながら頭を上げたフィニーの表情は嫌悪感に満ちたタナシアやシェイドと違って柔らかくそれだけでどこか安心できる。
「それじゃ、フィニーさん。俺が今どういうことになっているのか教えてもらってもいいですか?」
もちろんです、とフィニーは微笑み返す。どうしてフィーユに似たタナシアがこの性格ではなかったのかと理不尽な願いを思いついて竜也は心の中で頭を抱えた。
「ここは裁きの間と呼ばれる天界の機関です。人間界で事故や病気などで
「第一審?」
「はい。近年人間界で人口の増加とともに天界に上る魂の数が増え
それは人間で言うところの生きるか死ぬか、ということだった。
「それで、一週間ここで過ごすってことですか」
「えぇ、その通りです。今までの人生では善とも悪ともつかない人間を我々が確かめるということです。とは言っても根っから悪が心に巣食っていそうでもなければ生還させるのが常なんですけれどね」
竜也さんは大丈夫そうですね、とフィニーは笑った。確かに竜也は悪人ではない。ただちょっと人と交流するのが苦手で、青春をマンガやらアニメやらゲームやらで浪費し、未だに空から女の子が降ってきて自分のことを好きになってくれるとか、自分に隠れた才能が開花してどこかの秘密組織と戦ったりする妄想に日々を無駄遣いしているだけだ。
とにもかくにも触らなければ害はない。夢見がちに天使の少女のイラストを眺めていても下手に
「でもさっきあのタナシアは俺を殺すって」
「そうなんですよね。タナちゃんは今職務放棄中と言いますか、判断することをやめてただただ天界送りにしてしまっているんですよ」
「そんなむちゃくちゃな」
たった一人の少女に気分次第で殺されてしまっては竜也としても納得がいかない。もはや命などどうでもいいと思っていた心は既にどこかに飛んでしまった。天使の存在を現世に知らしめるためにも竜也は生きて戻らなくてはならないのだ。
「ちょっと人間不信になっていまして。根はいい子なんですけど」
乾いた笑いを浮かべたフィニーもフォローする言葉が見当たらないらしい。直属の上司が仕事を放り出していて内心穏やかでいられるほうが難しいのだが。
「竜也さん。よかったらタナちゃんのこと協力してもらえませんか?」
「何で俺が?」
突然思いついたように言われて竜也は戸惑った。もしかして、これが審判、つまり自分の心の善悪を測っているのではないかとさえ思う。
「ここに来る人間というのは性質上今すぐ死にたいと嘆く者や逆に生き永らえたいと訴える者が多くなってしまうので、竜也さんみたいな人って珍しいんです。きっとタナちゃんも気に入ってくれると思います」
「だから?」
「こういう人間もいるって思ってもらえれば、少しはいい方向に向かうんじゃないかな、と」
ダメですか、と顔を
「……わかりました」
「本当ですか!? きっとタナちゃんも竜也さんのこと気に入ってますからそれとなーく距離を縮めていってください」
さっきの印象を思い起こす限りではそんな様子は少しもなかったが。ともかくフィニーはどこか勝算ありげに竜也の答えにはしゃいでいる。その姿を見ても竜也にはいったいどこからその自信がやってくるのかわからなかった。
もしも自分の生活をいくらか知っているなら女の子とまともに話すことすら困難だということくらいわかっていそうなものだ。それどころか竜也は恋愛シミュレーションゲームの二択すら外すほどの恋愛音痴だというのに。
それでは、とフィニーがもう一度頭を下げた。長いスカートに厚手のメイド服でありながら、その動きは軽やかだ。泣きそうな顔で竜也の頬をつついていたのと同じには見えない。まだ聞きたいことがある、と階段に足をかけたフィニーを竜也が追いかけようと走り出した三歩目、何もないはずの空間に竜也は頭を強く打ち付けた。
「痛ってぇ!」
何の予測もしていなかった不意打ちに思わず尻餅をつく。石畳の床で腰を打ち、さらに悶絶させられた。そういえば左頬も殴られている。散々な日だ。
「だ、大丈夫ですか?」
「えぇ。それよりこれなんですか?」
竜也は自分がぶつかったのはなんだったのかと前を見るが、フィニーの後ろには五段だけの短い階段と暗くて先の見えない廊下が続いているだけだ。
「ごめんなさい、言い忘れてました。ここタナちゃんが結界を張っていて、竜也さんは出られないんです」
石畳の床に描かれた白い
「私たちは通れるんですけど、竜也さん、というか人間には通れなくなっているんです」
「人間には、ということはやっぱりフィニーさんたちは人間じゃないんですね?」
わかっていたことだが、竜也は聞かずにはいられなかった。ここが天界だと聞いたときに竜也の中に浮かび上がった気持ちは後悔でも諦めでもなく希望だった。
竜也の目の前に立つ人間ではないメイド服の少女。
「そうですね。人間界で私たちはこう呼ばれています」
にこりと微笑んだ少女の口からその答えが
「
――死神。
今度こそ立ち去ったフィニーの後ろ姿を見送って、竜也はその場にへたり込んだ。
やはりここにも天使はいなかった。
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