花嫁が恋したら
荒城 醍醐
花嫁が恋したら
「信じられる? 結婚式はもう、明日なのよ。ご機嫌伺いに来るのなら、今夜が最後のチャンスだわ。なのに、ま~だ来ない。信じられる?」
ブランシュ王女は、ドレスの裾を乱暴に持ち上げ、ソファーの手すりに腰掛けて脚を組んだ。
「来ないつもりなんだわ。昨日着いていたのに。明日の結婚式まで、花嫁の顔を一度も見ないつもりなのね。・・・・・・いくら政略結婚って言っても、そうも割り切れるもの? 婿養子になるのがそんなにお気に召さないのかしら」
王女の愚痴は、ほとんど独り言のようなものだが、部屋の入り口では、心配そうに見守るエレオノールが控えていた。
この国の王女ブランシュは、明日の結婚式を前に挨拶にも来ないまだ見ぬ花婿、隣国のジュアン王子に対して、どうしようもなく怒っていた。そして、結婚式でブライズメイドを務める従姉妹のエレオノールくらいしか突っかかる相手がいなかったのだ。
「あなたはいいわよね、エレオノール。式進行の相談にかこつけて文通なんかしちゃって。明日グルームズマンを務めるアルフォンス殿は、式のあとも王子のお付きとしてこの国に留まるそうじゃないの。チャンスたっぷりね」
「ありがとうございます」
エレオノールは素直に礼を言った。
「まあ! イヤミも通じないくらい夢中なの? 国中の独身貴族をひざまずかせた『麗しのエレオノール』が懸想するなんて、いったい、どれほどの男かしらね」
「詩人のような方ですわ。文だけで、わたしを和ませて幸せな気持ちにしてくださいますの。戦場で手柄を立てられるようなタイプの殿方ではないのでしょうけれど、その繊細さが魅力なんですわ」
「その詩人のアルフォンス殿は文通相手に、もう、会いに来たのかしら?」
「明日の結婚式までは、会わないでおきましょうということになっていまして」
「あ~ら、それは、それは」
このままエレオノールと話していても、自分がますますみじめになるだけだと気がついた王女は、ひとつため息をついて、静かに言った。
「もう、いいわ、エレオノール。明日はあなたのほうが大変なのに、わたしの愚痴なんかにつき合わせてごめんなさいね。もう遅いからお休みなさい。わたしはひとりでこれからの人生について考えることにするわ。それとも、幸せだったこれまでの人生を振り返ったほうが有意義かしらね」
国を継ぐ男子が居ないのだから、長女である自分が婿を取って女王として国を治めていかなければならないということは理解できているのだ。しかし、会ったこともない隣国の第二王子が相手というのは、簡単に納得できるものではない。
「では、お先に失礼します。王女もどうか早くお部屋に戻ってお休みください。寝不足でくまなど作ったりなさらぬように」
エレオノールはお辞儀をして下がっていった。
ひとりになって、静かに考えることは、王族としての義務と統治についてから始まったが、身分ゆえに実らなかった幼いころの自分の恋の思い出や、結婚にあこがれていた少女の自分についてとなると、またため息が出た。ろうそくのゆれる明かりに照らされた、漆黒の花嫁衣裳と純白のヴェールを見ると、さらにため息が出た。
そのとき、風の音がして、ろうそくの火が大きく揺れ、いくつか消えてしまった。
「あら」
窓が開いていたんだわ、と立ち上がって窓側を向いたブランシュは、窓の前に誰か立っているのに気がついた。
「そこに居るのは誰です!?」
その人物は、ゆっくりと明るい場所まで歩み出た。見たことのない若い貴族だ。彼はうやうやしくお辞儀をして名乗った。
「怪しい者ではありません。わたくしはジュアン王子の従者として参ったアルフォンスと申します。失礼ですが、エレオノール嬢ではありませんか?」
これが、エレオノールの愛しい『詩人』様か。窓から入ってくるとは、たいした『詩人』ぶりだ、などと思いつつ、アルフォンスと名乗った男をまじまじと見る。なかなか精悍な顔立ちで、長身でがっしりした身体つきも詩人というより武人を思わせる。
この部屋は、花嫁の控え室で、明日の結婚式のための準備の部屋だ。夜になってひとりで残っているのは、花嫁側の準備を取り仕切るエレオノールだと思ったのだろう。明日まで会わない約束が、我慢できずに会いに来たということだろうか。
間違えているなら、そのままにして、どういう男か見定めてやろうか。と、いたずら心が芽生えたのは、自分に会いに来ないジュアン王子に対する憤りのせいだったかもしれない。エレオノールがアルフォンスという男を、見たこともないくせに褒めちぎっていたことに対する反発にも由来するのだろう。
プレーボーイの化けの皮を剥ぎ取ってやるとすこしは気が晴れそうだと、このときは思ったのだ。
「アルフォンス様? 明日の結婚式まではお会いしないということではありませんでしたの? そもそも、あなたが本物のアルフォンス殿かどうか、証明することができますか?」
ここで、証明するために、本物のエレオノールへの手紙の一節でもを読み上げられたら、王女の方こそ知らない内容だから真偽の判断に困るところだけれど、エレオノールがアルフォンスと文通していたのを知るのは、本人達を除けば王女だけのはずだから、文通のことを証明に取り上げた時点で本物と判断しても良いだろう、と思っていた。
しかし、アルフォンスが示したのは別のものだった。彼はロザリオを取り出して王女に差し出した。
「王子より、これを預かってまいりました。この品は結婚前に王女から贈られた品々のうちのひとつだとか。お確かめください」
それは、隣国の婚約者に当てた贈り物のひとつで、子供のころから王女が身につけていたものに違いなかった。
「たしかに、これは王女が王子にお贈りになられたもの。これを持っているということは王子が遣わされた人だという証。もしそうでなければ、見事な腕の泥棒さんということですね」
アルフォンスは無言のまま屈託ない笑みで答えた。
ブランシュも微笑み返し、そして真顔になって言った。
「身分を証明するためにそんな大事なものまで王子に預かって来たからには、なにか重大な御用がおありなのでしょうね」
単にエレオノールに会いたかったから来た、などと言う男なら、この場でエレオノールとしてこっぴどく振ってやろう、と王女は思っていた。
「はい。この国に来たばかりで、あなたの他に、信頼できる人物を知りませんので、あなたにご相談したかったのです」
おや? どうやら色恋の話ではない様子だ。ブランシュは、エレオノールのフリをしてからかおうとしていることを、少しだけ悔やんだ。
「実は、今日、王子がお部屋の窓から町を眺めていたところ、鳩が近くで羽を休めておりまして、脚に書簡を携えておりましたので、パンくずで誘って捉えて開いてみたのです」
「おやまあ、王子様は他人の伝書鳩の書簡を盗み見る趣味がお有りなのですか?」
「いえ、これはわたしの申し様が間違っておりました。鳩はカラスかなにかに追われて傷を負っておりまして、王子は手当てをしてやろうと引き寄せたのです。傷を見てやっているうちに書簡が落ちて、中に気になる単語が見えたので開いてみた、とおおせでした」
「あ~ら、おやさしい王子様ですこと、で、気になった単語というのは?」
王女は、アルフォンスが言い直した『真相』を疑っている様子を隠さなかった。
「『結婚式』という言葉でした。開いてみると、そこには明日の結婚式でよからぬ事をたくらんでいると思われる一味の、打ち合わせの時と場所が記されていたのです」
王女は眉間に皺を寄せた。明日の結婚式は、彼女にとっては不本意なものだが、この国の将来にとっては重要な意味を持つのだ。
「それはたいへんです。すぐに調べさせましょう」
「あ、いえ」
ただちに人を呼んで対処しようとした偽エレオノールことブランシュ王女を、アルフォンスはあわててとめた。
「事が事です。明日の結婚式にかかわるのは、この国の主だった方々。その場でなにかをしようというからには、結婚式にかかわれるような立場の人物が仲間に居るに違いありません。おおっぴらに動けば、すぐにあちらに勘付かれてしまうかもしれません。できればわたし自身で彼らのたくらみを確認したいのです」
「わたくしの・・・・・・この国の王家の家臣を疑っておられるのですか?」
「そういうことになってしまいますね」
アルフォンスは悪びれずに答えた。ブランシュはムッとしたが、アルフォンスの真剣な態度に怒りを抑えた。
「調査の手配をさせるつもりでないのだとしたら、わたしに何をさせるつもりで来られたのですか?」
「書簡にあった打ち合わせの場所が、よそ者のわたしにはわからないのです。それであなたに教わろうと思いまして。エレオノール嬢は『ポルタ』と呼ばれる酒場かなにかをご存知ですか?」
城外に身分を隠して出たこともほとんどない王女は、実はあまり街のことをよく知らなかったが、たまたま、その名には覚えがあった。たしか西の市のはずれの酒場がそう呼ばれている。
「わ、わかりますわ。西の市のはずれの酒場です。でも、それだけなら、街で誰かに尋ねればすむはずです。まだ、あなたはわたくしの質問に答えていないことになりますね」
「おっしゃるとおりです。わたしでは、その場所がわからなかったのと同様に、そこに集まった輩の顔を見たとしても、どんな地位の誰であるかわかりません」
「わたしに面通ししろとおっしゃるのですね」
「・・・・・・はい」
アルフォンスの返事には、強い決意のようなものが感じられた。連れて行くからには、必ず危険から守るという決意であろう。
ブランシュは青くなった。酒場に行くことが怖いのではない。軽い気持ちでエレオノールの名を騙ったことに対する後悔の念のためだった。
本物のエレオノールであれば、結婚式の関係者の顔と名はすべて知っているといっても過言ではない。結婚式の警備から花かざりまで、彼女が主となって準備を進めているのだから。ところがブランシュは、ほとんどの者の名を知らないと言ってよい。
今からでもアルフォンスに真実を告げてエレオノールを呼びに行こうか、と迷っていると、アルフォンスがいきなり近寄ってきた。
「えっ?」
アルフォンスはブランシュの肩を強く抱き寄せ、自分が入ってきた窓の方へ連れて行った。
「手荒なまねをしてごめんなさい。でも、想定していたよりも場所が遠い。もう時間がありません。危ない目には遭わせません。わたしがこの身にかえて、あなたをお守りします」
アルフォンスが耳元でささやくのを聞きながら、ほとんど足が床に付かないほどに持ち上げられるようにして連れられて、気がついたら、アルフォンスの左足と上半身は、もう窓の外だった。ブランシュの頭も、窓から突き出した状態になっていた。暗闇の中、松明に照らされる石畳は遥か下だ。落ちたら命がない高さだ。
『危ない目には遭わせません』と言いおわったとたんに、いきなりこれでは、この先はどうなるのか。いや、ここで落ちたら、この先はない。
ブランシュは悲鳴をぐっと飲み込んで、へたに動いてバランスを崩させぬよう、身体を硬直させた。ブランシュを抱えて完全に窓の外に出ると、アルフォンスは二メートルほど離れた屋根の上に飛び移った。ブランシュは抱きかかえられて空を飛びながら、すーっと気が遠くなるのを感じていた。
アルフォンスが屋根の上を走り、塀を飛び降りるたびに、身体が揺れるのを遠くで起きていることのように感じながら、ブランシュはかろうじて意識を繋いでいた。石畳に下ろされたとき、ひとりで立てたのは奇跡だったかもしれない。
「この壁をあなたを抱えて登ることは、さすがに無理ですね」
最後に飛び降りた身長の倍ほどある外壁を見上げてアルフォンスが言った。彼が上を見上げたのは、足元がふらついたブランシュが体勢を立て直すまで、彼女から視線を意図的にそらすための気遣いからくるものだったようだった。それに気付きながらもブランシュは彼の言葉に噛み付いた。
「それではいったい、わたしはどうやって戻るのです?」
「あなたは堂々と正門から入っていけるでしょう?」
アルフォンスはブランシュを見下ろして笑顔で言った。たしかにエレオノールであれば問題なく出入りできる。しかし、王女ブランシュの場合、いつの間に外に出たのかということが問題になって、一騒ぎ起きそうだった。だからといって、今さら正体は明かせない。心配事を先送りにして、アルフォンスの笑顔を見上げて、不愉快そうに見えるように眉をしかめてみせた。
そのときになって、ブランシュは気がついた。アルフォンスの顔が近い。まだ彼に肩を抱かれたままだ。
「は、離してください。自分で歩けます」
「そうですね」
肩を抱き続けていたことをわびもせず、にこやかにアルフォンスは言った。
「さあ、急ぎましょう。時間がありません」
先に立って歩き出したアルフォンスは、どうやら西の市の場所を心得ているようだった。昨日この国に来たばかりのはずなのに。おおかた昨夜あたりも今夜のように城を抜け出していたにちがいない。
夜も遅くなり、通りにはほとんど人影がない。アルフォンスはかなり早足で歩いていて、置いていかれまいとするブランシュは駆け足になっていた。
西の市にある門の横の酒場には、まだ明かりが灯っていた。上の階が宿屋になっている。
王女の結婚式の数日前から、城下は毎夜お祭さわぎとなる。今日も前祝いで遅くまで騒いでいるところもあったが、もう、ほとんど店じまいしている時間だ。
ポルタという木製の看板が掛かった酒場の入り口は小ぎれいで、裕福な市民が入ってもおかしくないような店構えだったが、アルフォンスは金糸の刺繍入りの一見して王侯貴族と判る格好だし、ブランシュも普段着とはいえ王女の地位にふさわしいドレス姿で、とても一般市民やただの貴族には見えない格好だった。
「せめて地味な外套でも着てくればよかったですね」
入り口を前に、二人は中に入れずにいた。このまま入れば注目を浴びるのは目に見えている。
「この陽気で外套など着たら、それこそ怪しすぎますよ。さて、耳はいいほうですか?」
アルフォンスが指差したのは、店の中の明かりと喧騒が洩れている窓だった。
二人は、あたりにこちらを見る人が居ないのを確認し、窓のところへいって並んで窓の下に座った。
窓は小さく、ふたり並んで座るとアルフォンスの顔が異常に近くなり、ブランシュは気になって、そわそわしてしまう。何かで気を紛らわそうとしてはじめて、この窓の下に来た目的が中の会話を盗み聞きすることだったのを思い出して、必死に耳に神経を集中した。窓際の席に座っている客たちの声が聞こえる。
聞えてくる話の内容は、自分たちの娘の結婚にまつわる自慢話だった。アルフォンスはブランシュに向かって、この声の主たちは目当ての一団とは違う、と、首を振った。彼は窓の縁に手をかけて、ゆっくりと中を覗き込んだ。ブランシュもそれにならう。
中では、四組の集団が酒を酌み交わしていたが、奥のカウンター近くの三人組だけが、笑顔もなく話をするでもなく店の入り口を注視していた。見るからにあやしい。
やがて入り口から一人の男が入ってきて奥の三人に声をかけた。
「揃ってるようだな。奥の間で話そう」
甲高い声で、裏声が混じる特徴的なしゃべりの男だ。彼が合流すると、四人でカウンターの奥の別室へ移動していく。
その四人組が入った部屋は、ブランシュたち二人が今居る窓のひとつ隣の窓がある部屋だ。二人は互いに目配せして、姿勢を低くしたまま隣の窓の下に移動して座った。窓は閉まっているが、耳を澄ませると、四人組の会話が聞えてきた。
「・・・・・・だから、鳩は当てにならんと言ったではないか」
「人を使えば、さらに危うい。二羽のうち一羽は届いたのだ」
「届かなかった一羽の行方を問うておる」
どうやら鳩の文にかかわる一味に間違いないようだ。
「もう、よいではありませぬか。あの文ではせいぜいこの場所とこの時刻しかわかりません。それとも今から場所を移しますか? 念のために」
「その必要はないでしょう。あとは明日の実行の合図と役割を確認するだけだ」
「明日の結婚式、枢機卿が祭壇前に立って誓いの言葉を促すときに、右手を上げるのが合図だ。おまえたちふたりは十字架を押し倒し、すぐさま隠し扉から逃げるのだ」
甲高い声の男がリーダーで、役割を指示している。
「あの十字架の下敷きになれば大怪我ではすまないだろうな」
「ふん。神のご加護があるのなら命は助かるかもしれんがな。それでもかまわん。十字架の下敷きになるということに意味がある。倒した者が見付からないとなれば、神が下された鉄槌ということになるからな。ふふふ」
祭壇の十字架を倒して、あわよくばだれかを殺そうということらしい。しかも、その合図をするのが結婚式の神父役を務める枢機卿だと言っているのだ。
「しかし、礼拝堂の誰からも見られないようにするためには、われら二人は台座の背後に身を隠さねばならぬ。枢機卿の手が上がるのを確かめる術がないぞ」
「そこで彼の出番だ。枢機卿の手が上がったら、わざとらしく大きな咳払いをするのだ」
「結婚式の誓いの儀式の最中にか? 罰せられるぞ」
「普通ならな。しかし、どうせその直後にめちゃくちゃになる式なのだ。咳払いなどだれも咎めるものか」
たとえ気に染まぬ結婚とはいえ、国の行事でもある結婚式をめちゃくちゃにされてもたまらない。男達のたくらみを盗み聞くブランシュは顔をしかめた。
「わたしは、明日は招待客のひとりとして、ゆっくり見物させてもらう」
甲高い声の男が言った。
「では、明日」
「ふむ」
話はすぐに終わってしまった。男達は解散してしまうらしい。ブランシュはあわてて元の窓に戻って窓枠から顔半分を出して、奥の部屋から出てくる男達の姿を確認しようとした。
エレオノールであれば、彼らが何者かわかったかもしれないが、ブランシュにはわからない。かろうじて一人、羽飾りが付いた帽子を被った男だけ、見覚えがある。四角顔で、眉の端が上へ向かって跳ね上がっているのが特徴的だ。式場の準備でエレオノールと打ち合わせをしていた男だ。この店に後から入ってきた甲高い声の、一味のリーダーらしい男。
ああ! エレオノールなら確実に知っている男だろう。
「やつらが何者かわかりましたか?」
アルフォンスに訊かれて困ってしまった。
「ひ、ひとりだけ、最後に来た声の高い男に見覚えが。でも誰だったか思い出せないのです。城へ戻れば思い出すかもしれません」
戻ってエレオノールに訊いてみればわかるだろう、と彼女は思った。
「そ、それにしても、合図を出すのが枢機卿とは驚きましたわ」
立ち上がってドレスのほこりを払う動作をしながら、ブランシュは話題をそらした。実際、それはとても興味深い話題だった。
結婚式の神父役を務めるグランヴェル枢機卿は国王の知己でもある。ブランシュは面識がないが、国王からは温厚な人物と聞いていた。まさか、この国に仇なすたくらみに加担するとは、信じがたいことであった。
アルフォンスには、枢機卿について思い当たることがあるようだった。
「グランヴェル枢機卿は、間もなく開かれるという公会議にも大きな影響力を持つ人物です。この国でなにかをたくらんでいるとしたら、それは教会分裂にかかわることなのでしょう」
今は、教皇が三人並び立っている教会分裂の時代だった。長年アヴィニョンに置かれた教皇庁の教皇に対し、ローマで教皇が擁立され、さらに両者の分裂を収めようとしたピサ教会会議で三人目の教皇が選出されていた。この国は元々アヴィニョンの教皇を推す立場だったが、近年フランス王国にならってアヴィニョン教皇庁不支持に転じたのだった。一方、ジュアン王子の国は、今もアヴィニョン教皇庁を支持する立場であった。今回の結婚は、宗教的には微妙な意味を持つ。さらに、グランヴェル枢機卿は元々アヴィニョン教皇庁の枢機卿だ。もしも彼が権力闘争に明け暮れるような人物なら、この結婚をぶち壊しにしようという動機は十分にあると言えるかもしれない。
「だとして、ねらわれているのは誰だろう。エレオノール、式場の配置を教えていただけますか? 誓いの儀式のときの人と物の配置を」
ブランシュは夕方に式場となるサンタマリア大聖堂で行なったリハーサルの様子を思い出そうとしていた。こんなことなら代役を立てずに自分が本人役で参加すればよかったと後悔していた。リハーサルは人の動きと行事の流れを確認するものだから、見て覚えたので十分だとエレオノールに主張したのはブランシュであり、結局代役に歩かせて、自分は遠くから見ていただけだったのだ。
なんとか、式場の物と人の配置の記憶を搾り出して、アルフォンスに説明する。
「式典用に作られた大きな十字架とキリスト像が、祭壇の背後に立っています。それがまっすぐ前に倒れたとして、下敷きになりそうな位置にいるのは、王女と王子。でもその方向には枢機卿自身も立っているはずです。ですから前に倒すのではないと考えるべきでしょう。やや離れて王女の横に立って見届けられるのは、国王陛下おひとり」
「国王陛下が標的だとおっしゃるのですね」
「アヴィニョン教皇支持からわが国が外れたことに対するいやがらせか恨みか、理由はわかりませんが、式場の配置からすれば、そうなります。他の人物は離れすぎていますもの。未然に防ぐには、枢機卿が合図をする前に取り押さえないと」
「それはいけません。証拠もなしに未然に枢機卿を取り押さえたりしたら、それこそたいへんなことになりますよ。やつら一味を一網打尽にして、計画を自白させられるなら別ですが、われわれは顔をよく見ていない。幸いなことに、やつらが事を起こす合図と、その合図で何を行なうかがわかっているのです。『十字架を倒す』というのですから、倒れる十字架が届かない場所は安全です。正しく対処すれば国王陛下に危害が及ぶ心配はありません」
「合図と同時に国王陛下を移動させ、枢機卿を取り押さえると?」
アルフォンスは頷いた。
「そのときなら、咳払いして合図を中継する者も特定できます。その者と、隠し扉から逃げるふたり、それに、あなたが知っているという、あのリーダー格の男を取り押さえれば、我々が知る限りの事件に加担した者すべてを捕らえることになります。結婚式は、台無しになってしまいますが・・・・・・」
「でも、祭壇の近くには兵は立ちません。いったい誰が国王陛下をお助けし、誰が枢機卿を取り押さえます? 枢機卿にも護衛がついてきています。儀式中は離れていても、騒ぎが起きれば護衛も動くでしょう。枢機卿を捕らえるならすばやく近づかないとめんどうなことになります。でも、グルームズマンのあなたは、ブライズメイドの・・・・・・わたくしといっしょに、パイプオルガンを隔てた反対側です。遠すぎますね」
実際にはブランシュは花嫁として祭壇の前に立つのだから、行動できる立場だ。あとは、祭壇の近くに立つのは花婿のジュアン王子だ。はたして彼は頼りになる男だろうか。
アルフォンスはしばらく思案して、真顔で言った。
「わたしが王子のかわりに祭壇前に立ちましょう」
「え?!」
「幸い、この国でわたしと王子の顔を知る方はほんの数人。外交でわが国に来られた国王陛下と側近の方々のみ。わたしたちが入れ替わっても気付かれません」
「な、ならもうひとりはわたしですわね。わたしも、王女の身代わりになります! 花嫁はヴェールを被っていますから、王女と入れ替わっても遠目にはわかりませんわ。国王陛下をお助けするのがわたし、枢機卿を取り押さえるのがあなたでよろしい?」
実際には、王女であるブランシュが当たり前のように花嫁としてそこに居ることになるのだから、それは入れ替わりでも何でもなかった。しかし、こう言っておかないと、アルフォンスは式場でブランシュの正体に驚いてしまって、枢機卿を取り押さえるどころではなくなってしまうだろう。
いずればれてしまうことだが、少しでも後に伸ばしたい、ともブランシュは思った。
「どのみち王女を危ない目に遭わせるわけにはまいりませんもの」
ブランシュはアルフォンスの目を見つめた。この男と、明日、結婚式の花婿花嫁として祭壇の前に立つ・・・・・・。本当に結婚する相手はまだ見ぬジュアン王子だが、明日の結婚式では、おたがいに代役として出るのだ。ブランシュの方は、王女の代役をしているふりをするわけだが。
そう思うと、目の前の男が特別な存在のように思えなくもない。王女という立場ではあっても、ブランシュにも結婚式に対するあこがれのようなものはあったのだ。
そんなブランシュの気持ちを知ってか知らずか、アルフォンスは言った。
「枢機卿が合図をするのは誓いの前ということになりますから、わたしたちが偽りの誓いをしなければならなくなる心配はありませんよ。事件が起これば、そこで式は中断でしょう。一味を捕らえて、事が解決してから、本物の花嫁と花婿がゆっくりと儀式を行なえば良いでしょうね」
ブランシュの胸の中で盛り上がっていた想いが、しゅんとしぼんでしまった。その想いが何であったにせよ、第一位の王位継承権を持つ王女にとっては許されないものであり、ブランシュの理性は自らの感情を恥じた。だが、彼女はそんなことで落ち込んでしまうような控えめな性格の持ち主ではない。逆に笑い飛ばそうとして言った。
「もしもあの一味が不手際で、悪巧みを実行し損ねたらたいへんですわね。わたしたちがそのまま式を続けなければならなくなりますもの」
アルフォンスはブランシュの反応に目を丸くし、そして笑顔になった。その様子を見て、ブランシュは確信した。
この男はプレイボーイだ。
さっきの『偽りの誓い』のくだりは、モノにした女の子の恋心に冷や水を浴びせて反応を楽しむプレーボーイのおふざけだったに違いない。その言葉で女の子が落ち込んだところへ、なにかやさしい殺し文句をかけて、完全に落とすつもりだったのだろう。
今回は落ち込むはずだと思った相手がジョークで返したので、面食らったに違いない。エレオノールはその手で落ちたかもしれないが、自分には効かないぞ、とブランシュは心の障壁を高くした。
さて、次はどんな手で来る? と、ブランシュは身構えた。
「そうですね。それはこまったことになるなぁ。一味には予定通りがんばってもらわなくちゃ」
アルフォンスは笑っていた。とても素直な笑顔だ。警戒しすぎただろうか、とブランシュの心は揺れた。
いずれにせよ、自分は明日には結婚する身であり、この男の本性に触れる権利があるのはエレオノールたち独身娘だけなのだ。
「それでは城へ戻りましょうか。お送りしますよ。窓までは無理ですがね、門が見えるところまで」
城からブランシュを抱いて抜け出してきた場所まで戻ると、アルフォンスは本当にブランシュを置き去りにしてよじ登りはじめた。あきれて見上げるブランシュの頭の高さまで登ったところで、彼はブランシュを見下ろして軽薄そうに笑って手を振った。
「それでは、エレオノール。明日、祭壇の前でお会いしましょう」
ブランシュはこれから門番に何と言って入城しようかと考えて心細くなりながら、精一杯の呆れ顔を作ってアルフォンスに手を振り返した。
門番には、高飛車に王女だと名乗ってエレオノールを呼び出し、面倒なことは彼女に任せることにしようか、とブランシュは漠然とした計画を立てた。エレオノールは、やっかいごとを四方丸く収めることに長けているから、誰も困らないように収めてくれるだろう。
エレオノールに頼ろうと考えると、彼女と彼女のお相手のことを思わずにはおられなかった。城門へ向かって歩きながら、ブランシュは考えた。
エレオノールはブランシュの同い年の従姉妹でいて、姉のような存在でもある。何においても彼女はブランシュより優れており、国王の信任も厚く、なによりも美人だ。アルフォンスは、今までエレオノールに言い寄ってきた国内の男たちに比べると、まあマシな部類かもしれない。ユーモアは持ち合わせているようだし、運動神経もよさそうで、顔立ちも整っている。しかも、すでにエレオノールを虜にするほどの文才がある詩人だというのだから、彼女にふさわしい男なのかもしれない。
「わたしだって……」
ブランシェは自分の声におどろいた。思わず声に出していたのだ。
『わたしだって』何だと言いたかったのだろうか?
わたしだって、王女じゃなければ、今みたいにひねくれた性格にならず、エレオノールみたいな素敵なレディになっていた?
いいや、エレオノールのことは良いのだ。自分はエレオノールにはなれない。今夜だって、アルフォンスは文通相手のエレオノールと、ブランシュが演じたエレオノールとのギャップにがっかりしてるかもしれない。明日には本物のエレオノールが、そのギャップを取り除いてくれるだろうけれど。
わたしだって……。
「わたしだって、王女じゃなければ、自分で相手を選べて……彼とだってチャンスがあったのよ」
ブランシュは自分が思わず口にしそうになったことを、的確に理解し、気持ちに区切りをつけるためにはっきりと口に出して言って、そして、大きなため息をついた。
結局のところ、彼女は王女でしかないのだ。
城門が近くなっていた。
そのとき、石畳を踏みしめる音がして、音のほうを見てみると、やや離れた路地を歩く人影が見えた。
羽飾りが付いた帽子をかぶった男が一人で歩いている。
あの、悪巧みをしていた四人の中のひとりだ。帰り道のようだ。
あの男がどこへ帰るかをつけて行って突き止めれば、エレオノールに男の素性を尋ねなくても済むかもしれない。
男の素性を尋ねるには、今夜のことをいろいろ……おそらく正直に、エレオノールに話さなければならない。しかし、男の素性がわかれば、すこしはエレオノールに隠し事をしても済むかもしれない。とっさに男のあとを追い始めた動機は、そんなところだった。
男との距離は五十メートルほどあったので、見失わないように早足で追いかけたブランシュだったが、もちろん王女である彼女は、夜中に誰かを追跡するなどということはまったく体験していなかったし、そのための知識もなかった。静まり返った街中に、自分の早足の足音が響いてしまっていることを、彼女は重視していなかった。その音がどれくらい離れたところまで伝わるかも理解していなかったのだ。
男は少し歩調を早めて、暗くて細い路地に入っていった。見失うまいと急いで、ブランシュもその路地に入った。月明かりが届かぬその路地は、ほとんど真っ暗だった。
三十メートルほど先の別の通りとの交差点は、月明かりに照らされて見えていた。しかし、そこまでの路地の途中は、まったく明かりがなく、男の姿も見えない。
ブランシュは立ち止まって、様子をうかがった。男が歩く足音は聞えない。彼女がここまで来る間に、向こうの通りに抜けてしまったのだろうか。だとしたら、男は急に歩みを早めたということか? 彼女の追跡に気付いたのだろうか。
走って追いかけるべきか。それとも、もう男を追うのをあきらめるべきか。
迷った彼女は、本来自分がこのような危険を犯すべきではない王位継承者であることを思い出し、引き返そうとした。そのとき、後ろから首に男の腕が巻きついてきた。
「!?・・・・・・」
「女! なんのつもりでつけてきたんだ?」
羽飾り帽の男の甲高い声だ。待ち伏せられたのだ。後ろから、男が左腕でブランシュの首を絞めるようにつかまえていた。右手に刃物を持って脅しているつもりらしいが暗闇でよく見えない。男は、そのまま月明かりが射す石畳の道までブランシュをひきずって行こうとしていた。
顔を見られてしまう。王女だと知られたら、いったいどうなるのか想像もつかない。ブランシュは抵抗を試みた。首を絞める腕を両手で引き剥がそうとするが、びくともしない。
普通の女性なら、大声を出して人を呼ぶことを考えるだろうが、結婚式の前日に城を抜け出して夜の街を徘徊している王女の選択肢ではなかった。
彼女は、自由になっている右腕を左肩の上に回し、男の頬をおもいっきり引っ掻いた。
「ぎぃぃぃ!」
男は情けない裏声の悲鳴を上げて、ブランシュを放した。ブランシュは城の方へ戻る道へ駆け出したが、足がもつれて思うように進めない。
「ま、まて!」
男が追ってくる。どれくらい距離があるか、後ろを振り返りそうになったが、自分が明るいところまで出たら顔を見られてしまうので振り返るわけにはいかない。路地から出て、追いつかれそうな恐怖が胸に湧き上がったときに、横から男とブランシュの間に飛び込んできた人影があった。
「彼女に触ると許さんぞ!」
声の主はアルフォンスだ。ブランシュは、思わずその場で振り返ってしまった。すぐそこに広い背中があった。男の前に立ちふさがったアルフォンスの背中だ。
両手を広げて構えるアルフォンスは武器を持っていない。しかし、その背中は、武器を持った男からブランシュを守りきる自信に満ち溢れていた。
やはり彼は、詩人などではなく武人だ、とブランシュは感じていた。もうブランシュは逃げていなかった。この背中の後ろは城の中のように安全に思えた。身の安全が確保されたと思うと、彼がどうしてここに来ているのだろうかとか、あの男がつけられたと知って計画を変更するのではないか、とかいうさまざまな疑問が頭の中を巡っていた。
「ちっ!」
と、男が舌打ちをして、小走りに向こうへ去って行く。アルフォンスはブランシュを振り返るのではなく、男のほうへ向かったまま、男に聞えるくらいの声で言った。
「はぐれるから離れるなと言ったでしょう!」
男に聞かせているのだと悟ったブランシュも、大きめの声でアルフォンスにではなく路地の奥へ向かって応えた。
「あの男をあなたと思ってついて行ってしまったの。ごめんなさい」
男の足音がちょっと立ち止まるように途切れ、また、駆け去ってしまった。アルフォンスはブランシュの方を振り返った。
「つけたのじゃないって思ってくれたかしらね」
ブランシュは路地の奥の様子を気にしていたが、その彼女の両肩をつかんで、アルフォンスが言った。
「足音がしたので上から見たら、あなたが彼を追っていくところでした。急いで駆け
つけたのですが。遅くなってもうしわけない」
彼の最初の言葉はブランシュにとっては意外なことに謝罪だった。
「・・・・・・いいえ。おかげで助かりましたわ」
そんな彼に対してブランシュも素直になれた。
「それにしても、ひとりでつけて行くなんて、どうしてそんな危険なことを」
しかし、彼のふたこと目はやはり彼女の行為を咎めるものだった。最初がこれなら反発していたかもしれないが、素直になってしまっていた流れで、ブランシュはそのまま謝ってしまう。
「ごめんなさい。彼が誰だったか思い出せそうだったので、夢中でついて行ってしまいました」
「それで、思い出せたのですか?」
「いいえ。やっぱり部屋に戻ってから思い出すことにしますわ」
ブランシュは肩をすくめて言った。
アルフォンスはそんな彼女の様子に、あきれたように笑った。
真顔に戻ったアルフォンスは、ブランシュをエスコートして城へ向かいながら訊いた。
「わたしの首にしがみついてぶら下がっていられますか?」
「え?」
「やはり、あなたを責任持ってあの部屋までお連れしなければならなかったと反省しているんです。わたしの両手は壁を登るために必要なので、あなたが自力でしがみついていられる自信がなければ、なにかで身体を結び付けましょう。そうしておけば登れます。まあ、あなたは、戦で身につける鎧と盾をあわせた重さと大してかわりないようですから」
ブランシュは、不思議と言い返す気にならなかった。王女である彼女はこんなことを言われたことがない。王女の体重をジョークのネタにする男など居なかった。もし居たら、こっぴどくやりかえしていたに違いないと思うのだが、アルフォンスに対しては、頬を染めただけで何も言い返せなかった。
石壁までくると、ブランシュは黙ってアルフォンスの背後にまわり、両手を伸ばして彼の首にしがみついた。
「すぐですから、しっかりつかまってくださいね」
「・・・・・・はい」
素直な自分が信じられないブランシュだった。
アルフォンスは器用に石壁を登りはじめた。
落ちないように、そしてアルフォンスの喉を絞めてしまわないように、ぎゅっと両手をアルフォンスの胸の上で握り合わせ、頬を彼の首筋に強く押し当てながら、ブランシュは自分に今何が起こっているのかを考えていた。
恋してる?
明日は別の男性と結婚する身なのに? アルフォンスはエレオノールのお相手なのに?
「アルフォンス?」
思わず、名を呼んでしまいブランシュは、はっ、とした。彼女の唇は、アルフォンスの左耳に息がかかるほど近く、小さなつぶやきでも彼に聞かれてしまう距離だ。
「なんです? エレオノール」
アルフォンスは石壁の継ぎ目に指を掛けて登り続けながら聞き返した。
なにか言わなくちゃ、とブランシュはあせった。思わず名を口に出したなどと思われぬように。しかし、何を言えばよいのだろう。本物のエレオノールはアルフォンスと文通していたのだ。さまざまなことをやりとりしているに違いない。すでにやり取りしたこととかみ合わないことを言えば、偽者とバレてしまうかもしれない。エレオノールがここに居れば言いそうなことを言わなければ。
「あ、あなたはもっと・・・・・・詩人のような方かと思っていました。重い鎧を着て戦に出たりなさるのが似合うのですね」
エレオノールが言いそうなことが言えたわ、とブランシュはひそかに一息ついた。
アルフォンスは登るのをストップしてしっかりとその場を維持して、すこし考えるように間をあけて答えた。
「ご婦人に書く手紙に、戦場のことや手柄話などは書けませんからね。がっかりしましたか?」
「いいえ。今日のわたしは、そんなあなたに救われましたもの」
でも、明日のエレオノールは・・・・・・本物の彼女は詩人のあなたが好きなのよ、という言葉を飲み込んだ。
最初の屋根まで登りきり、いったんブランシュはアルフォンスの背から降ろされた。ダンスに誘うように差し出された彼の手をとり、ふわふわと雲の上を歩くような気持ちで、手を引かれ屋根の上を歩いた。降りてきたときとは違うルートのようだ。降りるときは何度も段差を飛び降りたが、登るには、遠回りが必要だった。
花嫁の控え室の窓へ至る最後の屋根の端まで来ると、次は建物の隙間を飛び越えなければならない。間隔は一メートルほどだが、見下ろすと、暗い狭間は底が見えない。窓から出るときは、アルフォンスがブランシュを傍らに抱いて、窓の向かい側の屋根に飛び降りたのだったが、その屋根は下の方だ。あのときは屋根へ飛び移ったので、アルフォンスの手がふさがっていてもよかったが、今度は屋根から壁へ飛び移るのだ。壁には靴幅ほどの段があり、そこに飛び乗るつもりのようだが、ブランシュを傍らに抱いてできることではない。彼の両手は、壁の装飾をつかんで落ちないようにするために必要になる。
「また、しがみついてください」
というアルフォンスの声に、ブランシュは彼を信じてしがみついていれば大丈夫、と自分に言い聞かせ、彼の首に両手を回した。しかし、狭間への恐怖心が残って、彼女は視線を狭間へ向けたままだった。
「あ」
と、アルフォンスが戸惑う声がして、
「え?」
と、ブランシュが振り返ると、彼の顔が目の前にあった。
背中からしがみついたつもりだったが、まだアルフォンスが前を向いていたので、正面から彼の首にしがみついてしまっていたのだ。
あわててバランスを失いかけたブランシュをアルフォンスが肩を抱いて支える。
抱き合った状態で、ふたりは引き合う磁石のようにお互いの目を見つめた。
ブランシュは、アルフォンスの顔が近づいてくるのを夢心地で感じ、自分の高鳴る鼓動を聞いていた。
「・・・・・・エレオノール」
だが、彼が甘くささやいたのは、自分の名ではなかった。
まさに唇が触れようとした瞬間に、ブランシュは我にかえった。
「いけません!」
アルフォンスの首に回していた手を放し、その手で彼の胸を押し返し顔を無理に背ける。
「お願い、今日のわたしのことは忘れて・・・・・・。明日、式を終えたら、もう一度その名を呼んでください」
「エレオノール・・・・・・。そうですね、わたしたちには、明日の式で国王陛下をお助けし、枢機卿の一味を捕らえるという大事な使命があるのですから」
今、アルフォンスは自分をエレオノールだと思っているが、明日の式を終えればブランシュはジュアン王子の妻となり、アルフォンスの前には本物のエレオノールが立つことになるのだ。そのときアルフォンスは、今日のわたし『エレオノール』を忘れてと言った意味を知ることになるだろう。
ブランシュはアルフォンスの後ろに回り背中からしがみついた。彼はいとも簡単に狭間をまたいで壁に取り付き、そのまま窓まで進んだ。
あっけない別れが待っていた。
ブランシュだけが窓から部屋に入ると、アルフォンスはそのまま壁を伝って自分の部屋へ向かった。窓から身を乗り出して見送るブランシュに軽く手を振って暗闇に溶け込んでいってしまった。
ブランシュの胸は引きちぎられるように痛んだ。
今夜だけが、ふたりがアルフォンスとエレオノールでいられる時なのに。
明日の式では、ふたりはジュアン王子とブランシュ王女になって式を進め、枢機卿一味のたくらみをふたりで解決したあとは・・・・・・アルフォンスとブランシュ王女になるのだ。
窓を閉じ、部屋の中に戻ったブランシュは、漆黒の花嫁衣装の前にひざまずき、衣装を見上げた。輝く純白のレースのヴェールは、花嫁の涙を花婿『役』からも隠してくれるだろうか。
入り口のドアのあたりで人の気配がした。
「姫様?」
エレオノールの声だ。
「まだ寝室へお戻りでなかったようなので。どうしたのです? こんなに暗くして」
心配そうにそう言って、彼女は部屋に入ってきた。
「あなたこそ、もう眠りなさいと言ったでしょう、エレオノール。わたしは・・・・・・わたしは・・・・・・」
言葉が詰まり、かわりに涙が溢れて来る。王女は従姉妹に駆け寄り、その胸に顔を埋めて泣き出した。
「王女、いったいどうなさったのです?」
エレオノールは問いかけたが、泣きじゃくる王女が答えられる状態ではないのを感じて、彼女の髪を撫でてなだめはじめた。
「泣きはらしでもしたら、花嫁が台無しですよ。明日は王女が主役なんですから」
ゆっくりとソファーに移動し、並んで座らせて、王女の嗚咽が治まるのを待って、エレオノールは再び尋ねた。
「さあ、どうしたのか教えてくださいな」
「・・・・・・アルフォンスが・・・・・・来たの」
「えぇっ?!」
意外な答えにエレオノールは声を上げた。
結局、エレオノールは聞き上手で、ブランシュは今夜のことをほとんど話すことになってしまった――アルフォンスに対して芽生えた恋心を除いて。しかしそれは、王女の涙によってエレオノールでなくとも容易にうかがい知れたことではあるが。
「それでは王女は明日の式に、王女の代役をしているわたしのフリをしてお出になるおつもりなのですか?」
エレオノールは国家の大事にかかわることとあって、真剣に話を聞いていたが、王女が彼女のフリを続けている件については、呆れ顔を隠すのに苦労していた。
「……ええ」
「危険ですわ。それこそ、本当にわたしが王女の代役になれば良い話です」
「でも、そうしたらアルフォンスが……彼は花嫁がわたしでなければ、きっと代役を立てられずに本物の王女が来たのだと思って慌ててしまうわ」
「事前にお会いして打ち合わせてきますわ。今からでも」
「だめよ!」
ブランシュはエレオノールにすがりついた。このまま、せめて式だけでもアルフォンスと並んで祭壇の前に立ちたかったのだ。そしてエレオノールにも、その気持ちはすでに伝わっていた。
「……わかりました。では、事が起こったときに対処できるよう、兵の配置を考えておきます。手の者のうちにも一味に通じている者が居てはいけませんから、指示はその場でしなければなりませんが、準備は必要ですわね。それと、枢機卿を捕らえたあと、式を続ける司祭が必要ですね。何か理由をつけて控えていてもらわなければ。あとは、その、王女がご覧になったという人物ですね」
エレオノールは次々と対処策を仕切っていった。最初から変な気を起こさずに、エレオノールを呼んでいればもっとスムーズに事が進んだと猛省せずにはいられないブランシュだった。
「茶色い髪で、四角い顔の、眉が跳ね上がった男よ。声が甲高くて裏声まじりに話すの。なにより、わたしが左の頬をひっかいてやったから、式場に来たらすぐにそれとわかるでしょう」
エレオノールは、頭の中で男の特徴を式の関係者と照らし合わせて、すぐに一人に絞り込んだ。
「その男は、式場の設計を担当した建築家のパトロン、ブロワ男爵ですわね。彼は泳がせておいて。枢機卿の合図で咳払いする男といっしょに捕らえるように兵に指示しましょう。それと、祭壇の後ろの隠し扉のむこうへ逃げる二人組を捕らえるようにも。あとは、枢機卿の護衛たちが邪魔できないようにもしておかねばなりませんわね」
「わたしは、咳払いと同時に、父上を十字架が届かないところまで移動させます」
エレオノールは心配顔だ。
「国王陛下はおみ足が弱くなっておいでです。気を付けて。でも、確実に退避させなければ、御命に関わることですから」
「任せて。ちゃんとやります」
王女の真剣な眼差しに、余計に心配が募るエレオノールだったが、一種あきらめにも似た感情で、王女のやる気を肯定することにしていた。合図の咳払いの直後に兵たちに指図するのはエレオノールの役だから、国王陛下をお助けするのは王女に任せるのがベストの策だと信じることにしたのだ。文通相手のアルフォンスが花婿役を務めることに対して、嫉妬めいた感情は起こらなかった。王女は明日、別の男性の妻にならなければならない身であり、嫉妬の相手には成り得なかったからだ。
「さあ、では、今度こそお休みください。明日、眠気で失敗でもなさったらたいへんですわ」
「ええ。……ごめんなさいね、エレオノール」
ブランシュには後ろめたい気持ちがあった。
「何がですか?」
エレオノールは優しく微笑んでいた。
「解決したら、彼には本当のことを言うから。彼は最初からあなたのものだから」
「ジュアン王子もきっとすばらしい方ですわ。アルフォンス様が手紙でおっしゃっていましたもの」
そう言われるまで、自分の夫になる男のことを忘れていたブランシュには、たいした慰めにはならなかったが、ブランシュも笑顔を作って返した。
翌日、朝からの行事は順調に進んでいた。王女が城から少し離れたサンタマリア大聖堂へ移動すると、周囲はお祝いに集まった群集が取り囲んでいた。
既に大聖堂の中には招待客や国の主だった者たちが控えていた。
式場の入口の扉が重い音を立てて開く。重厚なオルガンが鳴り響く。高いアーチ状の天井を支える柱が両側にずらりと並び、招待客たちは、柱の外側に立ってひしめいていた。正面のステンドグラスが陽の光で輝いている。天井までパイプが届く巨大なオルガンの左手は、国の主だった者たちが占めている場所で、エレオノールと……ジュアン王子もそこに居るはずだ。オルガンの右手には、この式のために臨時に作られた祭壇があり、台座を含めて高さが7メートルほどもある十字架のキリスト像が立っている。その前には枢機卿がいて、やや左手に国王がいる。そして枢機卿の前では、アルフォンスが待っていた。
王は本物の王子と会ったことがあるはずだから、アルフォンスが代わりに居ることを何と思っただろうか。なにかを察してだまってくれているのか、あるいは、入場する花嫁の方を向いているから、王子の顔はあまり見ていなくて気がついていないのか。
漆黒の花嫁衣装に身を包んだブランシュは、白いヴェールで顔が隠れるようにと気を付けて、俯向きがちに歩いていた。周りの者に顔を見られないようにしているフリをしなければならない。アルフォンスが不思議に思わないように。
レース越しに、気になって視線を走らせる。例のブロワ男爵を見つけようとしたが、なかなか見当たらない。来ていないのかと心配になってきたころに、やっとオルガン近くの集団の中にそれらしい顔をみつけた。
そして、ブライズメイドとして悪霊の目を惑わすために花嫁と似た格好をしたエレオノールがオルガンの左手の一番祭壇に近いところに居るのをみつけ、その隣にグルームズマンとして立っている男を見た。アルフォンスと入れ替わっているから彼がジュアン王子ということになる。エレオノールは心配そうな顔をしてこっちを見ている。何かを言いたげなようにも見えたが、もちろん声を掛けられるような状況ではない。
アルフォンスにとって、エレオノールは入れ替わった王女でなければならないから、彼女は周りに王女だとバレないように顔を見られないようにしていなければならないはずなのに、エレオノールは顔を隠していなかった。アルフォンスがおかしいと思わなければ良いが、とブランシュは心配になったが、もう祈るしかない。
祭壇が間近になって正面を向くと、父親であるシャルル王が優しく微笑んでおり、その右奧に立っているのが赤い衣の枢機卿だった。枢機卿も花嫁をにこやかに見ていた。あの笑顔の下に悪意が潜んでいるとは信じられないほどに優しい笑顔だ。
最後の数歩になった。ここまで来れば、周囲からはヴェールの下の顔は見られることはない。ブランシュはやっと花婿の顔を見上げた。そこには、昨夜の屋根の上で見上げたアルフォンスの顔があった。
二人は頷き合って、これから起こる事への心構えを確認し合った。
差し出された手に、そっと手を重ねると、痛いほどに熱く感じた。自分の気持ちを偽り、相手を騙していることに胸が傷んだ。救いを求めて祭壇を見上げると、キリストの像が見下ろしていた。
あの像が、まもなく倒れてくる。
あの後ろにひそかに二人の男がいて、合図を待って倒そうとしているのだ。国王の方へ倒れてくるところを想定し、自分が国王をどの方向へ導けば良いかを考えていたブランシュは、何かひっかかるものを感じていた。
音楽が止んだ。
枢機卿が聖書を手にして、二人を順に見た。
ブランシュは、引っかかっていたことに思い至った。枢機卿の立ち位置は、像の台座に近すぎるのだ。あの位置では、たとえ国王の方向へ向けてでも、倒れる台座に枢機卿も巻き込まれる。枢機卿がもっと若ければ、倒れるとわかっている像から素早く逃げる姿も想像できたが、目の前の枢機卿は歩くよりも早く移動できそうな人物ではなかった。
おかしい。
そう思ったとたんに、頭の中でひらめくものがあった。
昨夜の悪巧みの中で、枢機卿について語られた言葉が蘇る。「枢機卿が祭壇前に立って」それは今の状況だ。そして「誓いの言葉を促すときに、右手を上げるのが合図」と。それは、「枢機卿が合図に右手を上げる」というのとは違う。
聖書を左手に持った枢機卿が、新郎新婦に誓いの言葉を促すときに、右手を上げるのはあたりまえのことだ。枢機卿が合図に手を上げるのではなく、枢機卿が手を上げるのを犯人たちが合図に利用するのだとしたら? 手を上げるときの枢機卿の立ち位置は決まっている。祭壇の前だ。
狙われているのは枢機卿だ!
アルフォンスも同時に気付いたようだった。しかし、それは枢機卿の右手が上がるのと同時だった。
二人が動くより先に、わざとらしい咳払いが式場に響いた。
「アルフォンス!」
枢機卿をお願い、と言う暇はなかった。台座の途中が水平に割れて、像が正面に向かって崩れるように倒れてくる。ブランシュは、国王に駆け寄り、国王に害が及ばぬように国王を庇った。アルフォンスは枢機卿に飛びつき、像の台座の根元に倒れ込んだ。
像は台座を一メートルほど残して、アルフォンスと枢機卿の上を跨ぐように倒れたが、床に当たるとこなごなに砕けて、欠片となって二人の居るあたりにも飛び散った。
白い埃が舞い上がる。
場内に悲鳴が上がり、騒がしくなる中で、エレオノールが的確に兵士たちに指示を与えている。
「咳払いをした者を捉えなさい! 台座の後ろの隠し扉を捜索して! 賊は二人です! そこ! ブロワ男爵を取り押さえて!!」
国王の無事を確認すると、ブランシュは今度は台座に駆け寄った。埃の中で、仰向けに倒れた枢機卿の全身を庇うようにアルフォンスが伏せており、その上には砕けた台座の欠片が載っていた。
「アルフォンス! アルフォンス!」
枢機卿は埃で咳き込んでいて生きているのが見て取れたが、アルフォンスが動かない。ブランシュは涙を浮かべてアルフォンスの傍らにひざまずき、台座の欠片をどかして背中に抱きついた。
「う……あ……」
アルフォンスがうめいて、ブランシュと向き合いながらゆっくりと身体を起こした。
「背中を打って、息が止まってしまいましたよ。ふう。枢機卿はご無事ですね?」
ブランシュの目から涙が溢れ出た。
「アルフォンス!!」
周りの目を気にもせず、ブランシュは泣き、アルフォンスの胸に抱きついた。アルフォンスも彼女を大切そうに抱きしめて、支えながら立ち上がった。
彼は、ブランシュを抱きしめたまま、国王に向き直った。
「シャルル王、お怒りになられるのを覚悟で申します。わたくしは、このエレオノール嬢を愛してしまったのです」
彼の言葉に、はっ、としたブランシュは国王に泣き顔を向け、両手を胸の前で祈るようにあわせた。
「国王陛下、いえ、お父様。悪いのはわたしです。ジュアン王子ではなく、このアルフォンスを好きになってしまったの。このまま王子と結婚などできません」
「『お父様』?」
アルフォンスは驚いて花嫁を見た。
「ええ、ごめんなさい。わたしはうそつきです。最初は、エレオノールがあなたのことをあまりに褒めるから……彼女になりすまして見定めようと思っただけだったのに、本当のことを言えなくなってしまって」
「ああ! よかった! たしかにわたしは、その嘘のおかげで死ぬほど苦しい思いをしたけれど、わたしの一生はその嘘に救われた!……それにわたしも同罪なんだ」
「え?」
「ブランシュや、おまえと婿殿が何を言っているのやら、よくわからん。アルフォンス殿とエレオノール嬢なら、向こうにいっしょに控えているではないか。おまえはわが最愛の娘ブランシュだし、そばにいるのは間違いなくジュアン王子ではないか」
まだ状況がつかめていない王を尻目に、いち早くなにが起きているのか正しく理解した枢機卿がホコリを払いながら立ち上がり、ふたりに言った。
「さて、若いおふたりの恋には、幸いなことに・・・・・・あ、いや、残念なのかもしれませぬが・・・・・・プロポーズなどのステップを経る必要のない状況となっていますね。このまま結婚式を最後まで続けてもよろしいかな?」
「はい! 枢機卿」
手を取り合って見詰め合っていたふたりは、繋いだ両手を離さずに枢機卿の方を振り返り声をそろえて答えた。
想定内だった十字架の倒壊の後始末は、エレオノールの的確な指示によってあっという間に終わって、祭壇は整えられ、何もなかったかのように式は進行した。
偽りの名を捨て合ったブランシュとジュアンが結婚の誓いを終えて向き直ると、式場の隅の方でアルフォンスとエレオノールが手を取り合って見詰め合っているのが見えた。なるほど、そう言われてみると本物のアルフォンスは詩人タイプのようだ、とブランシュは思った。
花婿のジュアンは口の端をちょっと上げて笑いながら、花嫁にだけ聞こえるように言った。
「やっぱり『アルフォンス』と『エレオノール』は結ばれなきゃいけない」
花嫁も自分の伴侶の顔を間近に見上げると、同じように微笑んで言った。
「ええ、もちろんだわ」
FIN
花嫁が恋したら 荒城 醍醐 @arakidaigo
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