The Ode To The Dawn

阿弓早波

一.一九三六

  

 春の風は北の国にも吹く。

 太陽は昇った、始まりの朝。

 太陽は昇った、冬は終わる。

  



  一九三六年十一月晩秋。

 



 「マルタ(残党)が?」

 「うん、また橋の向こうで小競り合いがあったって。客のおっさんから聞いた」

 秋の終わりが近付き、夜半を過ぎればそれこそ相当に冷える。あんな薄いコートでは寒かっただろう。外から戻ったビターゼの頬や手先は真っ赤だ。だから朝、冬用のを着て行け、と言ったのに。

 「そうか。この辺も危なくなるかもしれないな」

 「いざとなったらどうするつもりさ、パパは」

 「いざとなったら、か。いざとなってから考えるかな」

 「適当だなあ」

 「俺は『考えてもどうにもならない事は考えない主義』だ」

 「はいはい」

 飯は、と聞けば向こうで食った、と返って来た。人の皿まで舐めつくせ、のこのご時世に、あの店の主人は何と気前の良いことだ。尤も、こいつ目当ての客の数を考えれば割に合わない給金しか貰っていない訳で、飯で誤魔化されている感が多分にする。

 「パパ?夕飯は」

 「ああ、食ったよ」

 「足りなかったら、これ、貰って来たから、夜食に」

 ビターゼがデスクに置いた紙袋から、パンの頭が覗いている。

 「そうか」

 「……さっきから何してるの」

 「タイプの調子がおかしいんだよ」

 「またあ?」

 呆れた様に言うビターゼの顔には、だからエルタイのを買っとけって言ったんだ、と書いてある。

 「国産のは当てにならないんだよ。機械でもギターも」

 「うるさい」

 「そうやって無駄に仕事の時間が押して、忙しくて寝れないとか言うんだろ、馬鹿みたい」

 「うるさいっての」

 「しょうがないなあ、ほら、ちょっと貸して、パパ」

 「いいから、早く着替えて風呂に入れっての!」

 はいはい、と首を竦めてビターゼは部屋を出て行った。

 この腕が当たり前に左右あれば、この程度の修理は何の手間でもなかったろう。ちょっとネジを回して、パーツを外して、中にこびり付いたインクを拭いてやれば済む話だ。それが、左腕と、肘から先がないこの右の腕では上手く行かない。こうなって十年が経ち、もうこの不便さにも、他人の目線にも慣れたつもりではいるが、こうした日常の些細な難儀に辟易する事もいまだ多くある。

 ドライバーをデスクに放り投げて、椅子にどっかりと腰を掛ける。疲れた。明日までの原稿がまだ半分残っていると言うのに、ビターゼの言う通り、無駄な時間と労力を使っているとは思う。エルタイ産の最新型タイプライターなら、きっとこんな事にはならないのだろう。

 がたがた、と風を受けて窓枠が鳴る。ガラスの外、裏通りには吊られた街灯が点々と並んでいるが、灯りが付いているのはそのうち一つ、いや二つしかない。月が陰れば、凝視しなければ足元も見えないくらい真っ暗になるのではないだろうか。さっさと然るべき連中に動いて貰いたい所だが、しかしその然るべき連中──インフラを管理すべき役所は、給与の未払いやストライキなどで、ここ一年程実質の機能不全に陥ったままだ。

 大国エルタイと袂を別ち、小さいながらも独立国になって三十年、そしてあの騒乱から十年。市民生活は悪化の一途を辿っている様に思う。あの街灯が再び灯く事はしばらくないだろう。

 そうだ、ビターゼにカンテラでも持たせるべきだろうか。仕事上どうしても夜間に行き帰りする訳だし、こうも暗いと何かと危なっかしいではないか。ここ二年で同学年の中でも小柄だった背丈はかなり伸び、大人らしい体つきになって来たとは言え、まだ十六だ。本人は、コートを替えろと言った時の様に、大丈夫、パパは過保護なんだよ、と笑うかもしれないが。

 しかし、親が子を案ずるのは当たり前のはずだ。

 「交代」

 寝間着に着替えたビターゼが、タオルを頭に乗せたまま書斎に入って来た。両手のマグから湯気と、アッサムの香りが立ち上る。デスクに並んだ二つの内、よりミルクの入った白のマグを取った。

 ビターゼが右手にドライバーを握り、タイプを分解し始めた。

 「パン美味いな」

 「女将さんホント料理上手だよね」

 「パン屋で売ってるのよりよっぽど美味い」

 「昔みたいな良い小麦粉は全然手に入らないって、女将さん言ってたけどね。良いやつは全部政府が押さえちゃってるって」

 「そうか」

 「昔のパンってもっと美味かったの?」

 「どうだったかな、忘れたよ」

 「何、もう記憶が薄くなってるの?三十代だろ、四十なったっけ?」

 「うるさい、まだ三十七だ」

 「これ分解できなかったのって、もしかして老眼来ちゃって見えなかったからじゃないよね?」

 「うるさいっての」

 「給料入ったら眼鏡買いに行こうか」

 「いいから、黙ってやれ」

 「はいはい、終わったよ」

 がしゃん、と小さく音を立ててタイプの蓋が閉じられ、ビターゼがぽつぽつとキーボードを叩く。紙に印字された文字に、先程までの酷い滲みはなくなっていた。

 良し、と小さく息を付いて、ビターゼが頭のタオルで黒くなった手を拭う。ふと気になって、手を見せろ、と言った。

 「何さ」

 並べて広げられた両の手は、昔よりだいぶ大きくなった。

 「お前変な弦だこ出来てるな、どこで押さえてるんだ」

 「どこって…別に意識してない」

 「全体的に小指側に寄ってる、腕を捻り過ぎてるんじゃないか」

 「そうなのかな」

 目を不思議そうに丸くして、ビターゼが言う。少し目尻の下がった、大きな青い瞳。パパ手見せてよ、と言われ、左手を出した。

 「もう消えかかってる」

 「でも分かるよ。確かに、パパのは真ん中だ、良く気付いたね」

 「細かいとこまで見えてるだろ?」

 はいはい、と適当な返事が返って来た。

 薄らと左手に残った弦だこと、横からビターゼが寄せた左手を見比べる。それにしてもビターゼは指が長い、ギターを弾くに向いた、良い手だ。

 「直した方が良い?」

 「ゆっくりな、意識し過ぎて弾き方がおかしくなったら意味がない」

 「うん」

 「弾いて見せてやれたらいいんだけどな、生憎人様に見せる程の腕がなくてな、いろんな意味で」

 「何だよそのジョーク」

 「面白いだろ」

 「やっぱりおっさんだ」

 あーあ、パパもすっかり酒場の親父と一緒だなー、と大げさにため息を付いたビターゼの額を小突いて、もう寝ろ、と頭をくしゃくしゃと撫でた。

 「まだ残ってる」

 「じゃあ飲んだら寝ろよ」

 「はいはい」

 デスクの時計は一時を回っている。今から朝まで原稿を書いて、少し仮眠を取って…、明日の昼過ぎには編集に持ち込めるだろう。何せこちとら片手の作業だ、どうしたって人より時間が掛かる。しかし今回は既に内容は固まっているし、後は書くだけだ。幸い頭は人並みに使えている、と思う、多分。

 「何の原稿なの?」

 青いカップを手にしたビターゼが、先に完成していた原稿を手にした。お前零すなよ、と釘を刺せば、パパみたいに鈍臭くないよ、と返って来た。何だと生意気な。確かに先週上がったばかりの原稿にぶちまけたが、あれは外からいきなり車のホーンの音がして驚いたからだ。

 「エレネ・スルバレドが一昨日広場でコンサートやっただろ」

 「ああ、そう言えばラジオで言ってたな」

 「上手かったな、美人だったし」

 「あの曲やってた?私の気も知らないで~、ってやつ」

 「勿論。みんなあれを聞きに来てたんだろ」

 「あれラジオでもすごく流れてる。それ来月のに載るの?」

 「多分。編集の都合次第だな」

 「まあまずは間に合わなきゃ載らないものね」

 「ああ。ほら、飲み終わったならさっさと寝ろ。一時過ぎてる」

 「はーい」

 おやすみ、とビターゼが頬を寄せて来た。左手でその頬を撫でて、おやすみ、と返した。

 ぱたん、と扉の閉まる音がして、程なく隣の部屋からぽろぽろとギターが聞こえて来た。また今日も朝方まで弾くつもりなのだろう、何がおやすみだ全く。

 私の気も知らないで、春が終われば貴方は……、ラジオで聞いただけにしてはよく弾けてるじゃないか。明日にはこの曲もあいつのレパートリーに加わるんだろう。

 さあ、あいつが曲を覚え切るまでにこっちも終わらせよう。ひとつ欠伸をして、眠気覚ましにマグを空にした。




 翌朝、いや、昼だ。

 ビターゼのギターがまだ聞こえている間に原稿は終わり、仮眠を取ろうとソファに転がって気が付いたら十一時前だった。危ない危ない。

 朝飯(昼か)の時間はない。今月号の〆切は今日の十二時だ。

 クローゼットから適当なシャツを引っぱり出し、自室で熟睡中のビターゼに『すまん飯は自力で』と書き置いて家を出た。アパートの廊下を吹き抜ける風の冷たさは、秋を通り越した真冬のそれだ。鼻の奥がつんと痛み、着倒しのコートの裾が翻る。ボタンを留めながら外へ出た。とうに起き出し動いている街は、薄らと白い。初雪が降ったか。

 編集部まで急げば二十分程。大通りに出る。コートの襟を立て、北風と、行く人々の間を縫い進む。重たい雪雲の奥から、仄か明るい陽が差している。

 信号を待つ時間が惜しい。自動車を避けながら、早足に石畳を渡る。

 よお、ぎりぎりだな。編集部に顔を出すなりそんな声がした。

 ゴロワーズの埃臭さが鼻に付く。ラジオから天気予報が聞こえた。オデロンは夕方からまた雪。

 「間に合っただろ」

 手袋を忘れられた哀れな左手をストーブにかざして、壁の時計を見遣る。十一時五十分。

 「まあな、お前はいっつもギリギリで持って来やがるけど不思議と遅れはしねえな」

 街のメイン通りに面したビルディングの二階に、エルンドズ出版の編集部はある。編集部と言っても社員は二人だけの、小さな出版社だ。しかし、ここが作るタウン誌『オーデロ・レビスタ』は、市で恐らく一の発行部数を誇る人気誌で、大抵の本屋で買う事が出来る。

 『オーデロ・レビスタ』の芸能のページを受け持ってそろそろ五年になるだろうか。有り難い事に評判は上々の様(と聞いているのでそう信じている)で、ここの仕事を始めてから、他の雑誌や書き物の仕事も徐々に増え、生活はだいぶ楽になった。

 窓際奥のデスクに封筒を置く。これにて任務完了だ。

 「エレネ良かったらしいな」

 「上手かった、あの若さで大したもんだ」

 「そりゃそりゃ結構なこった、俺も行きゃあ良かったかな」

 洒落たスーツでワークチェアーにどっかりと沈み、流行りのロイド眼鏡を押し上げ原稿をチェックするその様は、まさに巷で話題の売れっ子編集長、と言った風だ。偶に夜の酒場で出くわす、だらしない赤ら顔のとはえらい差だ。

 しばらくの沈黙の後、良し、と原稿を置いた。合格らしい。

 「……お前、うちでもう一本書かねえか」

 「何を」

 「時勢ものとか」

 ニコロズが煙草に火を付ける。勧められたが、癖の強い煙草は好みじゃあない。

 「誰が読むんだよそんなもん」

 「最近何かと物騒になって来たからな」

 そういう時には売れんだよ、ニコロズはデスクの新聞をこちらに寄越した。

 「活発化する残党(マルタ)、か」

 朝刊の第一面には、検問所の写真が数枚載っていた。何重もの有刺鉄線が張られた国境の草原。その所々が黒く、焦げた様に見える。

 馬鹿な連中だ、ニコロズが小さく言った。

 「……苛立つ気持ちは分からないでもない」

 「憂さ晴らしで済んでる内は良いがな」

 煙草の白い煙が溜息と共に吐かれ消えた。

 「下らねえって思ってるならわざわざ記事にする事もねえだろ」

 「そりゃ売れそうなネタは押さえるさ」

 「気が乗らねえ」

 「何だ冷てえな」

 付き合い長えのに淋しいこった。受け取った新聞をラックに戻しながらニコロズが言った。

 「冷たい冷たくない関係なく、今俺は色々が手一杯なんだよ、ただでさえ俺は手が少ないんだからな」

 「それあんまり笑えねえんだが」

 「息子にも言われてるよ」

 「……おお、そう、それだよ」

 「何だよ」

 煙草で人を指すな。煙いから。

 「そう、お前の息子、中々じゃねえか」 

 何がだ、と言う顔をしていたらしく、ニコロズはニヤリと笑って続けた。

 「ダラス通りの沿いのパブだよ、お前んとこの息子だろ」

 「何で知ってるんだ」

 驚いた、ビターゼのことを話した事はあるが、ここに連れて来た事はないのに。

 「やっぱりか!こないだカタリナとそこに飯行ったんだよ」

 えらく上手え小僧っ子が歌ってんなあって思ってな、と言われれば悪い気はしない。

 「んで、そこの女将に聞いたら、名前はビターゼだっつうからよ、ここらでは珍しい名前だし、もしかしたらって思ってな」

 幾つだ、と聞かれたので十六だと返した。

 「随分早く作ったんだな、学生結婚だったのかお前」

 「まあな」

 「しかし十六であれだけできりゃ大したもんだ、」

 確かに、ギターの技術は十代のそれとは思えない程だし、何よりビターゼは良い声をしている。今はまだ成長期で、喉が安定せず歌い辛そうにしている事もあるが、体が育ちきればそれなりの歌い手になるやもしれない。親の欲目だと言われればそうなのかもしれないが。

 「劇場には出てないのか」

 「まだ早い」

 「エレネも十九かそこらだろ?ちゃんとしたとこに出してやりゃあ人気出そうだがなあ。可愛らしい顔してたし。まあお前にゃ全然似てなかったが」

 「ほっとけ」

 「別れた嫁似か?」

 「うるせえ」

 へっへっへ、と少し出始めた腹を擦りながらニコロズが笑う。

 「うちの推しでスター出すのも悪くねえな。次回の記事はこれで行くか?」

 「息子を誉めまくる記事を書くのか?むず痒いな」

 「広告代は今回分の原稿料でどうだ」

 「そんなのには引っ掛からねえよ」

 そうだ、まだ金を貰ってない。出せ、と催促すると、ニコロズはヘイヘイ、と席を立ち、もうひとつあるデスクの引き出しを開けた。

 「カタリナは?」

 そのデスクの主、ニコロズを支える編集長秘書兼この小さな出版社の専属ライター兼ニコロズの妻であるカタリナ、そういえば先週打ち合わせでここに来た時も顔を見かけなかった。

 「いやあ、それがよ」

 決まりが悪い風にニコロズが口元を掻く。言い淀むなんて珍しい。

 「何だ、遂に逃げられたか?愚痴なら聞いてやらんでもないぞ」

 「違うっての、今日は悪阻がひでえから家で寝てんだよ」

 「はあ?子供出来たのかよ!」

 「でけえ声出すなって。まあ今更だがな」

 俺も四十が来るってのに、ニコロズが首を傾げ照れ臭そうに笑った。眼鏡の奥の目が、飲み屋で見るだらしないそれになっている。

 「そりゃあ良かった、喜んでるだろ、カタリナ」

 カタリナがずっと子供を欲しがっていたのは知っていた。ビターゼの話をここでしていたのもカタリナに色々と尋ねられたからだ。やっぱり我が子は可愛いか、とか、いつも家でどんな話をしているのか、とか。

 「あいつは張り切っていろいろ準備してるんだが、俺の方はてんで実感沸かなくてよ」

 「実感なんて子供目の前にしたら沸く、嫌でも」

 そんなもんか。そんなもんだ。そう言い合う。実際そんなもんだった。

 ガキが心細そうにしていれば、どうした、と声をかけるだろう、目の前で泣いていれば、真っ赤になった頬を撫でてやるだろう。誰だってそうする。

 例え初めはぎこちなくとも、長くなれば情も湧く。

 ラジオが十二時半を告げた。ビターゼは起きただろうか。

 この後昼飯どうだ、と言うニコロズに断って、編集部を出た。アポがないならカタリナの様子を見に戻ってやるべきだろ、気が利かねえ奴だ。

 さて、当面の金も入った、近所のティーハウスに寄って帰るとしよう。




 「あ、覚えてるかも、ロイド眼鏡の陽気そうな人。あの人編集長さんだったんだ」

 アパートに戻ると、ちょうどビターゼが部屋から起きて来た。まだぼおっとした顔でお帰り、と言うビターゼの頭を、顔を洗え、と小突く。

 昼食に遅くティータイムに早い午後一時半。昨日の残りのパンにハムとチーズを乗せたオープンサンドと、馴染みの店員からのリコメンドで買った早売りのアッサム・オータムナルにたっぷりのミルクを。絞ったラジオから小さく流れる、アッパーなトランペット。ダイニングの古い木椅子に腰掛け、朝読みそびれた新聞をテーブルに広げる。左だけじゃあ食事と新聞をまとめて熟せない分、むしろ昔より行儀が良くなった気がしないでもない。購読している誌は編集部にあったものとは別社のものだが、ここも見出しは例の残党が起こした事件だった。馬鹿が、とつい舌を打った。

 「凄く褒めてくれたんだ、あの人。劇場に出た方が良いんじゃないかって……ちょっと」

 パパ聞いてるの、と咎められ、顔を上げた。

 「人に質問しておいて聞いてないの止めてよ」

 「悪い悪い。ニコロズだろ、聞いてるさ」

 「そう、編集長さん。知り合いに掛け合ってやろうかって」

 「何を」

 「聞いてないじゃないかもう!劇場の支配人をやってる知り合いがいるから紹介したいって」

 「あいつそんな事言ってたのか」

 「うん、でもあの時はだいぶ酔っぱらってた感じだったし、覚えてないんじゃないかなあ」 

 はいおかわり、と渡されたマグを受け取る。ここのはやっぱ美味しい、とビターゼも自分のマグに波々アッサムを注いだ。

 「ねえパパ」

 「駄目だ」

 「何も言ってない」

 「劇場に出たいんだろ」

 「何で分かったの」

 「分からいでか。あのな、言っておくが俺は」

 「はいはい、反対なんでしょ。パブで歌うのも本当は反対、お前は世間を知らなさ過ぎる、今からでも高等学校へ行け」

 「その通りだ」

 「こっちこそ分からいでか。三日に一回言われてるんだから」

 当たり前だ、十六の子供が酒場に出入りするのを喜ぶ親がどこにいるか。

 「自分だってやってた癖に」

 「ギターはいつでも弾ける、学校はそうは行かない。一年遅れの入学ならそう目立つ事もないさ。それに俺は高等学校までは出たからな」

 「でも」

 膨れ面に『納得が行かない』と書いてある。

 「金の事なら心配はいらない。その酔っ払い編集長さんが俺に新しい仕事を振って来た。昔はお前にも不自由させたが、今はそれなりの稼ぎはあるんだ。お前を学校に入れるくらしてやれる」

 気乗りはしないが、学費の足しになるなら新しい連載も受けよう。若気の至りの苦い記憶も、棚に上げてしまえば目に付くまい。

 「だけど」

 「何度も言わせるな。駄目だ」

 「もう!」

 その後しばらく喧嘩までとはいかない言い争いが続き、ビターゼは部屋に篭ってしまった。人懐こそうな顔をしているがこれでビターゼはかなりの頑固者だ、こうなっては熱りが冷めるまではどうしようもない。こっちもちょっくら急ぎの原稿が残っていたので、さっさと上げてしまうべく仕事机に貼り付くことにした。

 やがて聞こえてきたギターの、何と恨みがましいアルペジオか。笑いを噛み殺しながらタイプを続けた。四時までには終わらせて準備をせねば。今晩はここ最近話題の週刊誌の飲み会にお呼ばれだ。引く手数多のライターたるには人付き合いも重要なのだ。

 「ビターゼ、俺は出掛けないといけないから、ちゃんと戸締りして、ストーブはしっかり消して行けよ」

 既に午後五時前、思ったより手こずってしまった。慌て髪をブラシで撫で付けながら、ドア越しに声を掛けた。

 「夕飯は向こうで貰って来い、コートは冬用のを着て行くんだぞ、後カンテラを靴箱の上に置いてるから持って行け。いいな」

 聞こえて来るのはぽろぽろギターを爪弾く音ばかり。まだ拗ねているのか。返事くらいしろ、クソ。

 予報通り、外は雪がちらついていた。こりゃ帰りは道が凍る。溜息を付くと、途端に背中を冷気が駆け上がる。ぶるり肩を震わせ、アパートの下から三階の角部屋を見上げた。ああ、カーテンを閉めないと部屋が冷えるだろうに。

 戻るか、と思ったが時間は余りない。時計をコートのポケットに戻して、バス停へ走った。

 全く、小さい頃はもっと大人しくて素直な子だったのに。どうしてこうなった。

 帰宅ラッシュ前、まだ空いたバスの二階に乗り込む。固いシートに凭れ、目を閉じた。

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