LIFE★LINE

ねこ博士

第1話 ニュート・カーバイン

 問題:この世で最も近代化が遅れている場所はどこか?

 答え:役所の窓口


 地球人類の経済活動領域が宇宙に広がって200年余りが経過するこの時代にあって、アストロナイズ市役所の窓口はこのジョーク通り近代化という言葉から程遠い有様だった。ロビーには、良く言えばレトロな、悪く言えば時代遅れ感漂う長椅子の列が並んでおり、様々な要件で訪れている人々が自分の順番を或る者はイライラしながら、また或る者はノンビリと座って待ち続けている。その殆どが、顔の皺に日々の生活の疲れと人生を染み込ませた年配者である。


 「15番の番号札をお持ちのお客様、4番窓口へどうぞ」

 案内係のアナウンスと同時にその少女は長椅子から立ち上がった。右手に持ったプラスチック製の番号札に刻まれた数字――『15番』を確認し、踊るような軽い足取りで4番窓口まで進む。その歩調に合せ、活発さと利発さを感じさせるショートボブが左右に揺れる。


 少女は大きく『④』と書かれた窓口に立ち、転居届の書類を提出する。カウンターの奥で対応する中年の男性職員は、受け取った書類に書かれた文字を1つ1つ舐める様に確認している。その間、彼女は自分がさっきまで座っていたロビーを眺めていた。……と、突然名前を呼ばれ、慌てて男性職員の方に振り返る。


 「えーと、フィーナ・オーキスさん……年齢15歳。アストロナイズ市への転居届ですね……間違いありませんか?」

 「はい。間違いありません!」

 「地球からの転居理由は? 差支え無い範囲で結構です」

 「進学のためですけど、それが何か?」

 「いや、未成年の方向けの形式的な質問です。……はい、もう結構です」

 中年職員は、『滅多に見ない美少女と少しでも長く会話していたい』という、窓口係の役得とも言える細やかな欲望をおくびにも出さず、分厚い書類ファイルにボールペンで必要事項を書き込み、あくまで事務屋のプロとしてフィーナの転居処理を終らせた。


 転居の事務手続き(の大部分を占める待ち時間)から解放されたフィーナは、4番窓口から立ち去る際、傍らに設置されていたパンフレット・スタンドからアストロナイズ市の案内地図を1冊抜き取った。三つ折りの案内地図を開くと、大きく描かれたアストロナイズ市の断面図イラストを取り囲むように『同市誕生の歴史』、『観光スポット』、『各種公的機関の連絡先』といった情報が記載されていた。


 その説明書きによると、アストロナイズ市の歴史は今から約200年前――地球人類による宇宙開拓が本格化した頃、宇宙開拓企業アストロナイズ社が月面・ゼノンクレーターに資源採掘基地を建設した事から始まったという。当初は技術者・作業員及びその家族500余名の居住区のみだったが、アストロナイズ社の成長と合せて入植者も急激に増加。その後、幾度かの再開発工事を経て階層型地下都市ジオフロントとして生まれ変わり、アストロナイズ社の企業城下町という意味も込めてアストロナイズ市と名を変え今日に至るそうである。現在の人口は1000万人以上に達するのだとか。


 市役所入り口の自動ドアから外に出たフィーナは、改めて街を見回す。地球で生まれ育ったフィーナにとって、各階層を仕切る天井(上の階層にとっての地面)と街の中心を貫く巨大エレベーター・シャフトの存在は特に奇異な物に感じた。この世界には自然の空という物が無く、朝・昼・夕・夜といった日照や天候の変化、季節までも、全て人類の持つ科学技術によって再現されているのだ。深呼吸をすると体内の毛細血管の隅々にまで成分調整された空気が行きわたり、名実共に月面都市・アストロナイズ市の住民になった事を実感した。


 春は出会いの季節である。進学や就職のため、彼女と同じように新しい環境で新生活を始める人も多い事だろう。尊敬出来る教師、頼もしい先輩、何でも相談出来る親友達。これから訪れる新たな出会いに胸膨らませるフィーナだったが、市役所から出てきた直後、彼女が出会ったのは愛車のトラブルだった。市役所の駐輪場に停めておいた白いスクーター。その右ハンドル付け根にあるスターター・スイッチを押してもモーターが始動しないのである。


 引っ越したばかりで土地勘の無い街。

 フィーナは故障したスクーターを押しながら、案内地図を手に道行く人を捕まえては修理工場の場所を訪ね歩いた。徐々に繁華街から離れ、街外れにある『ゲルマー修理工場』の看板を見つけた頃、辺りは夕刻を意味するオレンジ色の光で染め上げられていた。


 『ゲルマー修理工場』の店先ではコンクリ床に腰を下ろしたツナギ服の少年が、バイクのメインフレームにTIG溶接を施している最中だった。フィーナは凄まじい輝きを放つアーク光を直視しないよう気を付けながら、十分な強度を保証する美しい溶接痕ビードに魅せられていた。良く分からないが、恐らくこの少年の腕前はなかなかの物なのだろうと直感した。少年の溶接作業が一段落した所を見計らい、フィーナは声をかけた。


 「あの、すみません」

 少年は溶接用遮光ゴーグルを顔から取り外し、フィーナの方に顔を向ける。首にかけたタオルで額の汗を拭い、立ち上がって腰をメリメリとそらす。顔立ちや背丈から、フィーナとほぼ同じ年齢と思われるが、着慣れた青いツナギ服のヨレ具合から何とも言えない貫禄が漂っていた。少年はフィーナの顔を再度確認すると、取りあえず髪を手櫛で整え、襟を整えてからやっと応じた。


 「いらっしゃい!どんな、ご用件でしょう?」

 「あ、あのスクーターが動かなくなって。ちょっと見てもらえますか」

 少年はフィーナが指差した白いスクーターの傍にしゃがみ込むと、鼻歌交じりで胸ポケットに突っこんであった簡易式マルチテスターを取り出し、探針プローブをあちこちの配線に当て、電気回路の断線箇所を確認していく。マルチテスターの探針プローブが何かの楽器と見間違える程にノリノリのリズムで進める辺り、余程やり慣れた作業なのだろう。フィーナは、彼の背後から作業を覗き込んでいた。


 「配線OK、超電導モーターOK、冷却材も満タンって事は……」

 少年は急に立ち上がると、腰に下げたベルトからプラスドライバーを手に取り、スクーターのプラスチック製ボディを手際良く分解し始める。そして、車体の内部から何本ものケーブルが接続された回路基板を取り出し、その基板からヒューズを抜き取って夕灯ゆうひにかざしてみる。小さなガラス管の内側には溶けて飛び散った素子の残渣がこびりついていた。

 

 「電子制御ユニットのヒューズが飛んでるね。回路のショートは無いようだから、恐らくモーター始動の時に突入電流インラッシュでも食らったかな」

 少年は故障原因を説明してくれているようなのだが、電気回路に疎いフィーナは

彼の言う事を殆ど理解出来ず、無意識のうちにポカンとした表情になっていた。それに気付いた少年は、故障の説明を適当な所で切り上げた。


 「このヒューズなら在庫があるから、ちょっと待ってて!」

 少年は店の奥から新しいヒューズを取ってくると、部品交換とスクーターの組立を手早く終わらせ、右側のハンドルの付け根部分にあるスターター・ボタンを押してみるようフィーナを促す。スイッチを押した瞬間、超電導モーターの軽快な駆動音が響き渡る。フィーナの表情が自然と笑顔に変わって行く。その様子を見て、少年もまた笑みを浮かべた。


 「ありがとう!修理代はいくらかしら?」

 「お客さん可愛いから、タダで良いよ」

 少年は少し浮かれた感じで、右手をヒラヒラと振ってみせる。

 「そんな……、自分の腕を安売りしちゃ駄目よ」

 「え?」

 「あなたは、あなたの持ってる技術を使って立派に仕事をしたんだもの。あなたには、お金を受け取る正当な権利があるわ。……と言うか、私の気が済まない!」

  タダで良いってのに……変わった女の子だなぁと思いつつ、少年は修理の金額を正直に言った。

 「じゃあ……、部品代と手間賃込で2アース50グラン」

 「ちょっと、待ってて。2アースと……50グランね」

 フィーナは財布から取り出した1アース硬貨3枚を支払い、釣りの50グラン硬貨1枚と手書きの領収書を受け取る。その領収書には少年の名が書かれてあった。


 「ニュート・カーバインっていうんだ。カッコ良い名前だね」

 「そんな事言われたの初めてだよ。じゃあ、お客さんの名前も聞いて良いかな?これから、お得意様になるかも知れないし」

 ニュートがダメもとで聞いてみたところ、意外にフィーナは快く応じてくれた。

 「私は、フィーナ・オーキス。宜しくね、カーバイン君」

 「ニュートで良いよ。みんなそう呼んでるし」

 ツナギ服の少年――ニュートは改めてフィーナを見直す。ショートボブに、長い睫毛と頬の曲線美が醸し出す絶妙のコンビネーション。ミニスカートの裾から見える膝小僧を照らす夕灯ゆうひが眩しい。


 「ありがとう。またね、ニュート君」

 ヘルメット越しの籠った挨拶を述べ、スクーターで走り去ろうとするフィーナを

ニュートが慌てて呼び止める。何やら言い忘れていた事があったらしい。

 「同じ様にヒューズが飛ぶようなら、メーカー修理に出した方が良いよ」

 「でもその時は、またここで直してもらおうかな」

 「いやぁ、オーキスさんなら、いつ来ても大歓迎だよ」

 しばし談笑した後、フィーナが話を切り上げた。

 「あ、そろそろ帰らなきゃ。ニュート君、またね!」


 徐々に暗くなっていく夕灯ゆうひ。フィーナを乗せたスクーターは、遠くの街明かりの中へ消えて行った。フィーナのスクーターが残して行った駆動音に心地良さを感じながら、たった今出会ったばかりの少女の姿を脳裏で反芻した。


 清潔そうなショートボブ、光を湛えた大きな瞳、頬の曲線美、春物のミニスカート、キュートさと活発さをアピールするパステル色のスニーカー。彼女自身が自分を知り尽くしたうえでコーディネイトした服装も相まって、全身のどこに注目しても全く隙が無かった。……きっと、とても賢い女の子なのだろう。こんな素敵な女の子が、冴えないバイト店員の自分に『また会いたい』という意味にも取れる言葉を掛けてくれたのだ。ついさっきの出来事だと言うのに、ニュートの脳内では既に事実がかなり脚色されていた。


 大概の場合、このような夢見心地の気分は、想定外の事象により突然破られる物である。今のニュートの場合、それは耳元で鳴り響いたクラクションであった。

 ニュートのすぐそばに停車した軽トラック。その運転席から年配の男性が飛び出してくると、ニュートの肩を掴んでガクガクと大きく揺さぶっただけでなく、左の頬を1発ぶん殴った。


 「馬鹿野郎! 轢き殺されてぇのか!」

 殴られた頬の痛みが、ニュートを現実に引き戻す。笑顔を見せるフィーナの幻はグニャグニャと形を変え、最終的に険しい巌の如き顔に落ち着いた。禿げ上がった頭部には、ごま塩のような短い白髪が申し訳程度に貼り付いている。顔中に刻まれた無数の皺と頑強な溶接用ゴーグルが強烈なインパクトを与えており、信用できる職人の雰囲気を演出している。ツナギ服はニュートの物と同じデザインだが、遥かに年季が入っていた。

 「なんだ、ゲル爺か」

 ニュートが『ゲル爺』と呼んだこの男性こそ、『ゲルマー修理工場』の店主『トニー・ゲルマー』その人である。ニュートがアルバイトを始めた頃は、彼の事を『ゲルマーさん』と呼んでいた。しかし、店主1人バイト1人という関係が数年続くうち、ニュートは彼を『ゲルマー爺さん』と呼ぶようになり、さらに略して『ゲル爺』と呼んでいた。それが何時からなのか、ニュートもゲル爺も憶えていなかったし、お互いに気にもしていなかった。


 「何だは無ぇだろ。大丈夫かお前?」

 「ゲル爺こそ店ほっぽり出して、こんな時間まで何処行ってたんだよ!」

 「ああ、ちょっとな。……それより、荷台から荷物降ろすの手伝えや」

 ゲル爺はそういう言うと、軽トラックの荷台を顎でしゃくった。ニュートは軽トラックの荷台側に回り込み、ブルーシートに包まれた荷物が1つだけ載せられている事を確認した。『荷物』は固定用のラバーバンドでしっかりと固定されているが、ブルーシートによって浮かび上がる輪郭から、恐らくスポーツタイプのバイクらしい事は分かる。

 「大事な荷物だからな。丁寧にやれよ」

 「分かってるって」

 軽トラックの荷台から地面に降ろされた『荷物』。ニュートがブルーシートを剥ぎ取ると、街の明かりに照らされた超電導バイクの曲線を帯びた車体ボディが姿を現した。ニュートはこの修理工場で働くアルバイトという立場上、様々なバイクの車種に詳しい方だと自負していた。だが、目の前にあるこの車両は、彼の知識にも記憶にも存在しないデザインだった。ニュートは、何となくシートに跨ってみた。なるほど、メインフレームの強度も十分そうだ。


 「ちょっと、モーターを動かしてみるか?」

 ゲル爺が投げてよこした起動キーを差し込み、両手でハンドルを掴む。右ハンドルの付け根にあるスターター・スイッチを押すと、鋭い音と共に超電導モーターが駆動開始する。ニュートは耳で聞き取った駆動音、車体から伝わる振動で此のバイクの持つ潜在能力を理解した。まるで、体中の血管や神経がバイクと一体化したような奇妙な感覚すら感じられる。畏怖とも感動とも違う体の震えが、足元を駆け上がって背骨を通り、首筋から夜空に抜けていった。触れてはいけない何かに触ってしまったような気がして、ニュートは反射的にエンジンを切った。

 その様子を見たゲル爺は、高笑いして性能の一部を語り出した。

 「スーパーファインセラミック・ローター駆動、電子制御アンチロック・ブレーキ搭載、10,000回転の200馬力。儂が組立てたオリジナルだぞ。すげぇだろ?」

 「確かに、これは凄いよ。ゲル爺、あんた天才だよ!」

 ニュートは目を輝かせながら、バイクの駆動部や電装系といった隅々まで顔を近づけて眺める。彼の鼻孔から噴き出た荒い鼻息で、ボディ表面が薄く曇る程に。そんなニュートの様子を見て、ゲル爺は満足げに言った。


 「ニュート、そのバイク……、欲しいと思わんか?」

 「そりゃ欲しいけどさ。こんな凄いの買えるほど金持って無いよ」

 「金か、金の心配ならしなくて良い。タダでくれてやる」

 「は?」

 「聞こえなかったのか? タダと言ったんだ」

 今ひとつ話が見えないニュートを前に、ゲル爺がニヤリと笑う。

 「来月からアストロナイズ訓練校に行くんだろ? これは、儂からの入学祝だ」

 「入学祝って……じゃあ、今日店を留守にしたのは」

 「ただ組立てただけじゃ、公道を走れんからな。役所の検査登録に行っとった」

 「ゲル爺ってば、柄でもない事やっちゃって。憎いねぇ、このこの!」

 ニュートは肘でゲル爺の脇腹を軽く突く。だが、やられたゲル爺の方も悪い気はしていない様子である。


 「今日はもう店を閉めて飯にしよう。儂は軽トラを裏に停めてくる」

 照れ隠しに軽トラックの運転席に乗り込もうとするゲル爺。何と言って良いのか分からず暫くモジモジしていたニュートは、ゲル爺の背中に声を掛けた。

 「ゲル爺」

 「なんだ、ニュート」

 「ありがとう」

 親子以上に歳の離れた2人だったが、言葉遣いは荒っぽくとも気心は通じていた。


 お世辞にも広いとは言えない『ゲルマ―修理工場』の店舗。その2階は店主トニー・ゲルマ―の住居となっている。……はずなのだが、実際は膨大な数の機械部品に埋め尽くされた倉庫と化している。窓際に置かれた小さなテーブルと2脚の椅子だけのダイニングは、ニュートとゲル爺の2人にとって『食事』という作業を行う区画でしかない。


 ゲル爺がテーブルの上に使い古しの電磁調理器を置き、さらにボコボコに歪んだ鍋をかける。ニュートは、食糧保管用の棚の前で遺伝子組換トランスジェニックミート缶のラベルを凝視している。

 「ゲル爺。これって何の缶詰?」

 「さぁ、知らん。ディスカウントで安かったんでな。適当に買ってきた」

 「まぁ、市場で売ってたんなら食えないモンじゃ無いんだろうけどさ……」

 ニュートは舌打ちしながら首を傾げ、缶詰の中身を鍋にブチ撒ける。

 「折角だから、これも一緒に煮込んじまえ」

 ニュートの肩越しに伸びてきたゲル爺の右手が、適当に切られた根菜を放り込む。さらに、ニュートは流れ作業の1つと言った感じで調味料を適当に振りかける。そのラベルは掠れて読めないのだが。良い感じに火が通ってきた鍋の中身がグツグツ言い始め、正体不明の肉片と根菜が茶褐色の汁にまみれて揺れている。2人分の丼に取り分け、プラスチック製スプーンを突っ込めば晩飯の出来上がりである。

 

 「いっただきまーす!」

 「うむ。いただきます……」

 席についたニュートとゲル爺は、ただ黙々と食事を摂る。彼らの料理に使われている食材は全て遺伝子改造処置が施されている訳だが、これは彼らの食事に限った事ではない。人類の経済圏が地球だけで完結していた頃は、こういった改良食品に抵抗感を持つ人が沢山いた。だが、人間が宇宙を生活の場にするという事――それは、利用出来る物資・技術は何でも無駄なく使う事を半ば強要される事でもある。

 毎日の食卓は、ある意味この社会の縮図とも言えた。


 「さて、そろそろ帰るよ」

 「おう、また明日な。ヘルメット被るの忘れんなよ!」

 1階に下りたニュートは試乗用ヘルメットが置かれた棚からフルフェイスを1つ手に取り、頭に被る。入学祝にもらったばかりのバイクに跨り、スターター・スイッチを押すと超電導モーターの心地よい振動が体を駆け巡って行く。

 

 「あれからもう、5年になるか」

 ゲル爺は『ゲルマー修理工場』の2階でくつろぎながら、ニュートが運転するバイクの走行音に耳を傾けていた。遠ざかる音に合せ、ゲル爺の意識も昔に戻って行く。――ニュートと出会ったあの頃に。


 5年前のある日の夕方。天気は、気象スケジュールの告知通りの大雨。

 トニー・ゲルマーは、狭い店舗の中でバイクのオーバーホールに没頭していた。その最中、うっかり落としたナットがコロコロと店の外へ転がって行った。ナットが転がる軌跡を目で追った先には、ずぶ濡れの少年が立っていた。どう声を掛けて良いものか分からず、沈黙に支配されたまま、少年とゲルマーの視線が交差する。少年は、ゲルマーの目を見るなり大声で泣き出した。少年に何があったのか? なぜ泣き出したのかは分からない。だが、ゲルマーは少年と同じような子供を過去に何人も見て来ていた。――悲しみと絶望に満ちた目をした子供を。


 ゲルマーは一瞬で事情を理解した。恐らく、この少年は親を失ったのだ。

 宇宙開発が日常化したとはいえ、開発事業は常に事故の危険性と隣り合わせだ。子供にとって世界の最先端で働く肉親は誇りである。と、同時に万一の事故で失った時の喪失感も大きい。例えば、宇宙船の船外作業員が宇宙空間に放り出された場合、遺体が永遠に発見されない事も大して珍しくは無い。そんな境遇に突然突き落とされた『宇宙開発遺児』と称される保護者を亡くした子供は皆、大抵この少年の様な目をしていた。


 ゲルマーは少年を修理工場に招き入れ、風呂に入れてやった。少年が入浴している間、濡れた服を乾燥機に放り込む。その際、偶然目にした衣服の名札には『ニュート・カーバイン』と書かれてあった。その後、連絡先を聞き出した彼は『メアリー』と名乗る少年の母親と面会する事になるのだが、彼女もまた気丈に振る舞っていながらも不安を隠しきれない様子だった。彼女の頬には涙の跡があり、ニュートを迎えに来るまで夫の死に打ちひしがれ、泣き崩れていたのだろう。ゲルマーは深く詮索しなかったが、予想通りニュートの父は宇宙開発関係の事故で死亡したのだろうと察した。


 「ゲルマーさん!」

 次の日から、ニュート少年は失った父の背中を求めるように『ゲルマー修理工場』へ遊びに来るようになった。とはいえ、単に遊ばせておく訳にも行かず、戯れに簡単な手伝い等をさせる事にした。それから5年。あの日、雨の中で泣いていた少年は成長し、今では『ゲルマー修理工場』のアルバイト店員になっていた。

 「いつの間にかナマ言うようになりやがって……」

 ゲル爺は目を細めながら、ニュートの成長を改めて祝福した。


 新品のバイクで繁華街の道路を突っ走るニュート。新品同様の超電導モーターは絶好調そのもの。彼は愛車のクセを既に自分の物にしていた。離れて暮らす母親へ久しぶりにメールでも出してみるか……などと考えているうちに、自宅マンションの駐輪場に到着。起動キーを抜いて部屋に向かおうとしたその時。

 「ニュート・カーバイン君だね?」

 背中越しに聞き覚えの無い声がニュートを呼び止めた。ゆっくりと振り返ると、やはり見覚えの無い男性が立っていた。

 「はい。ニュート・カーバインは僕ですけど……おじさん、誰?」

 「これは失敬。私は、オルダー・バナード。アストロナイズ社で働いてる者さ」

 オルダーと名乗る30代と思しき男性は、そう言って二つ折りのパスケースを

手慣れた感じに開いて社員証を提示した。アストロナイズ社で働いていると言ったが、実際にはグループ企業の1つ『アストロナイズ・セキュリティ』という会社の社員らしい。

 「実は君のお母さんについて少し話があるんだが、……時間はあるかな?」

 オルダーの言葉を聞き、ニュートの心の中で嫌な予感が首をもたげ始めた。それは、普段なるべく考え無いようにしている万一の場合の事であった。

 「母が……、母がどうかしたんですか!?」

 ニュートの掌に汗が滲み、また小刻みに震えていた。


 

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